第百十九話 「異端の凶犬」 【三人称視点】
「さて……」
困ったような顔をして、去っていく青年……いや、壮年。
その背を見送り、神父は軽いため息をつく。
ちょっとした雑談のつもりだったが、それなりに差し込んでしまったようだ。
すでに礼拝堂の灯りは消えているし、彼の同業者もそれぞれの自室に戻ってしまったのだろう。
「しかしまぁ、肝を冷やしましたね。ただのカマかけだったのですが、まったくこれは……」
苦笑は深く、自虐的に。
神父は肩を震わせながら、先程のやりとりを反芻していた。
そう、死者は甦らないし、生者もそれを望むべきではない。
死者は朽ちて土となり、生者は悼み祈るもの。
魔術をもってしても、生命の息吹が還ることはない。
確かにそれが、当然の常識と言えるのかもしれない。
だが世の中には、本音と建前というものが存在する。
モラルとしての常識と、感情論からくる常識は往々にして食い違うのだ。
人は言葉では飾れる。
道徳の皮をかぶりながら、胸の奥底でどんな業火を燻らせているかなど、本人ですら分かっていないことが多い。
だからこそ、ロータスは訊いた。
それでも彼は、目を逸らさず、静かに、確かに拒絶した。
心の奥に黒い沼があるのを承知で──それでも、手を伸ばさないという選択をした。
「はてさて、それを美徳と呼ぶべきか、はたまた愚かと呼ぶべきか……あなたはどう思いますか、レイ?」
「…………」
背後から忍び寄る気配に、ロータスはひとさじの驚きも見せず、ただ静かに問いかけた。
背後に立つ“彼女”──レイ・シルヴァリアの気配は、先ほどまでのような神父を叱責する聖女のそれではない。
まるで立場が逆転したかのように、敬意と警戒がない交ぜになった静謐な沈黙が、聖堂の空気をひやりと冷やしていた。
「どう、とはつまり……彼の意見に対してでしょうか、猊下」
わずかに視線を伏せたまま、レイは静かに言葉を紡いだ。
「ええ、何かしら感じるところがありましたかね?」
「……別に何も。思想は個人の自由です」
「ふぅむ……つまり気分は害していないと?」
「…………」
「はは、冗談ですよ」
さきほどまで拳を叩き込まれていた男とは思えぬ、緩やかな笑みを浮かべながら、ロータスは眼鏡を押し上げた。
その眼差しは、穏やかさの皮を被った深淵のように暗い。
「ともかく、私としては助かりましたよ。あなたが抑えていてくれたからこそ、場は保たれました。もしこの場にヴェイン君やザミエラがいたら……ただごとにはなってないですね」
「……でしたら、不用意な質問は控えてください。猊下は少し……悪戯が過ぎます」
「ふむ、確かに。汗顔の至りですね。以後、気をつけるといたしましょう」
ふわりと笑い、黒衣の袖を優雅に揺らしながら、神父は大理石の柱にもたれかかった。
ステンドグラスの欠片のように、床に散った夕光が彼の足元を染める。
「ロータス猊下」
その呼びかけは凛としていて、怜悧な刃のように空気を裂いた。
「無礼を承知で言わせて貰えば、軽挙妄動すぎではないでしょうか。シュヴェルツで大仰に酒場を行ったり来たり、私が怒るのも理解してほしいものです。大聖堂の連中も、決して愚かではありません。そういつまでも我々に騙されてはくれないでしょう」
「……はは、至極ごもっとも。まったく、耳が痛い」
神父は眼鏡のブリッジを押し上げ、あくまで軽い笑みを崩さない。
だがその眼差しは、どこまでも鋭く深い。
「ただでさえ、あなたの魂はヴェイン様やザミエラ様同様に巨大すぎます。本来なら、もういくらか場が整うまで魔界に留まっていただきたかったのですが……」
「それは前にも言ったでしょう。ヴェインくんの言った通り、"この付近"に彼女が封印されているのならば、彼女の大きすぎる神威に私程度の存在は露呈しません。まぁ、勇み足だったのは認めますがね」
「……驕りは、破滅の呼び水になります」
「ええ、肝に銘じますとも」
薄く笑いながら、神父は石畳に視線を落とす。
「とりあえず今、そんなことはどうでもいい。ただやるべきことを、やるべき時に。私の言いたいことはわかりますね? あなたにもまた、失った者を取り戻したいという願いがあるはずです」
「……はい」
「結構。でしたらば行きなさい。この現場内での判断はあなたに任せますが、ヴェインくんも近くにいるらしいですからね、もし彼がやりすぎるようなことがあれば止めるように」
神父は、すでに見えなくなった四人組が歩いて行った方角へ視線を向けた。
「あの男……どうもキナ臭い。うまく言えませんが、何かよくないものが憑いている。ヴェインくんも何か言ってましたしね、ぎゃあぎゃあ叫んでいたのでほとんど聞き取れませんでしたが……まあ当たり外れはともかくとして、網にかかれば試すことにもなるでしょう」
「それ次第で臨機応変。了解しました。猊下」
「頼みましたよ。あなたには期待している」
軽く頷き、レイは身を翻した。
その足取りは微かに震え、明確な拒絶の意志が見て取れる。
本来なら、口を利くのもおぞましいといったところか。
「やれやれ、どうも嫌われていますねぇ」
だが、それも当然だろう。
美しい女性に嫌われることは切ないことだが、関係の改善などという無駄な努力に戯れるほど暇でも無い。
私は忙しい。
欲しいものがあるしやりたいこともある。
欲望は止め処なく湧き出り、この胸を焦がしている。
それは聖職者としても、彼の立場的にも相応しく無い思想だったが……
「残念ながら、私は俗物なのですよ。『誰しも死の前に幸福を得ることはできない』? そんな哲学、信じていたら手遅れになるだけです」
静かに歩を進め、ステンドグラスの下に立つ。
陽はすでに落ちていたが、わずかに残る黄昏の光が彼の頬を照らす。
「……もうすぐ、です。オルドジェセル様。あなたの復活は近い……」
声は低く、囁くようだったが、その音に込められた確信は絶対のものだった。
「──五年も待つ必要などありません。この街に来たのは、すべてそのため。すべては、“彼女”の封印を解くため」
微かに、空気が歪む。
彼の周囲に満ちる瘴気のようなものが、礼拝堂の荘厳な空間に異質な波紋を投げかける。
「探しましたよ……まさかこの近辺に最後の"魔王"が眠っていたとは。いやどうも……灯台元暮らしというのか……英雄の出身地近くとは思いもしませんでしたね……」
呟きは、もはや“祈り”ではない。
「──目覚めの時ですよ……。唯一、大魔王が“友”と呼んだ異端の凶犬よ……さあ、還ってきなさい」
闇に沈みゆく聖堂の奥。
光と影の境界で、神父は微かに言葉を紡いだ。
「プレーリーハウンド・エルジーナ」