第百二十七話 「ただいま」
澄んだ空気。
湿った落ち葉。
鼻に刺さる木々の香り。
すべてが、プレーリーの“山奥”に帰ってきたことを告げていた。
だが、目の前にいた二人は、それどころではないようだった。
「…………」
腕を組み、沈黙のまま俺たちを睨むのは、Sランク魔物使い、サイファー。
その隣ではレイアさんが「む」と声を漏らしながら、俺とマリィを交互に見つめている。
うーむ、マルタローをまた連れてくると二人に言ってからというもの、思いのほかシュヴェルツに長居してしまったから、こっちに来るのが遅れてしまった。
始祖の魔物、いや、神威を覚醒させた件があるからとっとと顔見せたほうがよかったかな……。
怒られたら適当に言い訳しよう。
咳払い一つして、俺はマリィの背を軽く押す。
「ほら、マリィ。挨拶だ。練習しただろ」
「うんっ!」
ぱっと顔を明るくして、マリィは二人の前に進み出る。
この二週間、人として生きるため、礼儀や言葉遣いも学んできた。
そして今、彼女は誇らしげに──
「こんにちはっ! マルタローこと、マリィですっ!」
ぺこりとお辞儀をする。
くるんと揺れる真っ白な髪。
笑顔には一片の曇りもなかった。
「プレーリーハウンドの姿じゃなくなっちゃったけど、これからもよろしくお願いします。サイファーおじいちゃん! レイアおばあちゃん!」
「…………え?」
サイファーが、絶句した。
「ほぉ……」
レイアさんは、腕を組んだまま目を細め、ゆるく頷く。
……あ、そうか。
“人型になった”とは伝えたけど、“女の子になった”とは言ってなかったな。
「……え、ちょ……女の子…………?」
サイファーがマリィをふるふると指差す。
見開いた目は乾ききった空豆みたいに丸く、口は開いたまま半笑いだ。
「あのマルタローが……え……まさか……いや……嘘……違うだろう……?」
ぽつぽつと口からこぼれる独白が、崩れていく精神のバロメーターそのままだ。
混乱しきったサイファーを横目に、俺とマリィは続いて魔物たちの方へと歩き出す。
──次の瞬間。
「ガウッ!!」
「うおっ!?」
轟音と共に飛び込んできたのは、チェイシーだった。
その巨体で俺に抱きつき、前足を器用に巻きつける。
あばらがミシッと悲鳴を上げた気がした。
それを皮切りに、ティクロが優しく歩み寄り、ミスティが高らかに鳴きながら宙を舞う。
「ゴウ……!」
「ピィィィィイイイ!! ピピルピッ!! ッッピ!!」
「みんなーーっ!!」
マリィが両手を広げ、弾かれたように魔物たちの中へ駆け込む。
まるで、親しい家族に飛び込むように。
「そうだよっ、マルタローだよ! でも今はマリィって呼んでね!」
ティクロがその大きな手で、まるで卵でも扱うかのようにマリィの頭を撫で、ミスティは彼女の髪の上に着地し、嬉しそうにさえずる。
チェイシーもマリィにじゃれつくように体を擦り寄せ、舌でペロリと舐め──
「くすぐったいよぉ〜!! あはははっ!」
満面の笑顔で笑い転げるマリィの姿に、俺はようやく安堵の息をついた。
(良かった……ちゃんと受け入れてくれた)
人族の姿になった魔物なんて、同族からすら異質に思われても不思議じゃない。
けれど彼らは、何の迷いもなくマリィを受け入れてくれた。
魔物だった頃と何も変わらず。
「……ふぅ……うぅ……ちが……う……嘘だろ……このワシが……見間違うだと……いや、あいつは……」
背後でサイファーが崩れ落ちていたが、まぁ……彼は、しばらく放っておこう。
それよりも──
「……ただいま」
心の中で、そっと呟いた。
プレーリーの森。
マリィの、そして俺の帰る場所。
その柔らかな陽光の中で、久しぶりの再会は、あたたかな時間へと流れ込んでいった。
---
魔物たちは、マリィと一緒に遊んでいた。
ミスティは頭の上でぴぴるぴぴると踊り回り、ティクロは巨躯をかがめて彼女に鼻を擦り寄せる。
