第百十六話 「迷える神父」
街路は、昼下がりの光に包まれていた。
白亜の建物群が柔らかな輝きを放ち、行き交う人々の影が石畳の上に長く落ちる。
「なにあれ?」
不意にマリィが、くいっと俺の袖を引っ張る。
指差す先に視線を向けた俺は、思わず目を細めた。
「んー……?」
街並みの喧騒の中で、ひときわ目を引く存在があった。
二メートルはありそうな、長身痩躯の男が通りの一角で右往左往している。
風に煽られるように翻るのは、鬱陶しいほどに長く、艶やかな金髪。
その髪を振り回すたびに光が反射し、妙に目立ってしまっている。
「あれは……教会の人でしょうか? 服装がそれっぽいですし」
セレナが控えめに言う。
たしかに、男は僧衣のような黒い法衣を身にまとい、胸元には銀の十字架が揺れていた。
ただ、どうにもその挙動がおかしい。
通行人に片っ端から声をかけているのだが、どいつもこいつも一様に嫌そうな顔をして避けていく。
そして──
「うわ……今の見た? あれ、絶対痛いよ……」
アーシェが顔をしかめた。
金髪の男は声をかけた女性から、思いきりビンタを食らっていた。
乾いた音が石畳に響く。
「……おおう、ゴミ箱に頭から突っ込んだぞ」
「あっ、でもすごい、もう起き上がってるわね……」
普通ならば精神的にも肉体的にも打ちのめされそうなものだが、その男はまるで何事もなかったかのように顔を上げると、また次の相手を求めてふらふらと歩き始める。
タフというよりは──どこか、鈍感なのかもしれない。
周囲の人々もとうとう不気味に感じたのか、誰も彼に近寄らなくなった。
気がつけば、男は通りの真ん中でひとりぼっち。
どこか頼りなさげにうなだれるその姿は、見ていて心苦しくなるほどに哀愁を漂わせていた。
「おーい!!」
唐突に、澄んだ声が響いた。
「マリィ!? 何呼んでんだ!」
マリィが俺の手を離し、ぴょんぴょんと跳ねながら大きく手を振る。
まるで迷子になった家族を見つけたかのように。
「こっちだよー!」
無邪気な声が通りに響き渡る。
その瞬間、遠くで男が顔を上げた。虚ろだった金色の瞳にわずかな光が宿り、ふらりふらりとこちらに歩み寄ってくる。
うーん、大丈夫だろうか。
男の歩みにあわせて、俺の警戒心も徐々に高まる。
あの男の目的が何かは分からないが、三人娘の前で万が一の事態が起これば、俺が責任を取らなければならない。
最悪、三人の手を引っ張って逃げる準備くらいはしておくか。
考えながらも視線を逸らさずに男を観察する。
近づいてくるにつれ、改めてその異様さが際立ってくる。
高すぎるほどに高い背丈。
枯れ木のように細い四肢。
顔立ちは整っているが、そのあまりの白さが生気を感じさせず、どこか絵画の中から抜け出した彫像めいている。
そして、丸眼鏡の奥から覗く金色の瞳は、やたらと不気味なほど笑みを湛えていた。
「え、えーと……」
マリィが小さく声を漏らす。
近づいてきた割には笑顔のまま何も言わないので、さすがに戸惑っているのだろう。
セレナもアーシェも、喉が詰まったように固まっている。
そして、しばしの沈黙ののち──
「…………あぁ! ええ。すみません。そちらのお嬢さんのお心遣いが嬉しくて、つい口を開くのを忘れてしまいました」
男は口角を緩め、音楽のように滑らかな声で語り出した。
その声音には、場違いなほどの礼儀正しさと、どこか飄々とした余裕が感じられる。
「えっと……大丈夫なんですか? さっき殴られたりしてましたけど……」
セレナが恐る恐る問いかけると、男は小さく苦笑を漏らした。
「あぁ、あれは私が悪いんですよ。どうやら宗教の勧誘と勘違いされたようでして。私の配慮が足りなかった」
肩をすくめるその仕草は、なんとも飄々としていて憎めない。
だが──
「いや、殴られた方が悪いってのは……」
「大丈夫です。私、ああいうのには慣れていますから」
「慣れてる……か」
さらりと、どこまでも爽やかに言い切る。
その一言に、俺たちはしばし沈黙した。
喉まで「マゾなのか?」と突っ込みかけたが、マリィの手前もあり、ぐっと飲み込んだ。
だが、正直なところ、俺は宗教家なんてものは総じてマゾだと思っている。
無償の愛だの、忍耐だの、自己犠牲だの──いくら耳障りの良い言葉を並べ立てようとも、その実態は「どれだけ蔑まれようとも耐え抜く快楽」を貪る求道者たちではないか。
「……見たところあなた方は、もしかして貴族様でいらっしゃいますか?」
問いかけは柔らかだが、声には確かな敬意が込められている。
その瞬間、俺の隣でセレナとアーシェが同時に一歩前に出た。
二人は自然な流れで軽く裾を摘み上げて、優雅に頭を垂れる。
