第百十三話 「父親の気分」
三人娘が部屋を出て行き、俺は伯爵ロベルトとセリエスさんに囲まれていた。
朝食時に娘であるアーシェを叱ったときよりも、さらに数段真剣な顔で。
いや、もはやあの時とは別人かと錯覚するほどの鋭い眼差しだ。
重々しく口を開いた伯爵に、俺も最初は思わず背筋を伸ばしてしまった。
「君とゆっくり話したい」などと真顔で言うものだから、すっかり覚悟を決め、身構えていた。
なのに──
「──その時私は、絶体絶命のピンチを迎えていたのだッ」
伯爵の話は、予想の三歩も四歩も先を行く内容だった。
まるで朗読会のように胸を張り、堂々と語っている。
──己の過去の冒険譚を。
「あの時……大きなパンが落ちていなければ、おそらく私は死んでいただろう! 腹を満たした私は意気揚々と洞窟の奥に進んだ!」
「へ、へぇ〜!!」
俺は曖昧に相槌を打つことしかできなかった。
セリエスさんはというと、百回は聞かされているであろう話にもかかわらず、完璧な愛想笑いで頷いている。
もはや芸術の域だ。
伯爵の視線は遠くの空を見つめるように細められ、語りのギアは早々にトップスピードに入ったらしい。
「しかしッ!! なんということか……その先はモンスターハウスだったのだ!!」
ガンッ! とテーブルを叩く音に、思わずビクリと肩を跳ねさせる。
隣のセリエスさんは動じることなく、パンパンと拍手していた。どうやら反射で出るらしい。
職人技だ。
「私は──」
伯爵が大仰に手を掲げる。
「──仲間たちと共に血路を開いたッ!!」
盛り上がるごとに語気が強まり、ジェスチャーがどんどん派手になっていく。
最初は聞いているだけだった俺も、次第に伯爵の熱量に押されて、なんだか本当に凄い冒険譚だったような気がしてくるから不思議だ。
……とはいえ。
もう何時間が経っただろうか。
朝食が終わってからずっと続いているこの武勇伝大会は、窓辺の陽光がすっかり傾いてきたことから察するに、昼食の時間が近づいているのは間違いない。
いったいこの人、どれだけ話す気なのだろう。
「いやぁ、すまんな! また長々と話してしまった!」
ようやく伯爵が満足げに胸を張る。
「い、いえ、楽しいお話をありがとうございます……!」
心の中では半泣きになりつつ、俺はひきつる笑みでそう返した。
セリエスさんはというと、微塵も疲れを見せず、完璧な拍手で伯爵を称えている。
その姿に、思わず変な感動を覚えた。
もしかして普段からこうなのか? この人、いったいどれだけの耐久値を持っているんだ。
いや待てよ……よく考えたら伯爵というのは貴族社会のトップランカーだ。
彼の相手を務める以上、セリエスさんは毎日これを聞かされている可能性が……。
……ご苦労様です、セリエスさん。
俺はこっそり心の中で、彼に最大限の敬意を払った。
ロベルト・グランチェスター伯爵。
ゲームの中でも、彼はどこか謎めいた存在だった。
言動の端々に伏線じみたものが漂っていたものの、物語として大きな関わりはなかったと記憶している。
たしか、彼の祖先が千年前の"大戦"で軍を率いていた名将だったはずだ。
千年前に起こった女神と大魔王の大戦。
その渦中で歴史に名を刻んだ名門の血筋。
勇者の妻となるセレナも、きっとその力を色濃く受け継いでいたのだろう。
実際、大魔王戦の終盤で、セレナは主人公エミルの右腕として善戦していた。
祖先から受け継いだその才が、ギリギリまでエミルを支えてくれたのを覚えている。
けれど、グランチェスター家そのものが物語の本筋に深く関わることはなかった。
大魔王の封印が解かれても、彼らが積極的に動くような展開はなかったはずだ。
……いや、違うな。
考え直す。
彼らが積極的に動くことはなかった、ではなく──動かなかった……もしくは既に動いていた後なのかもしれない。
エミルが幽閉されている以上、現在エミル視点で世界に起こることは分からない。
ゲームでは青年編までカットされているようなものだが、実際は俺も経験した通り、魔王たちも動いている。
ということは、エミルが解放されるまでに何かしら動きがあったのかもしれない。
「ところでフェイクラント君」
「はい」
伯爵がふと声を落とした。
先ほどまでの武勇伝の熱気がすっと引き、まるで陽が陰ったかのような空気が流れた。
「セレナから聞いたが、君は北の大陸から来たそうだね」
「あっはい。プレーリーから来ました」
静かに答えた俺の言葉に、伯爵の表情が一瞬曇る。
「……そうか。あの村の出身だったか」
伯爵がしばし目を伏せる。
知っているのは当然だ。
既にプレーリーが滅んだという噂は各地で話題になった後だろうし、それのせいでセレナもカンタリオンからここに引っ越したのだから。
