第百二十二話 「シュヴェルツでの別れ」
あれから、さらに一週間が過ぎた。
グランチェスター邸の裏庭。
俺は黙々と薪を割っていた。
セリエスさんの手伝いという名目だが、これはほとんど筋トレに近い。
セリエスさんは孤島から帰還後、ロベルト伯爵と長く静かな言葉を交わしていた。
二人の表情までは読み取れなかったが、深くため息をついていたことだけは記憶に残っている。
ちなみに俺たちが島にいる間、三人娘は自由奔放な悪巧みをしたらしく、帰宅した頃にはアーシェとセレナがロベルト伯爵の前に正座させられている場面に出くわした。
それでも変わらず、俺とマリィはシュヴェルツの街で静かな日々を過ごしていた。
ロータス神父が広場のど真ん中で唐突に大声で歌い出すたびに通行人がざわつき、それを見かねたレイさんが彼をつまみ出す──そんな喜劇のような日常のなか、俺はたまに大聖堂へ足を運び、彼らの小競り合いを宥めたり、なだめられたりしていた。
「そういや……最近焚き火してねえな」
パカリと綺麗に割れた薪を見つめながら、ふと呟く。
その焦げた匂い、舞い上がる火の粉──懐かしい風景が脳裏に浮かぶ。
……正直、焚き火が恋しい。
けどまぁ、やる必要もないので我慢だ。
割った薪を抱えて、屋敷の中へと戻ろうと足を進める。
角を曲がれば勝手口だ。いつものように──
……と思った矢先だった。
(……ん?)
屋敷の影。
──そこに、違和感があった。
白壁の隅、背の低い植え込みの影に、なにやら“ひょっこり”飛び出た白い何か。
……あの白い髪──マリィか。
思わず足を止め、目を細める。
どう見ても、隠れきれていない。いや、むしろ大胆に出ている。
次の瞬間──
ぴょい、とその銀髪が引っ張られて消える。
その手は……袖の形からして、アーシェだな。
(あー……ね)
これは……なんか企んでやがるな。
用心深く視線を滑らせると、三人の視線が一斉にこちらを向いているのが分かる。
影の向こうから、こちらの動きをじっ……と見つめている。
いやいや、バレてるって。
しかも──
(……あそこだな)
芝生の一角。
周囲と僅かに色が違い、草の根が浮いているような箇所。
まるで、掘り返した跡を無理やり誤魔化したような不自然さ。
ははーん、なるほどね。
三人の企みが分かった
おそらく、落とし穴を作って俺を嵌めようとしているのだろう。
おおかた、アーシェが言い出してマリィが楽しそうと乗っかり、セレナは止めようにも二人の圧力には敵わなかった感じか。
ちらちら見えるアーシェの顔が、まさに「計画通り」とでも言わんばかりにニヤけている。
その後ろでセレナが、眉を八の字にして心配そうにこちらを窺っているのがチラリと見える。
それでも、何も言わず歩みを止めると、俺はあえて何気ない調子で呼びかけた。
「なにしてんだ、お前ら」
声に驚いて、影の中から同時に二つの悲鳴が上がった。
「「ひぃっ!?」」
ガサガサッと慌てて飛び出してくる二人。
アーシェとセレナ、そして数テンポ遅れてマリィが、ぱたぱたと追いかけるように姿を現す。
「アーシェがね、落とし──むぐっ!」
早速真実を漏らしかけたマリィの口を、アーシェが勢いよく塞いだ。
「あー……はは、あんたを曲がり角で驚かせてやろうとおもってさぁ……バレちゃったか、てへっ」
全然反省の色がない笑顔に、こっちも苦笑せざるを得ない。
いや、お前まだ落とし穴の存在を気づいてないと思ってる顔だな、それ。
「そ、それよりさぁ、こっちに面白いものを見つけたんだけど、ちょっと見てくれない?」
芝生の奥──俺が例の箇所を通るように、アーシェが手招きする。
視線がチラチラと俺と罠のあいだを行き来していて、もはや丸わかりだ。
はぁ、まったく、バレバレじゃねえか。
でもまぁ、最近はセリエスさんの手伝いが思ったより忙しく、あまり構ってやれなかったのも事実だ。
マリィも寂しかったのかもしれない。
しかたねぇな……ハマってやるか……。
どうせなら、完全に騙されたフリして、全力で落ちてやろうじゃないか。
この三人のストレス解消になれば、それでいい。
「まったく……どこだ?」
「こ、こっちこっち!」
にやにやと笑いを堪えるアーシェの手招きに従い、俺は慎重を装いながらも、わざと芝生の一点を踏み抜く。
──そして
ゴシャァアアアアアアッッ!!!
「……は?」
次の瞬間、足元から信じられない音と共に、地面が──崩れた。
全方位、すっぽ抜けた。
「はぁあああっ!?!?」
予想外の出来事だったのか、アーシェの絶叫が芝生の上から聞こえる中、俺の視界は一瞬にして天を仰ぐ体勢になった。
頭上に広がるのは、見慣れた屋敷の軒──そして、すぐに小さな人影たちの輪郭が遠ざかっていく。
見る余裕すら無いが、深い。
土ではない、岩混じりの層が剥き出しになっている。
(ちょっ、やり過ぎだろ!?)
