第百三十話 「ツンデレマリィ」
夕食時になっても、マリィは帰ってこなかった。
食卓には、今日彼女が用意してくれたスープと、香ばしく焼かれた黒パン。
それぞれ、湯気を立てたままテーブルの上で、待ちぼうけを食らっていた。
「……フェイ、呼んできてくれ」
スプーンを置きながら、レイアさんがぼそりと呟く。
背を丸めたままのサイファーも、目を伏せて頷いていた。
「あぁ……」
俺は椅子を引き、静かに立ち上がる。
──なんか、前もこんなことあったな。
胸の奥が妙にざらつく感覚。
あの時は好きと言っただけで、こんなふうに距離を置かれたわけではないが、よく似た過去がある。
そう──
クリスが寝ている隙に、襲おうとしてしまったあの朝。
あの時も、怒った彼女に距離を取られてしまった。
扉の隙間から俺の様子を覗いていただけだったから、見つけるのは簡単だったけど。
「……どこ行ったんだ、あいつ……」
裏庭にもいない。
通路を抜けた先にある魔物たちの檻にも、マリィの姿はなかった。
まずい。
ちょっとからかったつもりだったが、思っていたよりも彼女の心はずっと繊細なところにあるのかもしれない。
思春期の女の子の気持ちにいつになったら気づけるんだよ、俺。
外に出る。
空には雲が流れ、群青の帳があたりを包み込もうとしていた。
そして──
「……いた」
崖の先端、落ち葉を押しのけるようにして座る、白い影が見えた。
腰を下ろし、膝を抱え、じっと崖の向こうを見つめている。
マリィだった。
「……こんなところにいたのか」
俺がそう声をかけても、マリィは振り向かない。
ただ、崖の下──プレーリーだった地を見下ろしたまま、沈黙を保っていた。
「……帰ろう。せっかくお前が作ってくれたスープが冷めちまう。俺、楽しみにしてたんだよ」
隣に立ち、静かにそう語りかけると──ようやく彼女の唇が、微かに動いた。
「……ご、め……」
「ん?」
耳を傾ける。
その声には、嗚咽が混じっていた。
「……ご……めん……嫌いじゃ、ないの……」
声を出そうとしても、すぐに涙が溢れ、塞がれてしまう。
その震え声を飲み込みながら、それでもマリィは、ひたむきに言葉を繋ごうとしてくれていた。
「本当は……フェイが帰ってきて、すっごく嬉しかった。……抱きつきたかったし、いっぱいお話したかったし……今日のスープだって、ほめてもらえたら嬉しいなって……」
顔を上げないまま、彼女の声は震えたままだ。
「でも……でも、なんか……フェイの顔を見ると、どんどん恥ずかしくなってきて……わかんないけど……手が、勝手に動いちゃって……叩いたり……したくないのに……」
小さな手が、きゅっと自分の膝を握りしめる。
「“わたし”は嬉しいのに……“わたしの中にいるあの子”の気持ちが……それで、フェイに……嫌な言葉を使ったり……叩いたり……気持ちは同じはずなのに……」
「……っ……」
その言葉に、声が詰まる。
同時に彼女の喉を詰まらせるような苦しげな嗚咽が、闇に吸い込まれていく。
「……ごめ……ごめん、なさい……」
謝罪の言葉を繰り返しながらも、彼女の目からは涙が溢れて止まなかった。
──ああ、そうか。
今のマリィにとっては、それが“罪”なのか。
「バカ」だなんて暴言。
手で叩いたという暴力。
それは、マルタローだった頃──暴言や暴力を嫌というほど浴び、虐げられ、いつも恐れながら生きていた彼女にとって、あり得ない行動だったのだろう。
「怒ってないし、あの行動はマリィから出たものじゃないって、ちゃんとわかってるよ」
「ほんとう……?」
俺の言葉に、マリィはおずおずと俺を見上げてくる。
俺にとってはあんなこと、些細な冗談でしかない。
だけどマリィには、理由も分からず誰かを叩くことも、きつい言葉を吐くことも、自分が自分じゃなくなるような恐怖だったのだろう。
その“誰か”の存在。
──クリスの魂が、マリィの中に"いる"。
「……わかってるんだな。マリィの中に、“アイツ”がいるって」
「うん……」
問いかけると、マリィは鼻をすするような音を立てながらも、こくりと小さく頷いた。
「じゃあ、俺を叩いたり、暴言を吐いていたアイツのことを……マリィは、嫌いなのか?」
その質問に、マリィは顔を自分の腕にうずめ──ふるふると、首を横に振った。
「ううん……大好き」
それは、ひどく、ひどく優しい声だった。
「……そうか」
俺は隣に腰を下ろし、彼女の頭にそっと手を置いた。
抵抗はなかった。
ただ、涙に濡れたその小さな身体が、わずかに肩を揺らしただけだった。
しばらく、二人して黙って崖の下を見下ろす。
そこには、荒野と化したプレーリーの村が、朧げに見えていた。
みんなの墓と、かつての道具屋の建物が、まだ形を保っている。
