第百三十一話 「再び、旅へ」
翌日。
道具屋の窓を開けると、春の陽光が差し込む。
埃をまとった床板にも斜めに陽が射し込み、わずかに浮かんだ塵の粒がきらきらと舞う。
俺たちは一年半ぶりに道具屋の掃除をしていた。
「フェイ! 見て見て!」
店の奥、カウンターの上に立ち上がったマリィが、誇らしげに布巾を掲げる。
その表情は、まるで子犬が尻尾を振って褒めてほしいとねだっているようだった。
「おっ、綺麗になったな!」
俺が穏やかに返すと、マリィはにへらっと笑って再びカウンターを撫でる。
掃き掃除は俺の担当、拭き掃除はマリィ。
店内は思いのほか汚れていたが、二人で黙々と磨いていけば昔の温もりが少しずつ蘇ってくる。
「なかなか上手いじゃないか。犬の頃は泥まみれの足で汚してばっかだったのにな」
「むぅ……そんなこと言わないでよ」
ぷくっと頬を膨らませて、ぷいと顔を背ける。
基本的にマリィの性格は受け入れてくれる相手には懐っこく、慣れた相手にはデレデレだ。
しかし、やはりクリスの魂が影響しているのか、人の姿になってからはちょくちょくツンデレが混じっているように感じる。
そのことを悩んでいた彼女だったが、どうやら適応したらしい。
昨日までの泣き顔は、既に消え去っていた。
「はは、ごめんごめん。でも、すごいぞ」
「はわっ!?」
そっと頭を撫でると、マリィは一瞬でピンと背筋を伸ばし、固まった。
そしてそのまま顔を真っ赤にして猫のようにしゅばっと逃げる。
──元・犬のくせに。
「あ……触らない方がいいか?」
苦笑しながら問いかけると、マリィは壁際で体を小さくしながら、もじもじと手を弄った。
「そ、そそ、そんなことはない……けど……」
耳まで真っ赤に染まっている。
……間違いなく“意識”してしまっている反応だ。
しかし、そんなに恥ずかしがられると、こっちまで照れてしまう。
うーん。
少し整理してみるか。
俺とクリスは、最後に愛を伝え合った。
自分で言うのもなんだが、クリスは俺のことを恋愛対象として見ているのだ。
だからクリスの魂に影響されたマリィも恐らく、本人の気持ちとは別に、俺を意識してしまっている。
いや、マリィ自体の気持ちがどうかはわからないが、少なくとも犬の頃はそんな感情はなかったハズだ。
あくまで友情か、もしくは家族愛止まりで、せいぜい兄弟や相棒って言葉がしっくりくる、そんな関係だった。
だから……マリィがクリスのような見た目になり、性格も受け継いだからと言って、マリィをそんな目で俺が見るのは……少し違う気がする。
それに、マリィだって嫌だろう。
今まで友達として見てきたのに、自分の好きな人の見た目や性格になったから好きだなんて言われて、嬉しいわけがない。
正直、今の俺はマリィに恋愛感情は抱いていないが、できるだけ意識しないようにしなければ。
「フェイ……?」
困ったような声に我に返る。
気づけば、マリィが少し不安げにこちらを見上げていた。
「あぁ、悪い。ちょっと、アステリアにどう行くか考えてただけだよ……」
誤魔化すように笑うと、マリィは「ふーん」と呟き、細めた瞳でじっと俺を見つめる。
そうだよな……ごまかせてないよな、これは。
「アステリア……戦争状態って聞いてるけど、ベルギスくん、大丈夫かな……」
しかし、マリィは俺の気持ちを察してくれたのか、話を合わせてくれるようだった。
すまないねぇ……四歳に気遣わせてしまうアラサーで……。
「ああ。アイツならなんとかなるとは思うが、やっぱり心配だよな」
……それに。
アステリアには“女神の剣”がある。
クリス、マリィ、そしてアルティアとどう関係しているのかは、まだわからない。
マリィにはこのことを伝えてはいないが、その情報を彼女に伝えるのは──今じゃない。
証拠もないのに、大魔王が夢に出てきてとか、女神アルティアとお前は繋がっているかもとか言ったところで、彼女の不安を煽るだけだ。
「ロベルトおじさんに船を借りるのは? 確か貸してくれるって言ってくれてたよね」
棚の上を拭きながら、マリィが振り返らずに問いかける。
「……うーん、考えたんだけど、ナシだな」
「どうして?」
「長い航海には、それなりに大きな船が必要だ。大陸間の移動となると、尚更な」
俺は箒を立てかけながら、ぽつりと続ける。
「でかい船は、それだけで人手が要る。俺とマリィの二人じゃ、操縦も維持も無理だ。囚人船もそうだったろ? あれも、何人もが動いてやっとだった」
「うん」
「だから、伯爵の申し出は断った。それに──今の海は危険なんだ。魔物も活発になってるし、幾つもの船が沈められ、命が失われてるらしい」
「そっか……」
その言葉に、マリィは少しだけ目を伏せる。