チェイシーに至っては、まるで子猫のようにお腹を見せて転がり、マリィの笑い声を誘っていた。
無邪気な戯れは、俺が知るどんな宝石よりも尊く、あたたかい。
──そんな光景を、俺とサイファーは少し離れた場所から眺めていた。
レイアさんが入れてくれたスープを飲むと、ようやく混乱状態から解放されたサイファーがため息混じりに口を開く。
「ふぅ……まさか、女だったとはな……」
「何だよ、わからなかったのかよ! 魔物使い失格じゃねぇか!」
「お前に言われたくないわ」
懐かしいような言い争いが始まる。
だが、その声に張り詰めたものはなかった。
どこか、照れたような、呆れたような──肩の力が抜けた声音だった。
プレーリーハウンドは犬系の魔物だ。
性別の判別なんて、いくらでもできたはずなのに。
考えていると、隣でレイアさんが静かに口を開いた。
「神威は……想いのものへと変化する」
淡々と。
だが、どこか確信を帯びた声だった。
「そこに性別など……関係ないのじゃろう」
「えっ」
レイアさんはちらりと、戯れているマリィたちに視線を向ける。
その琥珀色の瞳に、憐憫でも哀れみでもない、ただ深い理解の色が宿っていた。
「マリィは……なりたかったのじゃろう。誰よりもフェイのそばにいたいという願いが、フェイの一番身近にいた人族の少女になって──」
「あ……」
言葉を失った。
そうか。
そういうこと、なのか。
マリィは。
──ずっと、クリスになりたかったのかもしれない。
俺が心のどこかで諦め、けれど忘れられなかった少女。
マリィは、そんなクリスに似た姿を選び、俺の家族になろうとした。
それは、マルタローだった頃の性別なんて瑣末な問題で。
クリスの魂が混入しているのもあるかもしれないが、ただ純粋に──俺のそばに在りたいと願った結果だったのだ。
胸が、締めつけられた。
愛おしさと、戸惑いと、どうしようもない幸福感が、ないまぜになって。
「あっ」
マリィを見つめていると、サイファーが何かに気づいたように口を開く。
「なんだよ?」
「お前、まさかマリィに変なことしてないだろうな?」
「してねーよ!!」
即座に叫んだ。
何を言い出すんだ、このじいさんは!
まぁ──裸でベッドに潜り込まれたとかは……うん、黙っておくことにしよう。
「俺とマリィは家族だ。そんなこと、あるわけないだろ」
「家族……?」
ずい、と詰め寄るその顔に、俺は一歩も退かず言い返す。
「そうだよ。文句あるか?」
木椀を傾け、スープを一口啜る。
内心では、家族はダメだとか言われないだろうかとも思った。
しかし、マリィも承諾してくれているし、文句を言われる筋合いはない。
しかし──
「いや……お前らがそれでいいなら構わん」
そう呟いて、またひとつ、深いため息を吐いた。
その横顔には、達観とも諦観ともつかない、複雑な色が滲んでいた。
何を考えているのかはわからない。
まぁ、サイファーのことだ。
俺を少し試そうと凄んでみただけかもしれない。
「サイファーおじいちゃん!」
弾むような声と共に、マリィが駆け寄ってくる。
「なんじゃ、マリィ」
「えへへ、遊んでー!」
苦笑しながらしゃがみこみ、サイファーはその小さな頭を撫でようと──した、が。
マリィが屈託ない笑顔で抱きつき、サイファーは数秒マリィの顔を見つめたと思いきや、突然彼の身体がびくりと震えた。
「……っ……!」
小さく嗚咽のような音を漏らし、俯く。
「お、おじいちゃん!?」
マリィが慌てて肩を揺さぶる。
「サイファー!?」
俺とレイアさんも、立ち上がりかけた。
だが、サイファーは手を伸ばして制する。
「……すまん、少し……休む」
かすれた声でぽつりと呟き、よろよろと奥の部屋へと歩いていく。
その背中は、いつもの豪胆な魔物使いのそれではなかった。
今にも崩れ落ちそうな、ただの──老人の背だった。