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第百十二話 「アーシェ嬢は可愛い女の子が好き」

 現在、俺はグランチェスターの屋敷で朝食を取っている。


 ……いや、厳密には「取らされている」に近い。


 豪奢なテーブル。

 白磁の皿に盛られた色鮮やかな料理たち。

 ふんわりと鼻腔をくすぐる焼きたてのパンの香ばしい匂いに、スープの湯気から漂う滋味豊かなハーブの香気。


 なのに、なぜだろう。

 こんなにも美味そうな朝食を前にしているというのに、味がしない。


 喉を通るのは食べ物じゃない。

 冷や汗と羞恥心と、あとほんの少しの絶望だ。


「……ふぅ」


 溜め息のつもりが、小さく吐息として漏れた。

 その音に気付いたのか、俺の隣に座る白銀のマリィがくるりと首を傾げる。


「ふぇい、たべないの?」

「あ、ああ……今食べる」


 マリィの無垢な瞳に見つめられ、慌ててフォークを手に取る。

 だが、その手は震えていた。


 マナーが、どうこうという問題じゃない。

 問題は、もっと根本的なところにある。


 今、目の前には伯爵ロベルト。

 その隣には凛として座るアーシェ。

 そしてアーシェの隣には、愛らしい笑みを浮かべるセレナ。

 背後では執事セリエスが控え、他にも使用人たちが一糸乱れぬ態度で並んでいる。


 視線が、刺さる。

 まるで刃のように。

 これが貴族の食卓か──などと感慨にふける余裕はない。


「…………ふん」


 アーシェが俺と目が合っては露骨に顔を背ける。

 彼女が何故こうも俺に対してそんな態度を取るのは、今朝の事件があったからだ。


 アーシェが俺を起こしに来た時は散々だった



 ---



「あ、あ、あ、あ……」


 朝食に呼びに来ただけなのに、彼女の目に映った光景は寝巻きの胸元を豪快に開かれたまま硬直している俺と、そこに手を差し入れ抱きついている、素っ裸の白髪美少女。


 当然、弁解など無理。


 以降説明不要。


「くぁwせdrftgyふじこlp;@:!!!!!」


 はははは、何言ってんのかもう全然わかんねーよ。


「あーしぇ、へんなの」


 あぁ、今んとこキミがそのナンバーワンだ。



 ---



 ──で


「…………ふん」

「う……」


 アーシェはかなり手加減抜きでご立腹の様子だった。

 まぁ、そりゃしょうがないと思うけどさ……。

 きっと、彼女にとって今の俺は、男としてかなり最低レベルのゴミ野郎だと思っているのであろう。


 要するに、女の敵だと。


 どこかで必死にそう言い聞かせながら、俺は震える手でパンをちぎる。

 もはや味などしない。

 石みたいに固い気がするのはきっと気のせいではない。


 ──と、その時だった。


「……アーシェ? 何かあったのかい?」


 伯爵ロベルトが、ふと穏やかな声で尋ねた。

 だがその瞳は、笑ってはいない。

 まるで観察者のように静かな眼差しが、じっとアーシェと俺を見つめていた。


 やめてくれ伯爵、もう少し傍観者でいてくれ。


 心の中で叫んでも、助けの女神は現れない。

 隣ではセレナが、どっちに味方していいかわからず視線を泳がせている。


「お、お姉様……お父様が気にされてますよ? 落ち着いて……」

「知りません。こんな、まさか……自分の娘を素っ裸にして抱きついて眠る最低の男のことなんて!」」


 アーシェが鋭く言い放った。


 言葉の刃が、突き刺さる。

 おそらく今の俺は、凍てつく氷原に素肌で投げ出されたような顔をしているに違いない。


「だ……だからちょっと待てよ! 誤解だって! 誤解もいいとこだ!!」


 慌てて手を振る俺に、アーシェはさらに容赦なく詰め寄る。


「待たないわよ!! 最初から怪しいと思っていたけど、まさかマリィちゃんにそういう教育していたなんて……! 私が着せてあげたマリィちゃんの寝巻きも、わざわざひん剥いてベッドに連れ込んだんでしょこの悪党っ!!」


