第百二十六話 「戦火のベルギオス」 【三人称視点】
「チッ……!」
女魔族が忌々しげに舌打ちを鳴らす。 そして一歩、二歩と後退した。
唇を引き結び、こちらを警戒するように距離を取る。
その瞳に、確かに宿っていたのは“戦慄”だった。
(あの矮小な人族の娘が、力自慢の四腕の巨漢の一撃を正面から止めただと……?)
表情こそ笑みを崩さぬままだが、彼女の脳裏では警鐘が鳴っていた。
信じられない。
否、信じたくない。
たまたま角度が良かったとか、タイミングが奇跡的だったとか。
そういう問題ではない。
明らかに"密度"が違う。
相手の“実力”が掴めぬ以上、愚かにして早計な接近は死に繋がる。
様子を見るのが、戦場の鉄則。
魔界の暗部で数多の命を踏み台にしてきた彼女は、その理を誰よりも理解していた。
一瞬の静寂。
その間隙を破ったのは、少女の剣だった。
「──炎よ」
その声音に、詠唱の要素はない。
剣に纏わせた炎が、うねりと共に伸びる。
焔の舌が地を這い、足元に囚われたレオンの氷を舐めるように絡みついた。
まるで炎が“意思”を持っていたかのように、必要最低限の熱量で、的確に、優しく──氷を解かしていく。
「な……なんだ、この炎は……」
レオンは自らの足が自由になったことに驚きつつも、肩に、腕に、鉛のような重さがのしかかる。
戦い続けた肉体が、限界を越えていたのだ。
支えを失った身体が、前のめりに崩れ──
「ちょっと!」
ミーユが素早く手を伸ばし、彼の身体を支えた。
「隊長なんでしょ!? しっかり立ちなさいよ!!」
「ぐっ……すまん……」
そのやり取りは、一瞬だった。
──だが、その刹那の隙を、女魔族は見逃さなかった。
「やれッ!!」
彼女の冷酷な命令が響く。
同時に、周囲に潜んでいた魔族たちが一斉に姿を現した。
影の魔術を操る下級魔族たちが、地を裂き、空を裂き、十数本にも及ぶ“黒槍”を放つ。
闇より生まれたそれらは、鋭利な鉛筆の芯のように細く尖り、無数の軌道でミーユとレオンを穿たんと襲いかかった。
「まずいッ!!」
レオンが目を見開く。
避けられない。
自分はもう動けない。
ミーユも、この距離からでは彼を庇う以外に選択肢など──
「チッ……ウザいやり口ね」
軽い声と共に、ミーユはレオンの身体を軽々と弾き飛ばした。
それはまるで、ボールを放るかのような軽快さ。
「なっ……オイ!? なにを──!?」
空中を転がる中でレオンは振り返る。
全ての黒槍が、少女一人に向かって迫る光景を。
(あの距離、あの数……! 避けられない……!)
影の槍は、一撃一撃が致命傷。
それが十数本、全方位から襲いかかる。
しかし、彼女は避けることすらしない。
その刹那──
黒槍が地面を抉る轟音と、強烈な土煙。
次の瞬間、黒槍が“貫いた”はずの少女の身体が、ぼやけて揺らいだ。
──否、“抜けた”。
影の槍が、確かに突き刺さったはずの肉体が、“すり抜けて”いたのだ。
「な……!?」
女魔族の目が見開かれる。
眼前の少女は、確かにそこにいた。
だが、彼女の肉体はまるで炎そのものだった。
皮膚の下、骨の奥、血管に至るまで、すべてが炎の理で構成されていたのだ。
黒槍は彼女の肉体に命中した。
だが、炎そのものを貫くことなど出来ない。
逆に、槍の方がその炎で焼け、崩れ落ちていく。
「ふーん……」
剣を肩に担ぎながら、ミーユが足元の槍の残滓を見下ろす。
「……はぁーあ。せっかく全力出せるかもって思ってたのに、何よこのシラける展開」
その声音には、怒りはない。
ただ、“圧倒的な事実”として、相手を見下ろしているだけだった。
「ミーユ!!」
風を切る声と共に、ベルギスが駆け寄る。
その腕には、先ほどミーユによって放り投げられた男──レオンが抱えられていた。
彼は肩で息をし、意識はあるものの、既に戦える状態ではない。
「ベルギス! その隊長の保護をしなさい! ここは私が一人で──あぎゃっ!?」
