第百二十三話 「瘴気」 【三人称視点】
魔界──魔王城・地下
石壁に囲まれた閉鎖空間。
湿気を孕んだ空気が、重く、どこまでも沈んでいる。
その中心、円環の魔術陣に囲まれた祭壇の上。
未来の勇者・エミルの母、セシリアは、項垂れて座っていた。
細く透き通る指先に、力はほとんど残っていない。
目元に張りついた汗と涙の痕が、日々の苦悶を物語っていた。
彼女の能力は、生まれながらにして異能と呼ばれる域にあった。
魔術の構造そのものを“無効化”し、概念そのものを消し飛ばす。
封印結界すらも無力化する“干渉解除”の力。
東の大陸・ガルレイア。
獣人、妖精、精霊、亜人……ありとあらゆる種族が共生する混種の大地に生まれ、セシリアは奇跡の子としてその名を知られていた。
若き日には冒険者として名を馳せ、天真爛漫な魔術師として仲間たちに愛されていた。
だが、そんな日々は遠く過ぎ去った。
魔王の手に堕ちてから、すでに十数年。
魔族によって夫は討たれ、長男は自分を探して旅をしていた際に命を落とし、唯一残った次男までもが、魔族の手に落ちた。
エミル。
しかし、彼だけは生きている。
魔族どもの僕として——それでも、命だけは。
それが、彼女に与えられた“最後の希望”だった。
「……ッ……う……」
呻きにも似た声が漏れる。
結界に刻まれた、古代神語の刻印。
女神アルティア自らが封じたというその封印は、理と魔の極限を結晶化したような構造を持っていた。
一年。
それだけの歳月を費やして、ようやく針の穴ほどの隙間が穿たれた。
だが、その“針の穴”からは、想像を絶する量の瘴気が溢れ出ていた。
幾万、幾億もの魂で築き上げられた大魔王の神威——世界を染め上げる毒の奔流が。
セシリアの顔が歪む。
肉体を蝕むのは瘴気ではない。
それを“解いている”自分自身の所業が、何よりも彼女の精神を焼いていた。
世界と息子。
天秤にかけるまでもなかった。
「……エミル……」
震える声が、静寂を破った。
子を思う母の祈り。
贖罪のように繰り返された名を、彼女はこの一年、幾度唱えただろう。
魔術師や妃としての誇りはとうに捨てた。
名誉など、彼女には不要だった。
ただ、息子を——我が子を、救いたい。
母として育ててやれなかったことを、せめて命だけでも。
だが、瘴気は応えない。
ただ静かに、そして確実に、封印の結界を蝕み続けていた。
そしてその果てには——
闇そのものが“息を吹き返そう”としていた。
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ノクタレス大聖堂・礼拝堂——深夜
「……くく、くふふ……ははは、あぁ……感じますとも」
闇に沈む聖域の床、赤黒い血の海の中で。
膝を折った男が、狂気と歓喜の境界で呻くように笑っていた。
ロータス。
ノクタレス大聖堂に仕える新任神父——という仮面を被った、魔王の使徒。
彼の身体からは血が迸っていた。
聖痕から。両手両足から。脇腹から。
四肢のすべてから、肉が裂けるように、真紅の血が湧き上がっていた。
痛みは、神託だった。
「おぉ、これはこれは……とても、痛い。痛いですねぇ……ふふっ、どうやら我が神は……お怒りのご様子だ」
その声には怯えも恐怖もない。
むしろ、陶酔すら漂わせている。
「罰でしょうか……ふふ……ヴェイン君の失態か、それともザミエラの迂闊か……いや、ははっ、もしや私が……何かご無礼を……? それでも、謹んで受け入れましょう……ふふ、あはははははは」
その全身を血で染めながら、神父は笑う。
吊り上がった口元。細められた瞳。
神の審判に殉ずる覚悟が、もはや常人の域を逸していた。
「まぁ……これで焼き切れる魂ならば、それまでの存在ということでしょうかねぇ……。相変わらず、手厳しいお方だ……」
彼の背後、倒れ伏したレイ・シルヴァリアは、痛みによってまだ気を失ったままだった。
大聖堂の柱が、一瞬軋む。
霊的な圧が、空間を圧している。
それは、大魔王の“気配”だった。
千年の時を越え、再び胎動し始めた神の魂。
ロータスは、それを誰よりも早く感じ取っていた。
そして、彼の魂の波動を直に受けることで、"気づいた"。