……暗い空気になってしまった。
黙々と二人して掃除を続ける。
アステリアでは、未だ戦争の終わりが見えていないらしい。
本当に、今目指していい場所なのか……。
オルドジェセルも、今のところあいつがまた夢に出て来る気配はない。
『断頭台の姫君──彼女と上手く踊るがいい』
ヴァレリスを出る前に、彼に言われた言葉。
あれは、マリィのことだったのだ。
アルティアの半身であるクリスを宿した存在。
漠然と、彼女をアルティアが眠っている女神の剣のところにつれていけば、何かが起こると期待している反面、他にやることもないというのが現状。
しかし、俺としては戦争の地なんて怖くて行きたくないのが本音だし、マリィを危険に晒すのもごめんだ。
俺は……『未来を知る者』として、何をすべきなのか──
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「……綺麗になったね」
「あぁ、これなら店を復活させてもやっていけそうだな!」
「ふふ、お客さんなんて誰も来ないよ……」
数々の作業を経て、道具屋の掃除は終わった。
棚は磨かれ、床は光を反射するほどに輝き、カウンターの木目がかつてのように姿を取り戻した。
クリスの私室も、布団は干し、ソファも綺麗に掃除した。
ふぅ、と俺が肩を落としてソファに腰を沈めると、マリィも隣にそっと腰を下ろす。
「でも、またここで暮らしてもいいかもな……。サイファーたちじゃないけど、転移魔術だってあるし、カンタリオンで冒険者の仕事をしながら、ひっそりと知る人ぞ知る道具屋を経営だなんて、ロマンあるだろ」
ソファにもたれ、俺はふっと息を吐いた。
窓の外では、風に乗って花弁がふわりと舞っている。
荒らされた故郷だが、自然はゆっくりと戻ってきていた。
「私も……一緒にするの?」
「当たり前だろ。俺とマリィは家族だ。前みたいに一緒に暮らして、おはようからおやすみまで傍にいて、冒険もしながらな……」
クリスは、今もマリィとなって生きている。
ならば、俺たち"三人"はまた同じように戻れるのだ。
恋人──ではないけど、家族なんだから、それでもいい。
「ふふっ、勝手に決めて……しょーがないなぁ、もう」
────ッ。
その一言に、何かが胸を衝いた。
わかっている。
その言葉はクリス本人ではなく、彼女の口癖まで継承してしまったマリィが何気なく放ってしまった言葉というのを。
けれど、振り向くと、本当はアイツがいてくれるような気がして──
「……っ……」
ぴと……と、ソファについていた俺の手に、背後から触れてくる指先の感触。
「……ん?」
温もり。
それは触れたというより、迷っていたものがようやく辿り着いたような、そんな震える体温だった。
思わず視線を落とす。
マリィはビクッと小さく震え、そのまま目を逸らしてしまった。
「な、なんでもないっ!」
顔は茹で上がったトマトみたいに真っ赤。
手はすぐに引っ込められ、ソファの端にちょこんと縮こまる。
……もしかして、俺の手に自分の手を重ねようとしていたのだろうか?
そんなの、好きにすればいいのに。
「手を繋ぎたかったのか?」
俺は手を持ち上げ、マリィの方へ差し出す。
しかし、マリィはボン、と顔から煙でも上げるようなリアクションをして──
「つ、繋ぎたいとか言ってない!!」
マリィは耳まで真っ赤に染めて、ソファの端に飛びのいた。
まるで火傷でも負ったような大げさな逃げ方で、思わず笑ってしまいそうになる。
──けれど、それを笑いに変えられないのが、今の俺だった。
その震えた指先の温もりが、まだ手のひらに残っている。
マリィ的には触れたいけど、ツンデレ成分が邪魔しているのだろうか。
自分でもどうすればいいかわからないくらいの気持ちを抱えて、震える手で、ためらいながら差し出した小さな“想い”。
よく考えれば、それを俺は軽く受け取ってしまっていいのだろうか──そんなことを思えるほどに、マリィは今、複雑な状況にいるのかもしれない。
「え、でも──」
言いかけた瞬間。
「フェイ、マリィ」
一階から、レイアさんの声が届いた。
俺たちは反射的に顔を見合わせる。
マリィも、頬を赤く染めたまま、小さくうなずいた。
階段を下りると、レイアさんは玄関近くに立っていた。
いつも無表情で感情が分かりづらい彼女の横顔には、珍しく“躊躇”の色が滲んでいるように見えた。
「どうしたんだ? そんな顔して」
俺の問いに、彼女はゆっくりと顔を上げると、少しだけ目線を泳がせるようにして、ぽつりと──
「アステリア大陸へ行く方法が……あった」
「えっ」
プレーリーでノスタルジックに浸っていたのも束の間。
再び俺とマリィの波乱の旅が、始まろうとしていた。