第百二十話 「北の孤島」
あれから、二週間ほどが経った。
グランチェスター家の屋敷に滞在しながら、俺は今、海に浮かぶ一つの孤島にいた。
「随分と……小さな島ですね」
シュヴェルツの北、およそ半日の距離にあるその島は、外周を歩いても小一時間で回れそうな規模だった。
その静けさに、思わず言葉が漏れる。
「ええ。この島はグランチェスター家の私有地です」
控えめな声でそう答えるのは、俺の隣を歩くセリエスさんだった。
いつもは屋敷で事務的な仕事をしているが、今日はこの島の様子を見に来る用事があるということで、俺も同行させてもらうことになった。
理由は単純。
何もしていない俺が、ただ飯を食い続けるのが申し訳なかったからだ。
手伝えることがあるなら、せめて力になりたい。
その申し出に、彼はしばらく悩んだあと、「では……」と、この島の見回りに付き合わせてくれた。
セリエスさんの仕事は多岐にわたる。
屋敷の運営管理はもちろんのこと、グランチェスター家の所領や施設の管理も担っているらしい。
この島もその一つ……とはいえ、誰も住んでいないし、目立った作物もなく、海賊の拠点にもならなそうな微妙な規模の島だった。
(……俺、この島、ゲームで来たことあるよな)
記憶の奥を辿る。
この島にはゲームで来たことがある。
特にストーリーを進める上では行く必要はないが、世界地図をみた時に小さな島があると「ここって行けるんじゃね!? 珍しい魔物とかいるんじゃね?」と思うこともあるだろう?
だが、そのときの印象は「ハズレ」だった。
敵もイベントもなく、瓦礫と草木だけが広がる、無味乾燥なロケーションだったはずだ。
けれど。
「……不思議なところですね」
歩いてみて、はっきりと分かったことがある。
異様なまでの静けさだった。
木々は生い茂っているのに、鳥の声ひとつしない。
魔物どころか、生物の気配が希薄すぎる。
「セリエスさん。ここ、普段からこんな感じなんですか?」
「ええ。ずっと無人です。管理者もおらず……ですから、年に数回、私が様子を見に来るのです」
そう答える彼の横顔は、いつにも増して感情を伏せたようだった。
「不法投棄や、流れ着いた船の残骸、万が一の不審者の拠点化などを防ぐために、一応……です」
なるほど。
そういう意味では“管理”の一環か。
それにしても、妙だ。
こんな場所、わざわざ拠点にしようと思う奴がいるのか?
船乗り目線でも、潮の流れは複雑で、座礁の危険も高い。
島をぐるりと一周した後、俺たちは中央部へと向かう。
「おっ……?」
茂みを抜けた先、俺の視界に入ったのは──瓦礫ではなく、建物があった。
いや、厳密には“遺跡”と呼ぶべきか。
崩れかけた石の壁が陽に晒され、蔦が絡み、苔が這っている。
それでも確かに、人の手によって築かれた構造物の名残がそこにはあった。
「……なんですか、あれは?」
「……この島に古くからある遺跡です」
「遺跡……?」
「ええ。由来は定かではありませんが、グランチェスター家がこの島を管理するようになって以降、ずっとこのままの姿で残されています」
なるほど。
ゲームでは既に瓦礫と化していたが、今はまだ「遺跡」としての形を保っていたということか。
となると──これからの四年間で、この遺跡が崩れるような何かが起こるのだろうか。
崩れるほどのイベントがあるとするなら、海魔の襲撃か、それとも別の……
「私は、あの遺跡の掃除をしてきます。フェイクラントさんは、船に戻っていてください」
唐突に、セリエスさんがそう言った。
「え、掃除? なら俺も手伝いますよ」
ここまで来て手伝わないのも申し訳ないし、なにより、あの遺跡の中が気になる。
だが──
「いえ。これは、私の仕事です」
その言葉は、どこまでも硬く、閉ざされていた。
冷たいわけじゃない。
けれど、そこには他人を寄せ付けない意志があった。
「……そう、ですか」
そう答えるしかなかった。
彼の瞳は、真っ直ぐに遺跡を見据えていた。
感情をあまり表に出さないセリエスさんだが、今はほんの僅かに──何かを背負っているように見えた。
(グランチェスター家の掟とか……?)
もしくは、あれはルドヴィクの墓とか?
いや、違うか。
そんなに重要なら屋敷で保護するだろう。
そんな疑問を胸に抱えながら、俺は一人、船へと戻ることにした。
──その瞬間だった。
びゅう、と風が吹いた。
ただの風ではない。
空気が“揺れた”。
それはまるで、神威を纏った存在が吐息のように世界を撫でたかのような──
「ッ……!?」
即座に身構える。
反射的に神威を内へと沈め、神経を研ぎ澄ませる。
視界には、何もいない。
音もない。
気配すら、ない。
──それでも確かに、“何か”があった。
目に見えない“何か”が、微かに──いや、深く、静かに“こちらを見ていた”。
(なんだ、今の……)
背筋に冷たいものが走る。
気のせい、では片付けられない。
だが、だからといって、確証もない。
……あの遺跡の中に、何かある?
セリエスさんが一人で向かった、あの遺跡。
崩れる未来を待つだけの、古びた構造物。
──だけど、その奥底には。
きっと俺の知らない何かが、眠っている気がしてならなかった。