背を向け、涼やかに言い切ろうとしたその瞬間。
炎で出来ているハズのミーユの後頭部に、ベルギスのげんこつが炸裂した。
「いっっったいわね!! ちょっと、何すんのよ!!」
「前に出るなって言っただろ!! なんでそうやっていつも熱くなりすぎるんだ!」
痛みで涙目になりながら、ミーユはぷるぷると抗議する。
「な、なによ!! 私が前に出たからレオンって人は助かったんでしょ!? それに、殲滅なら私の方が向いてるじゃない!? やらせてよぉ!!」
手をバタバタと振りながら反論を浴びせる彼女だったが、ベルギスは冷静にレオンの方を見る。
氷こそ溶けたが、まだ身体は冷え切っていた。
「……凍傷の処置もお前の方が向いてる。彼の命を助けたなら、最後まで面倒みてやれ」
「……っ、ぐ……ぅぅ~~、わかったわよ……!」
顔を真っ赤にしながら、頬を膨らませて振り返る。
氷が溶けたばかりのレオンの体を支え、そのまま担ぎ上げるようにして背中におぶった。
「す、すまない……」
「がぁあああ!! 謝るなぁ!! 私が惨めじゃない!! 次謝ったら怒るから!!」
焔のぬくもりを背に帯び、ミーユは火花が爆発するように激怒しながら消えていく。
──そして。
その茶番とも取れるやり取りに、女魔族の心は、軋んでいた。
「ふ、ふざけるなぁああああああああッ!!」
絶叫と共に、闇の中から引き出されたのは、漆黒の鎌。
人の頭身を優に超えるほどの刃が、叫びと同時にベルギスへと振り下ろされる。
その一撃は、恐怖と憎悪と劣等感の塊だった。
このままでは尊厳が崩壊する。
だからこそ、刃に全てを乗せていた。
──が。
「……間合い取りが甘いな」
鈍い音と共に、刃が止まった。
目にも止まらぬ速さで、ミーユを見送っていた隙だらけのはずのベルギスの背から抜かれた剣が、巨大な鎌を“見もせずに”受け止めていた。
ぎりぎりと軋む鎌の刃。
それでも、ベルギスの剣はまったく動かない。
「大鎌は手前に詰められると、何もできなくなる」
淡々と、まるで講義をするかのように告げるその姿に、女魔族は絶句する。
「……クッ……!」
言葉が出ない。
それでも諦めず、彼女は後方に控える仲間たちに向かって叫ぶ。
「バカが……一対一ならな!! やれッ!!」
咆哮と共に、背後の巨漢が動いた。
四本腕の魔族。
大地を揺らす一歩と共に、その四本の剛腕を大岩のように纏め──咆哮と共に振り下ろす。
「グオォオオオッ!!」
雷鳴のような轟音と共に、鉄塊のような拳がベルギスの頭上を狙って振るわれた。
それはまさしく質量そのものの暴力。
通常の人間なら、触れた瞬間には粉砕されているほどの破壊力だった。
だが──
「……甘いな」
ベルギスは、その殺意に満ちた一撃を“空いていた片腕”だけで受け止めていた。
「グ……オォ……!!?」
巨漢の目が見開かれる。
信じられないという思いが、獣のようなその顔に浮かぶ。
「雷よ──」
ベルギスがただ一言、呟いた瞬間だった。
雨雲も存在しないはずの空から、世界を断つような轟雷が“柱”となって降り注ぐ。
──ズガァアアアアア!!
「グオオオオオオオオオッッ!!」
巨漢の身体が、爆発音と共に白光に包まれた。
その輪郭が溶け、筋肉が灼かれ、鱗が蒸発する。
骨すらも一瞬にして黒焦げと化し、巨体は崩れる岩のように崩壊していく。
──たった一撃。
それだけで、あの剛腕の巨魔は“存在そのもの”を消された。
「なっ……!?」
女魔族が、数歩後退する。
その腕に握られた大鎌が、彼女の動揺を反映するようにカタリと揺れた。
(なんだコイツは……私の大鎌を受け止めながら、あの剛腕を一撃で……? それに、あの身体を包む光は……!?)
恐怖が背骨を這い上がり、意識が揺らぐ。
言葉にならない圧力。
魔力とも違う、“魂ごと圧される”ような神威。
こんな存在、この国にいたか?