思考が追いつかない。
誰が、どうやって掘った──いや、考えるまでもない。
「これでよかったんだよね?」
その声は、落下の合間に確かに聞こえた。
幼く、無垢で、曇りなき一言だった。
──マリィ。
ああ、そうか。
"力744"の……本気の“穴掘り”か。
「ギャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
叫びは、底なしのような落下に吸い込まれていった。
優雅な屋敷暮らし、静かな日常、穏やかな午後。
日常は穏やかで、どこか微笑ましい時間だった。
くだらないかもしれないけれど、時間が止まればとさえ思った。
──けれど、時は流れる。
---
季節は、秋へと移ろっていた。
入学の季節。
俺の世界では春がその始まりだったが、この世界では違うらしい。
海外でも秋に学び舎の門をくぐる文化は珍しくないと聞いたことがあるが── シュヴェルツの風が、その節目を静かに告げていた。
「元気でね……マリィちゃん……」
アーシェの目元が赤い。
必死に涙を堪えながら、それでも笑顔を絶やさずに、マリィの手を両手で包むように握っていた。
「また遊びに来てください。フェイクラントさんも」
「あぁ、もちろん」
精一杯の笑みで返す。
このふたりは、いずれ世界を救うパーティの一角となる。
未来に名を刻む、偉大な存在になるのだから。
俺が心配するまでもない。
「アーシェ、セレナ、ロベルトおじさんも、本当にありがとう!!」
マリィが声を張り上げると、庭先に立つロベルト伯爵がにっこりと笑って応えた。
「いやぁ、マリィ嬢のおかげで、娘たちもいい時を過ごせたと思うよ。こちらこそ礼を言わせてもらう。ありがとう」
「本当に何から何まで、お世話になりました。ここでのお礼は一生忘れません」
俺が深く頭を下げると、伯爵は豪快に笑った。
「ははは、大したもてなしはできておらんよ。忘れてくれて構わんさ」
そう言いながらも、その目はどこか誇らしげだった。
「それで、次はどこへ向かうのかな?」
「一度、マリィの成長した姿を……ヴァレリア大陸の、俺の師匠に見せてやりたくて。それからは──アステリア大陸を目指そうと思ってます」
その一言で、伯爵の笑みがぴたりと固まった。
「……アステリア大陸……どうやって行くつもりだ? 知っていると思うが今は船が出ない。何なら私が船を──」
「い、いえっ、それには及びません!」
慌てて両手を振る。
まさか船まで出してくれようとするとは思っていなかった。
「お気持ちだけで十分です! 俺なりに、宛がありますので……」
「そうか。分かった」
伯爵はわずかに口元を緩め、まっすぐな目で俺を見据えた。
「無理はしないように。どうすることも出来なくなった時は、是非とも私を頼ってくれ。君は、私の大切な“客人”なのだから」
──まさか、貴族様からここまで言われる日が来るとは思っていなかった。
いいように利用するつもりはないが、この出会いと縁は大切にしていきたい。
「フェイクラントさん。お元気で」
セリエスさんが、いつもの穏やかな調子で見送ってくれる。
「はい。セリエスさんも……本当に、ありがとうございました」
「うむ! またいつでも、私の自慢話を聞きに来てくれ!」
「………………はい」
──いや、それだけは……できれば、勘弁してほしい。
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「アーシェーーーっ!! セレナーーーっ!! またねーーーっ!!」
マリィの透き通るような声が、街道の彼方にまで響いていた。
街の門をくぐり、振り返るたびに大きく手を振る彼女の背には、まだ微かに涙の跡が残っている。
あの子たちが過ごした日々は、短くとも、濃密だったのだろう。
アーシェは門の内側でしゃがみ込み、ハンカチで目元を乱暴に拭いながら、鼻をすすりあげていた。
その姿はまるで、娘の巣立ちを見送る母親そのものだ。
セレナもまた、静かに手を振り続けていた。
凛とした横顔のまま、決して涙は見せないけれど──その瞳には、名残惜しさが揺れていた。
俺はマリィの頭にそっと手を置くと、ゆっくりと歩き出す。
紅葉の始まりかけた街道。
金と朱の葉が風に踊り、まるで道しるべのように空へと舞い上がっていた。
──そして、街が見えなくなった頃。
「転移魔術──」
そっと呟いた言葉が空気を震わせ、視界が一瞬、反転する。
古代由来の魔術。
現代の体系から逸脱した、失われかけた式。
勇者エミルのような英雄が使えば喝采されるが、俺のような名もなき冒険者が行えば、間違いなく“怪しまれる”。
……だから、誰もいないところで使うのがいい。
そして行き先はもちろん──アステリア王国の前に、再びプレーリー山奥へ。