まるで舞踏会での淑女の挨拶のように。
「グランチェスター家のアーシェ・グランチェスターです。こちらは従妹のセレナ・グランチェスター」
アーシェが誇り高く名乗ると、セレナも静かに続く。
「よろしくお願いいたします、神父様」
そして、その様子を見ていたマリィもぱたぱたとアーシェたちの動きを真似るように、よく分からないまま見よう見まねでぺこりとお辞儀した。
「まりぃ・ぐらんちぇすたー、ですっ!」
……いや、姓が乗っかってるのは間違ってるけどな。
微笑ましい間違いに苦笑をこぼしながら、俺も軽く一礼する。
「ああ、こちらがグランチェスター伯爵の令嬢であるアーシェ。その従妹のセレナ。で、その家に居候させてもらってる、貴族じゃないけど、さっきのお優しいお嬢さんがマリィで。俺はフェイクラントだ」
紹介を終えると、神父は瞳を大きく見開き、驚愕と感動をないまぜにした表情を浮かべる。
「な、なんと……グランチェスター伯爵家のご令嬢とは……! 神よ、我が巡り合わせに感謝いたします!」
おおげさなくらいに胸に手を当て、まるで祝福の祈りでも捧げるように天を仰ぐ神父。
その所作が芝居がかっていると言えばそれまでだが、不思議と嫌味がないのは彼の人柄ゆえか。
「はは……まあ、よろしく頼むよ、神父さん……でいいのか?」
俺が問いかけると、神父は「あっ」と小さく声を上げ、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「あぁそうでしたね。申し訳ありません。どうにも私、抜けていまして」
彼は一歩前に出ると、背筋をしゃんと伸ばし、改めて姿勢を正す。
「ロータスと申します。ご推察の通り、ノクタレス大聖堂の新任神父なのですが……」
にこやかに微笑むその顔は誠実そのもので、彼の声はまるで鈴の音のように澄んで響いた。
「道が分からなくて迷っていたと……」
「はい。お恥ずかしい話ですが、その通りでして。ノクタレス大聖堂の神父に任命されたのは良いのですが、出身はまったくの異国でして。土地勘など微塵もなく……迷い込んでしまった次第です」
そう言って、彼はばつが悪そうに頬を掻く。
たしかに、ここまで聞いた限りでは妙な下心もなければ、不穏な気配もない。
むしろ、無害さをこれでもかと着込んで歩いているような印象だ。
「ノクタレス大聖堂の神父様だったんですね!」
セレナがぱっと顔を輝かせる。
それを見たマリィも、つられるように嬉しそうな声を上げた。
「ふぇい、わたしたちも、のこたれす? にいくんだよね?」
「ああ、そうだな」
マリィの声に頷くと、彼女は無邪気にぱっと手を叩き──
「だったら、いっしょにいこっ!」
まるで親しい友人を誘うかのように、屈託なく笑った。
「おぉっ、それは本当ですか!?」
「うん! いっしょにいこう! しんぷさま!」
マリィがにこにこと手を差し出す。
その小さな手を見つめながら、神父はまるで涙をこらえるかのように目を細めた。
「なんという慈悲……なんという愛……。この巡り合わせこそ、きっと主のお導きに違いありません。お嬢さん、もしやあなたは女神様の生まれ変わりなどでは……?」
一瞬、ゾクリと背筋が粟立つが、考えすぎだろう。
彼はただの神父だ。
たまたまマリィの純粋さに感動しただけだろう。
「わかりますっ!? マリィちゃんは可愛いですよねっ!」
唐突にアーシェが食いつく。
勢いよくロータスに詰め寄り、胸を張って自慢げに言い放つ。
「いやぁもう、冗談抜きで泣きそうだったところなんですよ。私の同僚にも女性はいますが、とっても怖い人でしてね。やっぱり女性は、優しいのが一番です」
神父はしみじみと言い、しみじみと頷いた。
その姿に、アーシェは「でしょでしょ!?」と得意満面で何度もうなずく。
セレナはそんな二人のやりとりに微笑みつつ、俺にそっと耳打ちした。
「ふふ、なかなか面白い方ですね、ロータス様」
「……まぁな」
色々と大丈夫なんだろうかと思いつつも、なぜだか憎めないその人柄に俺もつい口元が緩んでしまう。
「では、案内させていただきますね」
「……新しい地で迷う羊に道を示してくださるとは、なんとありがたい。主の御名において、あなた方に祝福を」
大袈裟なまでにありがたがる様子に苦笑しながら、俺たちは街路を歩き始める。
石畳の上に伸びる影は、四人ではなく五つに増えていた。
陽光が降り注ぐ白亜の街。
その風景の中に、新たな仲間が加わる。
マリィはロータスの手を引きながら、楽しげに歩く。
その後ろで、ロータス神父は柔和な微笑みを崩さぬまま、ふと金色の瞳を細める。
その視線は、何かを測るように、マリィの背中を静かに見つめていた気がした。