第百十四話 「シュヴェルツ観光ツアー①」
西方セルベリア大陸の北端に位置する白亜の街、シュヴェルツ。
古くから交易と魔術の要所として栄えたこの街は、歴史の重厚さと洗練された美しさを両立していた。
広々とした石畳の通りを歩けば、両脇に連なるのは白壁に青銅の屋根が映える建物たち。
家々は幾何学的に美しく配置され、曲線を描く路地ですら計算された美しさを感じさせる。
街を象徴するのは、なんと言っても中央広場にそびえる荘厳な大教会だ。
光を受けて鈍く輝く尖塔は、まるで天と地をつなぐ架け橋のように聳え立ち、信仰と魔術が根付くこの土地の精神を象徴していた。
ほかにも、至るところで魔術が息づいている。
道を歩く自警団員たちの腰には魔導杖が下げられ、彼らの多くは魔術師としての素養を持つ者たちだ。
時折すれ違う街の人々も、魔導具で荷物を運んだり、浮遊する光の球で商店の看板を照らしたりしている。
生活のすみずみまで、魔術が根付いている。
まるでこの街そのものが、一つの巨大な魔法陣のようだった。
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「あーしぇ、あーしぇ! あれなに!?」
マリィが弾む声で指さす。
輝くような笑顔に、俺の口元も自然と緩んでしまう。
視線の先には、街の中心部を少し離れた場所にそびえ立つ巨大な建築物。
幾つもの校舎が広がり、その中心には天空を貫くような高い塔があった。
陽光に照らされた白い壁は、まるで結晶のように輝き、風にたなびく校旗がその存在感をさらに際立たせている。
「あぁ、あれは『アルマティウス魔術学院』ね。どう? 大きいでしょ?」
アーシェが誇らしげに胸を張る。
「私とセレナも、あと数ヶ月したらあそこに入学するの」
「塔の上まで登れば、シュヴェルツの街並みを一望できるんですよ」
その言葉に、マリィの目がさらに輝いた。
「わたし、のぼってみたい!」
きらきらと輝く瞳が、塔の頂を見上げる。
今すぐにでも駆け出しそうな勢いだった。
「あ、やっぱり……?」
少し引き気味にアーシェが眉をひそめる。
まぁ、あの塔は学院の象徴とも言える場所だし、普通は生徒ですら簡単には登れないだろう。
そう考えていたが──
「私たちが言えば、きっとマリィちゃんも入れてくれますよ! ご飯を食べたら行ってみましょう。いいでしょう? お姉様」
「え、あ……うん」
ん?
登れないことはないのか。
じゃあなんで、アーシェはそんな反応なのだろうか。
「やったぁ!」
マリィの小さな手がぴょんと跳ねる。
「マリィちゃんは何が食べたい?」
「俺は肉料理がいいな。ガッツリ食いたい気分だ」
俺が挟み込むように言えば、すかさずアーシェが露骨に眉をひそめる。
「アンタには聞いてないんだけど」
冷たい視線が突き刺さる。
きびしいなぁ、俺に。
「んー……あれ、なんだっけ。ふぇい、アレたべたい」
「ん? どれだ?」
聞き返すと、マリィは指をくるくると回しながら、頭の中で言葉を探している。
その仕草すら愛らしい。
何か食べたいものでもあるのだろうか。
こいつが好きなのものと言えば基本的に甘いもの全般だ。
犬の頃からお菓子を見つけるたびにはしゃいでいたし、果物や焼き菓子には目がなかった。
マリィはしばらく両手をほっぺたに当てながら、首をかしげて考えていたが、ふいに目を輝かせ──
「……アッパレパイ!!」
「……ッ……!」
導き出された答えに、俺は息を飲んでしまった。
脳裏に浮かぶのは、懐かしい光景。
まだ、俺と彼女と出会って間も無い頃。
プレーリーの農家のおばさんからもらったリンゴを使って、クリスと二人で作った──アップルパイ。
クリスに言われたのもあったが、俺が初めてマルタローと仲良くなるために作った一品。
コイツは最初、警戒心いっぱいで俺の差し出すパイを睨んでいた。
けれど、ひとかじりした瞬間、目を見開いて、尻尾をブンブンと振ったんだ。
……覚えてたんだな。
胸がじんわりと熱くなる。
たった一度きりだったはずのあの味を、マリィはちゃんと覚えていてくれたのだ。
クリスと一緒に焼いた、あの温かな一日の味を。
「パイ料理でしたら、いいお店がありますよ!」
「うんっ! いくー!」
マリィが嬉しそうにセレナの手を握る。
その笑顔を見ているだけで、こみ上げてくる感情を押し殺すのが精一杯だった。
あの頃は、俺が焦って距離を詰めすぎて噛まれたんだっけ。
「よし、じゃあ行くか!」
胸の奥で熱く燃える想いを押し込めながら、俺は明るく声を張る。
「アッパレパイ、たべるー!」
マリィが両手を掲げてはしゃぐ。
その声に背中を押されるように、俺たちは白亜の街へと歩き出した。
噛まれた手を見やる。
もうそこに、傷は残っていなかった。
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レストラン『クローネ・デリス』店内にて──
「んぐ、むっ、ん、ん、ん、まぐむぐ」
「はぐ、もぐっもぐっ、はむ、はむ」
念のため言っておくが、この「むぐむぐはむはむ」は全部マリィとアーシェのものである。
「んぐ、もぐ、んぐ……」
「もぐもぐんぐがぐごぶっ」
うん、警戒は一応しているよ?