「……辛い思いをしたな。しばらくはここにいてくれて構わんよ」
「ありがとうございます……」
伯爵は少し目を伏せたまま、声の調子を緩めてくれた。
気を遣ってくれているのだろう。
「君が来てくれて屋敷がとても賑やかになった。セレナもアーシェも、マリィ嬢と楽しそうにしている」
そう言う伯爵の目には、どこか慈愛にも似た温かさが宿っている。
「はい……本当に、二人にも感謝しています」
俺は素直に応じた。
セレナもアーシェも、マリィと仲良くしてくれている。
アーシェはちょっと方向性がおかしいけれど……。
「居てくれる間は、できるだけ仲良くしてやってほしい。これは私からのお願いだ」
「お願い?」
「……というのもな、あの二人はもう少ししたら魔術大学へ預けることになっているのだ」
「魔術大学、ですか」
「うむ。貴族としてのたしなみであると同時に、これからの時代を生き抜く術を身につけてもらわねばならん。だが、学びの場は自由ではない。身分や格式の重圧がのしかかる場だ」
伯爵の声には、重責を抱える父親としての苦悩が滲んでいた。
「だから今のうちに、思う存分遊ばせてやりたいのだ。マリィ嬢と無邪気に遊ぶ二人を見ていると、私もつい顔がほころぶ。フェイクラント君さえよければだが……」
「そんな、俺としてもマリィの遊び相手になっていただけるなら嬉しいです」
「ふふ、お互い苦労する父親同士だな」
静かにそう言った伯爵の笑みに、俺もつられて口元をほころばせた。
まぁ、父親ではないのだが。
セリエスさんもずっと突っ込まないし、もう"そういうこと"になっているのだろう。
ならば、貫き通した方がいい。
目的である転移魔術は会得したので、もういつでも大陸移動する準備はできているが、マリィも楽しそうだし、焦る必要はない。
ひとまずは、ここを拠点にしていてもいいだろう。
「ふぇい!」
弾む声が耳に飛び込んできた。
顔を上げると、ちょうど扉が開き、マリィが駆け込んでくるところだった。
「おお?」
マリィの手は、セレナとしっかり繋がれていた。
二人とも頬を赤らめながらも満面の笑顔で、どこか誇らしげに胸を張っている。
だが、それ以上に目を引いたのはマリィの髪だった。
「ふふっ、見てあげてください。フェイクラントさん!」
セレナが少し得意気に声を弾ませる。
マリィの髪は、あのボサボサだった長い癖毛が見事に整えられていた。
わずかにカールの残る白銀の髪はセミロング程度の長さにまとめられ、清楚でありながら愛らしい雰囲気を漂わせている。
「本当はもっと短くした方が可愛いと思ったんだけど、マリィちゃんがこれがいいって言ったのよ」
アーシェが少し悔しそうに唇を尖らせながら説明した。
なるほどな、とすぐに気づく。
クリスと同じ髪の長さだ。
ストレートで髪色こそ違えど、その髪型は見覚えがある。
俺と同様、マリィもクリスのことが好きだったのだろう。
誰よりも近くで見ていた彼女の姿を、無意識のうちに追いかけたのかもしれない。
「可愛いぞ、マリィ」
「え、えへへ! やったぁ」
頭を撫でると嬉しそうに目を細める。
好きな人の髪型になりたかったんだな。
そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「叔父様」
セレナが一歩前に出て、伯爵に向かって頭を下げた。
「マリィちゃんにシュヴェルツの街を案内したいんですけど、よろしいですか? お昼も街で取ろうかと」
「ふむ」
伯爵は少し考え込んだが、すぐに柔らかな笑みで頷く。
「もちろんだとも。街の者たちにも紹介してやるといい」
「はいっ!」
セレナがぱあっと顔を輝かせる。
アーシェも、「ふん」と小さく鼻を鳴らしながらも、その目はどこか期待に満ちていた。
外、か……。
ふと、俺は考える。
マリィを街に連れていく。たしかに良いことだ。
屋敷の中だけでなく、人として外の世界を体験するのは大切だろう。
でも──
「じゃあ、俺も行くよ」
思わず口をついて出た俺の言葉に、アーシェが露骨に嫌そうな顔をする。
「無理についてこなくてもいいんだけど?」
やんわりと、だがしっかり拒絶の意志を込められた。
まあ、今朝の件を考えれば無理もないか……。
「そういうわけにもいかないんだよ」
マリィは、力加減がまだ全然わかっていない。
勢い余って俺を吹き飛ばしたときみたいに、感極まって力を込めたら、何が起こるかわかったもんじゃない。
ましてや、街中だ。
はしゃぎすぎて看板をへし折るとか、壁を蹴破るとか、冗談じゃない。
もしそんなことになれば、いくら伯爵の庇護があるとはいえ、責任問題になる。
(……まだマリィ自身、自分の力に戸惑ってるはずだしな)
だからこそ、目の届くところにいてやらないと。
父親の気分とは、こういうことをいうのだろうか。