「くくく、あはははは。なるほどなるほど、そうですか。あの男はあなた様の……いやはや、まさかあの程度の者がそんな寵愛を受けていたとはいざ知らず、私はずいぶん茶番を仕込んだような結果になりましたな。この間など、一緒に酒場で飲み交わしていたところですよ」
彼の口元がひくりと笑みを描く。
フェイクラント。
冴えないと思っていた旅人が、まさか、“神”の目にとまっていた存在だったとは。
「さて——しかし本当に痛いですね。やむなしとはいえ、ヴェインくんもザミエラも大丈夫なんでしょうか。レイもこの様ですし、少々心配ではありますね。やれやれ、あなた様の友、エルジーナも復活するというのに……」
血に染まる礼拝堂で、魔王の神父は静かに、静かに笑っていた。
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シュヴェルツ近郊
「づゥ──ッ!!」
吐き出す声は、もはや呻きというより断末魔に近かった。
地を這い、泥にまみれ、血反吐を撒き散らしながら、白亜の魔族──ヴェイン・アクレウスは、まるで獣のように呻いていた。
指先が痙攣する。
神経が焼き切れるような苦痛が全身を駆け巡り、骨の髄まで痺れる。
剥き出しの左腕からは、皮膚の奥に刻まれた聖痕が、鮮烈な紅を噴き出していた。
それはまるで、主たる存在の「怒り」が血液を通じて顕現したかのようだった。
「ぐッ──はっぁああァアア……!?」
喉の奥が裂けるような咆哮。
声に出すだけで肺が軋み、肋骨が軋んだ。
霊圧──いや、もはやそれは神圧とすら呼ぶべきだろう。
大魔王オルドジェセル。
その封印の狭間から、ほんの“気配”だけが漏れ出したに過ぎないというのに、ヴェインの肉体は既に崩壊の一歩手前だった。
「……ク、ソがぁああああッ!!」
激痛を押して立ち上がろうとした、その瞬間だった。
雷撃にも似た衝撃が脊椎を駆け抜け、視界が白く灼かれた。
「まだ……たった五分の一だってのに……」
これで全ての封印が解かれ、彼が完全に現界した時、いったいどれだけの怪物が城に座るというのだろう。
「オルドジェセル様……ゆ、許してくれ。俺ァ、ロータスの言う通りにして……」
理屈など通用しない。
魔王ともあろうものが、ただの一介の冒険者に逃げられ、最弱の魔物に蹴飛ばされた。
ヴェインも本気だったわけではないが、自分で萎えるオチつけるなと言っておきながら、これほどまでの醜態を晒したのは、なんであろうと罪。
ゆえに罰。
留守を預かる者として、主の名誉を汚した蒙昧──八つ裂きにされようと文句は言えぬ。
「なら……どうすれば……」
痛みと共に、彼の神威が教えてくれる。
答えは明白。
ただ、一刻も早い開戦を。
歯車は狂いつつある、既に既成のルートは逸脱している。
勇者など待つ必要は無い。
常識を破壊する者が現れたのだ、であれば、こちらも殻を破るしかない。
未知を……勝利を……我らにとって完成された世界を……。
ヴェインの唇が歪む。
傷だらけの頬に張りつく笑みは、獣のようで、どこか人間臭くて、そして確かに──狂気に近かった。
「へっ……なるほど、そういうことかよ……」
ポツリと呟いたその言葉の中に、理解と殺意が混ざっていた。
あの犬──ただのペットだと高を括っていたが、あれは“敵将”だったのだ。
なぜあの程度の魔物が、あれほどの神威を帯びた理由。
考えれば考えるほど、筋が通る。
「道理で……妙に舐めた真似してくれたわけだ……! クク……クハハッ!」
喉の奥から、笑いがこみ上げる。
敗北に耐え、屈辱を噛み締め、肉体を削がれてなお──
ヴェイン・アクレウスは、再び立ち上がる。
「次は……次は最初から全力で潰す! あの雑魚ども、ひとり残らずッ……吸ってやるッ!!」
怒声と共に、地面が爆ぜる。
瘴気の奔流が一瞬、森を薙ぎ払うように駆けた。
枯葉が飛び、枝が折れ、獣が走る。
自然すら、彼の怒りを前に膝を折る。
「ギャハハハハハァアアアアアアアアア!!!!!!」
狂気の咆哮が、夜の森を裂いた。
その笑いは、あまりにも破滅的で、あまりにも楽しげだった。
もはや怒りでも悲しみでもない。
これは、“戦い”への歓喜だ。
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そして、紅蓮の魔族は──