(いや……聞いたことがある……十年ほど前──“バカみたいに強い子供”がいたと……)
いや、あり得ない。
聞いていたそいつは、確か去年にザミエラ様が葬ったと報告が上がっていたはず。
「キ、キサマッ!! いったい何者だ!!?」
狂乱寸前の問いかけに、ベルギスは、焦げた巨体を見下ろしたまま、静かに顔を上げる。
「アステリア第一王子──深緑の勇者。ベルギオス・ル・エルド・アステリア」
その名を聞いた瞬間。
女魔族の脳内に、何かがぶちりと音を立てて切れた。
(深緑の……勇者……!?)
絶望。
理解不能。
全てが繋がり、戦慄に変わる。
──この男は、ザミエラすら仕留め損なった“例外”だった。
「ぐっ……だが……!」
震える手で、彼女は大鎌を振り上げる。
その柄は中空構造──刃と共鳴するように空気を振るわせ、“呼び声”のような高音が周囲を貫いた。
その音に呼応するように、この街を攻めていた数十の魔族と魔物たちが姿を現す。
飛翔する魔蝙蝠。
地を這う毒尾の地竜。
槍を持ったリザードマン。
肩に斧を担いだ下位オーガ。
そして、女魔族と同格の中級種らしき者たちまでもが、ぞろぞろと集まり始めた。
「この数に勝てるワケがない!!」
女魔族が絶叫のように吠えるが、ベルギスは無言のまま、ゆっくりと周囲を見渡すだけだった。
そして、彼の耳に付けられた装飾品──そこに嵌められた宝玉が明滅する。
『ベルギィス!! 撤退は完了したわ!! もうさっさと終わらせてよね!!』
声からして、激怒していることは明白。
ミーユからの通信魔術が耳元で炸裂する。
「……わかったから、喚くな。耳が痛い」
『なぁによ!! 人のことも考えない仏頂面が!! それと、後で組手しなさいよね!! 私、全然満足してな──』
「切るぞ」
プツリ、と魔術音声が途絶える。
はぁ、とため息一つして、ベルギスは剣を鞘に納めた。
「……!」
その行為に、女魔族は反射的に身構えたが、彼はただ目を瞑り、ただ静かに、手のひらを天に向けて掲げる。
「どうした……? この数では、さすがに降参か……?」
「…………」
女魔族の問いに、答えはない。
──バチィッ!!
瞬間、掲げられた腕が呻いた。
雷が腕に纏うように現れ、同時に雲などない空に裂け目が生じる。
空間そのものが引き裂かれたかのような轟音。
紫電が奔り、熱気が大気を膨張させ、全ての魔物たちが空を仰いだ。
「まさか……!?」
気づけど、すでに遅い。
「『──轟雷天破』」
──ズガァアアアアアアアアアッッ!!
最後の言葉と当時に、無数の雷光が天から“柱”として無差別に降り注ぎ始めた。
地が裂け、空気が焼け、雷が数十の魔族・魔物たちを容赦なく貫いた。
逃げようとした魔蝙蝠は空中で炭化し、地を這っていた地竜は瞬時に蒸発。
リザードマンの持っていた槍は雷を呼び寄せ、逆にその腕ごと消し飛ばされた。
「ガッ、アァアアアアアアアッッ!!」
それは、先程の女魔族も例外ではない。
次々に。
次々に──雷は降り注ぎ、焼き尽くした。
悲鳴も、吼え声も、苦悶の呻きも。
全てが雷鳴に掻き消されていく。
大地が灼け焦げ、建物の影が焼き潰され、
気づけば、周囲に残されたのは──ただ一人。
ベルギオスだけだった。
鞘に剣を納めたまま。
髪一筋乱さず、空を仰ぎ見ている。
「……終わったな」
淡々と、ただその一言だけを呟く。
撤退できた敵はただの一体として有りはしない。
完膚なきまでの完全勝利。
しかし、雷がすべてを薙ぎ払ったとはいえ、その前から街は崩れていた。
焼かれ、潰され、蹂躙され、希望の声はとうに途絶えていた。
瓦礫と化した家屋。
折れた旗、破れた看板。
赤黒く染まった石畳に、空にすがるように崩れ落ちた兵士と民の影──
「…………」
彼は、静かに目を伏せた。
生き残るために、勝利は必要だった。
だが、救えた命は……果たして、どれだけあったのか。
(これが、現実か)
感傷を拒むように指を鳴らし、胸中の重圧を振り払おうとしたその時──
「ベルギーーース!!」
喧騒の向こうから、激情の声が飛来した。
振り返るより早く、赤い旋風が地を駆け、地を蹴り──
──バキィイイッ!!