「あそこで暮らしてたの、覚えてるか?」
「……うん。幸せだったよ」
その言葉に、胸が熱くなる。
俺と、マルタローだったお前と、クリスと──あの場所で過ごした時間は、確かに在ったんだ。
思えばたった一年半で、いろんなことがあったな。
「じゃあさ、帰ってみるか? 久しぶりに」
「……うん、帰りたい」
マリィは涙を拭うこともせずに微笑む。
その笑顔は、泣き顔と笑い顔が入り混じっていて、どこか子供のように無防備だった。
俺はそっと手を差し出す。
マリィは一瞬だけ戸惑ったあと、迷いのない仕草でその手を握り返した。
細くて、温かい、人の手。
「サイファーとレイアさんは……ちょっと、待たせておこうか」
「……うん」
「転移魔術──」
微かな光とともに、空間が揺らぐ。
その裂け目の向こうに懐かしい山裾の風景が見えた。
俺とマリィは、手を繋いだまま、あの時間へと歩み出す。
転移の光が消えた時、俺たちはあの懐かしい道具屋の前に立っていた。
以前は壁に大きな裂け目があったはずだが、今は──
「……埋まってるな。土で」
指先で触れてみると、綺麗に固められた粘土質の地面。
恐らく、レイアさんが気を利かせて、俺たちがいない間に土魔術で補修してくれたのだろう。
「……ほんと、こういうとこ優しいんだよな」
俺は扉に手をかけ、そっと押し開ける。
──ぎぃ……
少し重くなった木の軋む音。
誰もいないはずの空間に、懐かしい音が満ちた。
中は、時間が止まったように、あの日のままだった。
木の香り。
埃の匂い。
棚にはかつて売られていた品々がそのまま並び、カウンターの上には、世話をしていた鉢植えの植物が枯れた姿で残っていた。
「……ただいま」
ぽつりと呟くと、その声が店内の空気を少しだけ動かした気がした。
入り口のすぐ横。
そこには、あの頃マルタローがいつも転がっていたクッションがあった。
ちょっと潰れていて、カバーの隅には──
「えへへ……私の毛、まだ残ってる」
マリィがそっとしゃがみこみ、クッションの上に手を置く。
その手は優しく震えていて、彼女の目はまるで過去の自分を見つめるように潤んでいた。
魔物だったマルタローの、あたたかさと寂しさが詰まった場所。
それが今、マリィという名の少女に引き継がれている。
俺たちは店舗の奥へ進んだ。
キッチンは相変わらず木の造りが軋んでいるが、あの日々のぬくもりが残っていた。
「ここでクリスがよくご飯作ってたな……文句ばっか言ってたけど、なんだかんだ上手いんだよな」
手触りを確かめるように、キッチンの天板を撫でる。
埃はうっすら積もっていたけど、その下には手入れされた木の温もりが残っていた。
「……あーあ、こんなになって……たまには戻って、掃除とかもしないとなぁ」
「そうだね」
日々喧嘩をして、笑い合って、泣いて、怒って──それでも最後には一緒にいた、俺たちだけの居場所。
どれだけ埃まみれになっても、その価値は変わらない。
二階へと向かう。 階段の軋みさえも懐かしい。
──クリスの部屋。
ベッドと棚付きの机とソファが一つあるだけの、殺風景な空間。
それでも俺には、ここが世界でいちばん感情が渦巻いた場所だった。
「ここでさ……何度も喧嘩した」
「うん、その時の私は、クリスが怒っているのを見て、なんて悪い人なんだって思ってた」
「はは……そうみえちゃうか」
ぽつりと口にすると、マリィが俺の横に立ち、真剣な顔で部屋を見回す。
「クリスはな、怒るとすぐ魔術を使おうとしてきたんだよ。お前も見てただろ? 何度も燃やされそうになってな……」
「うん、でもそれは……」
「ああ。嫌な記憶じゃないんだよな。むしろ、全部……嬉しかった」
マリィは何か言いかけて、やがて小さく首を傾げた。
「それって、好きなのに意地悪しちゃう……ってこと?」
「ん〜……まぁ、あいつの性格だろ。素直じゃないっていうか……俺のこと、嫌いだから攻撃してたわけじゃないよ。そういうやつなんだ。ツンデレ……って言ってもわかんないか」
そう言った時、マリィはふっと笑う。
「ふふ……わかんないけど……なんとなく、わかる気がする」
「そっか」
先程まで泣いていたのは嘘のように、自分の行動に薄々と理解した笑顔が、そこにはあった。
ここに来て、クリスの行動を思い出して、その暴力的な行動が"悪"ではないと悟ったらしい。
「だって、あの子……ずっとフェイのこと大好きなんだもん。さっきもね……叩いた時も、バカって言った時も……ずっと愛で溢れてた……」
「……ッ!?」
唐突なカミングアウトに、俺の方が恥ずかしくなる。
いや、いいんだけどね。
そういうことは、言ってあげない方がいいと思うの。
だってきっと、お前の中のクリス、恥ずかしくて死んでしまいそうになってると思うから。