 テーブル上の食器が、びくりと跳ねる。

 勢いよく叩かれたテーブルが振動し、スープの液面が波打った。


 冷や汗がこめかみを伝う。

 この場を切り抜けるには、とにかく冷静に、事実を淡々と述べるしかない。


「連れ込んでねぇし! だいたい俺は昨日気絶して、そのまま寝巻きに着替えさせられて身体を拭かれても起きなかったんだぞ!? 屋敷の間取りもわからないのに、どうやってわざわざマリィを部屋に連れ込んで脱がすんだよ!」


 反論すると、アーシェの眉がピクリと跳ねた。


「む……そう言われると確かに……いや、でも!」


 しかし彼女は食い下がらない。

 視線の先には、相変わらず無邪気に朝食をつつくマリィがいる。

 無垢すぎるその仕草が、逆に俺を窮地へ追い込む。


 伯爵は腕を組みながら、静かに様子を見守っている。

 セレナはオロオロと目を泳がせているが、今のところフォローには入れない様子だ。


「でも、どうして裸なのよ!?」

「こっちが知りたいわ!! そんなもん!!」

「じゃあ、何!? マリィちゃんは裸でふらふら屋敷中を歩いてて、わざわざアンタの部屋を見つけ出して、あげくアンタのベッドに潜り込んで、偶然アンタの服の中に手を突っ込んでたって言いたいわけ!?」

「……残念ながら、それしか考えられないようだ」

「他人事みたいに言うな!! 絶対あんたがよからぬ教育をしてる結果でしょうが!!」


 ドンッッ!!