マリィを見守るためとは言ったが、伯爵様の娘と姪といる以上、彼女らの身の安全は俺が全力で確保しなければならないことだし。
「もぐ、んぐ、はぐ、んぐ」
「ごぶぉ、ぐ、ぐじぇれな……み、みずごぼぉ」
「は、はいお姉様……」
「ありがと、ん、ん、ん、ぷはー」
だがこの状況を見る限り、俺は全然別のことを警戒しなければならないような気がしてきた。
「もぐもぐはぐはぐんぐんぐ」
「お、お姉様、どれだけ食べるつもりですか……?」
「だ、だって負けられないじゃない」
「んぐ、んぐ、はぐ、もぐ」
「あぐはぐもぐむぐんぐはぐむぐもぐ──ごぶぉっ!」
なんか頭痛がしてきた。
目の前には、どこか圧倒的に間違っているとしか思えない特大のアップルパイ? が二つ鎮座している。
なんでも三十分以内に完食したらタダだそうだが、これは人の胃袋に入る代物じゃ無いだろう。
にも関わらずマリィは──
「むぐ、むぐ、もぐ……美味しい!」
いたって涼しい顔のまま、リスっぽくほっぺた膨らまして特大パイを食べ続けている。
それに対抗心でも刺激されたのか、アーシェは時間制限とは関係ない意味で鬼の早食いを始めていた。
「はぐもぐむぐあぐんぐもぐはぐ」
「むふ、んぐ、んぐ、はぐ」
「なぁ……」
「──ごぶっ!? ふぁによ!?」
目の前に座るアーシェに声をかけると、気管がおかしなことになったのか咽せてしまった。
だが──
「もうそろそろ、そのむぐむぐとかもぐもぐとか辞めないか? すごくつまんないんだが」
「人の喉につまらせといて何よ!! というか、つまるつまらないの話じゃないんだけど!?」
そう言い放ちながらも、どこか悔しそうにうつむくアーシェ。
そんな俺の内心をよそに、隣のマリィはというと、ほんわりとした笑顔のままフォークを運び続けていた。
「……なぁ、マリィ」
「ごくん……はい」
「もうちょっとゆっくり食べよう。時間オーバーしても俺が払うからさ」
俺がそう言うと、マリィはぱちくりと瞬きをして、小首をかしげた。
「なによ! 私のは!?」
「お前は自分で払えよ。伯爵令嬢だろうが。金持ってんだろ……」
「うぅ……! お小遣いは決められてるのよ。今月は色々買いすぎてピンチなの〜! 食べきれないと払えない……」
「えぇ、お姉様……本気で言ってるんですか……?」
セレナが呆れたように眉をひそめる。
だがアーシェは、じたばたと足をばたつかせながら呻いた。
食べきれないならそもそも注文するなよ。
だが、その買いすぎたという服にマリィがもらった服が入っていると考えると、俺が出してあげてもいいかなぁとは思う。
金なら一応ブリーノとサイファーに少しもらったし。
……じいさん達に甘えてばかりだな。
少しは恩返ししないといけない。
しかし、特大アップルパイ……一つ銀貨七枚。
それが二つとなると銀貨十四枚。
分かりづらいかもしれないが、日本円にすると諭吉が吹き飛んでいくレベルである。
可愛い女の子三人と食事が出来てそれなら安いかもしれないが、こんな出費がいきなり出るとは思わなかった。
店員さんとか、御愁傷様ですって顔しながらこっち見てるし。
「冗談よ。っていうか私、本気で払うつもりないからね。絶対時間内に完食してやるんだから」
「自分で自分の尻が拭けるなら、俺も文句はないけどな」
「冷たい男。きっとモテなかったのね……奥さん以外には」
「ぐっ」
痛烈な一撃がクリティカルヒットする。
胸を抉られたような気持ちで言葉に詰まった俺を、マリィが見上げた。
「ふたりとも、けんかしないで。これ、あげるから」
「いや、それはマリィのだから、他の人が食べたらルール違反なんだよ」
「そうなの? みんなでたべたほうが おいしそうなのに……」
「ふ……ふぉおお」
けなげな提案に、ぐらりとアーシェの心が揺れたようだ。
思わず顔を背けて赤面し、唸るように息を漏らしていた。
「……おい、ここで抱きついたりするなよ?」
「しないわよ。でもなんか……マリィちゃん見てると、自分がとてつもなく汚れた人に見えてくるっていうか……とてもどす汚れてそうなあんたの娘とは思えないのよね」
「誰がどす汚れてるんだよ」
「けんかしないで」
「あぁ、ごめん、マリィ」
マリィの一言に、俺たちはすぐさま矛を収めた。
柔らかな空気が流れる中、ふと残り時間を表している砂時計を見る。
「おい、もうあとちょっとしか時間ないぞ」
「い、いけないこんな言い争いしてる場合じゃなかった! マリィちゃん、一気にいくからね!」
「うん!」
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──で、結局
「……ねぇフェイクラント……お金貸して」
こんなことになるんじゃないかな、とは思っていた。
「……分かったよ」
「い、いけません。姉の不祥は私が……」
セレナが焦って財布に手を伸ばすが、俺はそれを手で制した。
「いいんだよ。マリィの服はアーシェのお金だしな。タダでもらったら悪いから」
まぁ、結局俺が払うことになったが、文句はない。
唯一の救いは──
「ぷはっ──おいしかったぁ! またこようね!」
マリィはしっかりと、時間内に完食したということくらいか。
見た目は痩せ気味なのに、あのタイヤみたいなアップルパイはどこに消えたというのだろう。
まぁ、元々魔物だし、よく分からない異空間と繋がっているのかもしれない。
「次は学校ですね」
「うんっ!」
俺たちはまた次の目的地へと歩みを進めた。
ふと感じたのは……マリィの顔──その笑みが、俺の遠い日々を重ねる。
話し方こそ違うが、プレーリーで恋した女の子の面影を映すその顔に、俺の胸は締めつけられ続けていた。