第百二十四話 「想いの燃料」 【三人称視点】
魔王城──中央大広間
六王の玉座が円形に並ぶその神域にて、ただ一人、ザミエラは沈黙していた。
空虚な石の間に響くのは、自らの血が滴る音のみ。
頬を切り裂き、胸を穿ち、腹を貫いた傷が、癒えぬまま次々と再生を繰り返す。
それは命の営みではなく、罰の延長。
王に選ばれし魂が己に与えし“責め苦”──大魔王の怒りそのものだった。
「…………」
覚醒したクリスから受けた傷が、流浪の王子ベルギオスから受けた傷が、一年という時をかけて修復されていた。
だが、聖痕が開き、その身体は再び血に塗れている。
彼女は呻かない。
ヴェインのように喚かず、ロータスのように笑いもせず。
ただ、燃えるような瞳からは、一筋の涙が頬を伝っていた。
深紅の双眸の奥底に宿るのは、屈辱ではない。畏怖でもない。
──憧憬。
千年前、崩れかけた魔界を背に立った男。
炎の檻の向こうで見たその背中は、凛として、苛烈にして、どこまでも孤高だった。
己が信じたものを貫くあの意志に、彼女は“心”を奪われた。
「……ッ……」
それが、今の自分はどうだ。
流浪の王子ベルギオス。
倒したと思っていた存在。
その刃は確かに、自らの身体を刻み、無様な醜態を晒した。
消えたはずの女神の神威を宿す少女によって消し炭にされかけた。
狩りの魔王とあろうものが、二度も死にかけた。
ヴァレリスにて。プレーリーにて。
本来ならば、既存の路線で彼女がこれほどのダメージを受けるということはあり得ない話。
プレーリーを焼き払う際も、エミルを攫う際も、彼女は本来手傷すら負わないはずだった。
故に、彼女は異界の男が改変した影響を一番受けていると言っても過言では無い。
だがそれは、彼女の"成長"にも繋がった。
「我が身を焦がした、想いの力……神威……」
それはかつて、自らが唾棄し、嗤い、侮蔑してきたものの成れの果て。
──愛。
──祈り。
──想い。
馬鹿げている。
そんな感情が何を生む?
何を救い、何を守れた?
己が信ずるものは魔力だけでいい。
けれど、その力は自らを死の淵へと追いやった。
だから、学んだ。
この身をもって、その力の強さを。
そして、思い出した。
千と余年ぶりに触れた"彼"の神威によって、自らが遠い過去に置き去りにした"想い"を──
それは忠誠ではない。
愛慕でも、恋慕でもない。
もっと……どろりとした、形の定まらぬ“熱”だった。
「オルドジェセル、様……」
貴方を“追いたい”と願った。
貴方の横に並ぶ力が欲しいと、心の奥で求めていた。
だが──気づかぬふりをした。
力だけを求め、全てを捨てたふりをして、ただ貴方の背を遠くから見つめていた。
──そして今、その背が振り返った。
この想いこそ、私が嘲笑していたモノに他ならないのだと、気づいてしまった。
「……これが、神威……」
彼女は呟くように、呪うように、そして……どこか憧れるようにその言葉を口にした。
最上級の魔力と、神威の奔流。
神ではない、けれど神に限りなく近い“選ばれた者たち”が紡ぐ、奇跡の総体。
「馬鹿な話だ……」
この世でもっとも忌むべきものだと、笑い、踏みにじってきた。
“愛”。
誰かを想うからこそ、弱くなる。
その絆に縋るからこそ、傷を負い、死へと至る。
女として捨てたはずの感情。
けれど──あの瞬間。
ベルギオスの剣が届いた瞬間、クリスの光に焼かれた瞬間。
彼女の心は震えてしまった。
こんな力は知らない、と。
否。
最初から分かっていた。
ザミエラ・レーヴァレンツ──狩りの魔王と呼ばれ、炎を統べる災厄。
その本質は、誰よりも純粋な“ひとりの女”だった。
故に、もう失態は犯さない。
──認めよう、愛とやらの想いの力を。
「だが……」
彼女は立ち上がる。
燃え尽きかけた膝に力を込め、裂けた足の裏を踏みしめて。
「それを知っても、我は縋らぬ」
炎が、爆ぜた。
身体中の魔力が暴風となって放出され、ホールの天蓋を突き上げる。
だがそれは、魔力だけではなかった。
この身から溢れるのは──神威。
愛の素晴らしさは知った。
だが、我は媚びぬ。
"想い"など、全て己を焦がす為の焔に利用すればよい。
「燃やす。我が想いで、世界を、あの愚かな女神が守ったこの箱庭を──灰に還してみせよう」
その瞬間──
六つ並べられた席、その誰もいないはずの一の席に数百万規模の魂が降臨した。
ほんの一瞬、一刹那、しかしたったそれだけで、その場にいる狩りの魔王を圧死させない桁外れの大霊圧。
『ザミエラ……私を失望させるな……』
深緑の瞳と、黄金の髪をゆらめかせ、傅く彼女に短く告げる。
静かなる雷鳴のような声が、王城全体を揺らした。
それは叱責。
それでいて、突き放すような絶望ではなく、なおも「期待」の色を含んだ、魂への命令。
ザミエラの瞳が微かに揺れた。
「仰せのままに、オルドジェセル様」
その唇に浮かぶ笑みは、かつて彼女が人として笑った最後の表情と、同じものだったかもしれない。
自らを燃やすように──その身に刻まれた聖痕が、再び開く。
燃え盛る魔炎が、神威の器と交わり、紅蓮の旋風となって舞い上がる。
愛と、怒りと、忠誠と、絶望のすべてを燃料に変えた、想念の焔。
「この想いごと……世界を焼き尽くしてやろう」
ザミエラの目が、赫く、赫く輝く。
涙など、とうに蒸発した。
もう何も残さない。
ただ、戦い──燃やす。
──我が"渇望"は、世界を焔で包むこと。
正史から逸れ、記録から漏れ、未来を変える“焔の獣”。
「感謝するぞ。プレーリーの少女よ、ベルギオスよ」
戦火の狼煙は、今──上がった。
「我はこの荘厳なるアルティアを燃やし尽くす者となる」