 テーブルが揺れるほどにアーシェが両手で叩くと、並べられていた食器がカランカランと跳ねた。

 セレナがビクッと肩をすくめる。


「お、お姉様……落ち着いてください……!」


 必死に宥めようとするセレナの声もむなしく、アーシェは怒りの炎を燃やし続ける。

 伯爵もついに身を乗り出し、重厚な声を低く落とす。


「ふむ……フェイクラント君。率直に聞こう。真実はどこにあるのかね?」


 声だけは冷静だったが、その背後に張り詰めた圧力が隠れているのを俺は敏感に察知した。


 終わった……終わった……。


 背中を冷たい汗がつたう。

 もはや弁解は尽きた。


 そう思った、その時。


「あの……」


 静かな声が食堂に響いた。


 マリィだった。

 白磁の皿の上でパンを握りしめたまま、小さな唇が言葉を紡ぐ。


「ふぇいを、いじめないで……」


 そのひと言に、食堂が水を打ったように静まり返った。


 セレナが驚きに目を見開き、伯爵すらもわずかに眉を上げる。

 そしてアーシェは、まるで打ち据えられたかのように硬直した。


「マリィちゃん……?」


 震える声で尋ねるアーシェに、マリィはこくりと頷く。


「ふぇいは、わるくないよ? わたしが……わたしが、いっしょにねたかったの」


 ぽつりぽつりと、言葉が落ちる。

 その無垢な声音が、ひとつ、またひとつと、凍てついた空気を溶かしていく。



 ---



「それじゃあ、ほんとにヘンなことはされてないのね?」

「うん……」

「でも、なんで裸だったのよ」

「訊いてやるなよ。女の子だぞ?」

「アンタは黙ってて。私だって女だし!」


 アーシェがテーブル越しに鋭く睨みつけてくる。

 いや、鋭いっていうか、もはや刃物だ。

 視線が刺さるどころの話じゃない。串刺しだ。


「じゃあ察してやれよ。事情があるんだろ。そんなことよりマリィ、その服かわいいな……すごく似合ってる」

「ほんとう!?」


 話題をすり替えるつもりでいたのだが、俺の言葉にパアっと花が咲いたように顔を輝かせるマリィ。

 その反応は犬のころのマルタローとまったく変わらない。

 耳をぴんと立て、尻尾を振るような、無垢な喜び方だ。


 見た目はまるで幼い頃のクリスを彷彿とさせるけれど、たぶんクリス本人に同じことを言えば、顔を真っ赤にしながらふんっと鼻で笑い飛ばしているのだろう。


「ふふん、私の趣味がいいからね! 可愛い女の子には、やっぱり可愛い服にしないと!」


 アーシェが得意気に胸を張る。

 マリィが着ているのは、黒地に淡いレースが施された、どこかクラシックなお嬢様ドレス。

 パフスリーブとふわりと広がるスカートは、まるで人形の衣装みたいだ。


「アーシェの趣味にしては、自分に似合わなさそうだけどな」

「ぬうう!」


 マリィの服はアーシェの持ち物からセレクトされたらしいが、ゴスでロリな感じのその格好は、それこそ人形めいた雰囲気のマリィにしか似合わない感じだ。

 西洋風お嬢様ではあるが比較的平面顔っぽいアーシェには敷居が高そうに見える。


「セレナならまだわかるが……」

「腹立つ言い方するわねこの男は。何が似合うかなんて私でもよくわかってるわよ。だから可愛くて買ったけどお蔵入りしてるわけだし……っていうか話すり替えんな!」


 勢いよく噛みついてくるアーシェ。

 それを横で見ていたマリィは「?」という顔のまま、小さなパンをもぐもぐと食べ続けている。


 その様子に、セレナが小さく微笑んで声をかけた。


「マリィちゃん。女の子にとって服は大事なものだから、一緒にいたいからって服を脱いで男のベッドに入り込んじゃダメよ? というか、今後は私の部屋で一緒に寝ましょ!」


 お姉さんらしく優しく諭すセレナ。

 けれどマリィは、ぷるりと小さく首を振った。


「……でも、わたし、ふぇいといっしょにいたい」


 言葉こそ幼いが、その瞳にはまっすぐな光が宿っていた。

 その純粋な訴えに、場の空気がふわりと変わる。


「うう……い、一緒にいたいからって、この男も裸のマリィちゃんを見て抱き返していたし、本当に何されるかわかったもんじゃないわよ!? 私やセレナの部屋の方が安全なの!」