「──ッ!?」
音と共に、腹部に衝撃が走る。
華奢な脚から放たれたとは思えぬほどの鋭さで、ベルギスの胴を捉えたその蹴りは、完璧なフォームと殺意を備えていた。
「なんで私にやらせてくれなかったのよ!!」
怒気に染まった少女の瞳が、まっすぐにベルギスを貫く。
朱の髪を振り乱し、戦場に残る硝煙の中で、ミーユは叫んでいた。
「私だって戦えるんだからッ!! そのために……アンタに戦い方だって、教えられたのに!!」
「いや……だから、お前に万が一があると──」
「関係ないわよッッ!!」
地を裂くような声量だった。
空気がビリビリと震え、雷鳴よりも耳を打つ。
その声音の奥に、言葉を超えた“想い”があった。
「……私は、あんたに……恩を返したいの……」
怒りながら叫ぶその瞳が、次第に潤む。
「ヴァレリスで……魔族と手を組んでいたお母様を、言葉だけで翻意させて……国が戦争になる前に、全部解決してくれた。民の命を救って、誰も傷つけずに終わらせてくれた。だから私は……今度はあなたの国を助けたいって、そう言ったのに……!」
紅蓮の剣士──ミーユ。
かつて王妃である母に裏切られ、絶望の淵に立たされていたヴァレリス王国の姫。
国を救われ、誇りを取り戻し、その力に導かれるように旅立ちを許された姫君。
「私は、力がなかったから……あなたに戦い方を教えてって、頭を下げた。何百回も、何千回も。そうして私は……あんたと並び立つために、剣を覚えたのよ!」
震える拳を握り締め、肩を揺らす彼女の姿に、もう気高き姫の面影はなかった。
そこにいたのは、ただ一人の“少女”だった。
「お父様も、私が“本気”だからこそ、旅立つことを許してくれたの……! あなたと一緒に戦うために……!」
涙が零れる。
けれど、彼女はそれを袖で拭おうともしない。
「だから……あなたの為ならこの身なんてどうなってもいい。もう誰かに守られるだけなんて、イヤなの……! エミルだって、私を庇って……!」
空を裂くような告白だった。
周囲に残る瓦礫と硝煙が、言葉の余韻に霞んで見えるほどに。
ベルギスは、長く、深く、息を吐いた。
彼の過去において、“誰かと共に戦う”という選択は常に恐怖と隣り合わせだった。
大切な者を失わないためには、自分が一人でやるしかなかった。
だが──
「……わかった」
その一言に、ミーユが目を見開く。
「じゃあ、次こそは……頼んだ」
「……! うんっ!!」
頬を拭い、弾けるような笑みを浮かべてミーユが頷いた。
その瞳に、涙はあっても、迷いはなかった。
ベルギスは静かに空を仰ぐ。
先程まで雷鳴が荒れていた空は、いつしか群青色の帳を降ろしていた。
「……しかし、ひどい有様だな」
辺りを見渡す。
崩れ落ちた石造りの建物。
焼け焦げた壁。
すすけた兵の盾、砕けた剣──それらはすべて、ここに人の暮らしがあった証だ。
「私たちが、もう少し早く到着していれば……」
ミーユの声が、風に乗って沈む。
「あぁ……だが、俺たちがここに辿り着くまでにも、何度も魔物が待ち構えていた」
「偶然……にしては、手際が良すぎたわよね。誰かが、あの塔から魔物を指揮してたんじゃないかしら」
ベルギスの視線が、遠くの地平線を射抜く。
──そこには、聳える塔があった。
二本の尖塔が空を突くように並び立つ、禍々しきシルエット。
雲すら避けるその威容は、まるでこの大地そのものが“魔に染まった”と告げているかのようだった。
「……あの塔か。魔族たちは、あそこから来ていると言うが……」
「けど、あれだけの規模の建造物だと……下手に攻め込むこともできないわね」
ミーユが唇を噛む。
「……何だろうと、俺たちは進むしかない。この戦争に勝つまでは、誰にも……この国は渡さない」
「そうね……フェイもアステリアに行くって言ってたけど、まだ見つかってないし……」
声が、ふと細くなる。
夕陽が沈み、赤が街の廃墟を血のように染めていく。
「無事かしら、あのバカ」
ミーユの視線が、どこか寂しげに揺れる。
ベルギスは、微かに口の端を上げた。
「……フェイクラントさん、か」
かつて魔王から自分とミーユを救った、村人の名。
彼は、今どこで何をしているかはわからない。
だが、自分たちは進むしかない。
剣を取り、旗を掲げ、信じる者を背に──
燃え落ちる街の片隅で、若き王子と異国の姫君は、再び戦いに備える。