「あーしぇは、わたしのこと、きらい?」

「……ッ!?」


 うるうるした瞳で、マリィは上目遣いでアーシェを見上げる。

 その瞬間、アーシェの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。


「そんなことは無いって言うか、寧ろ好きって言うか……いやその」


 マリィと目線を合わせようとせずに、感情を無理やり抑え込むようにキュッと口を紡ぐ。


 あぁ、なるほど。

 アーシェはそういうのに弱いのか。


 自分には似合わないけれど、可愛い服に、それに似合う可愛い女の子からの要望に戸惑っている。

 しかしそんなことは気づかずに、お構いなしにマリィは詰め寄る。


 アーシェを見つめ、無垢な表情で追い討ちをかける。


「あーしぇ、おねがい。いじわるしないで?」

「ふ、ふぉおおお……」


 ぷるぷると震えだすアーシェ。

 なぜだろう。

 危険な感じしかしない。


 まるで爆発寸前の爆弾だ。

 いやむしろ、今まさに導火線に火がついている。


 俺はとっさにマリィの前に手を出し、庇うようにする。


「落ち着けアーシェ。深呼吸だ。今すぐ」

「うきゃー!! ごめんなさいお父様もう私ダメですぅ!!」


 叫ぶなり、アーシェは椅子を勢いよく蹴って立ち上がった。

 そのままぐるりとテーブルを回り込み、マリィに向かって一直線に突撃する。


「やーん! もう駄目! 駄目よそんなこの子ったら可愛すぎーっ!!」

「わっ!?」


 マリィが押し倒される。

 その小さな体がアーシェに抱きしめられ、盛大に頬ずりされていた。


「ねえねえねえ! あんな奴ほっといて私の部屋おいでよ! お菓子あるよ! ケーキあるよ! 服とかもういっぱいあるよ!」


 アーシェの異様なテンションに、マリィはぽかんと目を丸くしていた。

 おそらく、生まれてこの方、これほどの過剰なスキンシップは初めてなのだろう。


 というか、アーシェ、お前そんなやつだったっけか。

 昨日はマリィとセレナが遊んでいる印象が強く、アーシェは興味なさそうにも見えていたが、どうやらアーシェはマリィのことをそんな目で見ていたらしい。

 恐らく我慢していたのだろうか、急に解き放たれた彼女は遠慮なしにマリィの柔らかそうな頬に自分の頬を擦り付けている。


 ……だが、その光景を見て、俺は一抹の不安が胸を過ぎる。


 マリィの手がアーシェの腕に触れている。

 クリスの──いや、アルティアの記憶がちらりと脳裏をよぎる。

 あの忌まわしい呪いがもし彼女にも受け継がれているのだとしたら──


 けれど。


「はぁぁぁ……マリィちゃんしゅき……」


 アーシェが、むしろ頬をすり寄せながらうっとりとした声を漏らす。


 ……どうやら、心配は杞憂だったらしい。

 少なくとも、マリィが誰かに触れたからといって命が奪われるようなことは起こらない。


 その事実に、心の底から安堵する。


 だが次の瞬間、伯爵の低く重厚な声が響いた。


「アーシェ。少々はしゃぎ過ぎではないかね」

「あっ……!?」


 雷が落ちたようにアーシェが飛び退く。

 ぐしゃぐしゃになったドレスの裾を慌てて整えながら、ばつの悪そうに頬を染めて席に戻っていった。


 なんだか知ってはいけないものを知ってしまった気がするが、俺のことはとりあえずうやむやになってくれたようなので、ヨシ。



 ---



 やがて食事が終わり、アーシェはセレナとマリィを引き連れて部屋を出ていった。

 その背中は妙に誇らしげだった。


 そして、静かになった食堂。


 残されたのは俺とセリエスさんと、伯爵ロベルトだけだった。

 あらためて顔を向けると、伯爵はどこか満足そうな表情でこちらを見つめていた。


「あの、言い忘れてましたが、ここまで世話をしていただき、本当にありがとうございます。こんな豪華な朝食までいただいて……マリィも、お嬢様たちと仲良くしてもらって……」


 俺は背筋を正し、頭を下げた。

 本当はもっと早く礼を言わなきゃと思っていたが、朝から怒涛のような展開で機を逸してしまっていた。


「ふふ。君は随分と律儀だね」


 伯爵はやわらかく微笑み、湯気の立つ紅茶に口をつけた。

 その表情に険はなく、どこまでも穏やかだった。


「マリィ嬢は良い子だ。なに、こちらこそ感謝しているよ。セレナもアーシェも、あの子にすっかり夢中だ。屋敷がこれほど賑やかになったのは久しいことだからね」

「そ、そう言っていただけると……」


 胸を撫で下ろす。

 どうやら伯爵は、マリィのことを「普通の可愛い子ども」として見ているらしい。


「さて……フェイクラント君」


 伯爵が、ふと真面目な声色で口を開く。


「君とは、ゆっくり話しておきたいと思っていたのだよ」

「話?」


 そう言って、伯爵はゆっくりと席を立ち、テラスのほうへと視線を向けた。


「少し、時間を取ってくれるか?」

「……は、はい」


 迷いなく答える。

 伯爵の目はただ真剣で、そこに疑いも警戒もない。

 それだけに、こちらも誠意をもって向き合わなければならないと思えた。

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