第百十話 「悲劇の定義」 【???視点】
悲劇の定義について考えてみようか。
簡単に結論を出してしまえば、おそらく重度の喪失を指す概念。
大事な何か、あるいは何かを失うことで、人の魂にはそのカタチをした穴が空く。
心の隙間、魂の亀裂。
それを生じさせる出来事が、一般的に悲劇と言われるものではないだろうか。
しかし、一概に大事なものといったところで、人の価値観は多種多様。
家族や友人、恋人などがその最上位に来やすいという一般論はあるものの、それらを失っても何一つ感じない人種がいるのを私はよく知っている。
なら、万人に共通する悲劇とはなんなのか。
とある本には、何を無くしたかではなく、どのように無くしたかが重要なのだと書かれていた。
落としたり見失ったりするよりも、奪われたり壊されたりするほうがより強い悲劇であると。
さて、では聞くが、それは本当にそうなのだろうか。
分かりやすい加害者が存在する悲劇には、怒りという逃げ道が存在する。
簒奪者を憎むことで悲しみを忘れられるし、復讐という人生の目標まで与えてもらえる。
そんなものが、本当に混じり気のない悲劇なのだろうか?
実際、人の精神というものはよく出来ており、強い負の感情を連続して持ち続ければ安全弁が作動する。
つまり、怒りや悲しみが快感に、それを過ぎれば無関心に。
何らかの形で心は均衡を保とうとし、歪であっても傷は修復されていく。
ならば──
塞がらない亀裂、癒えない傷口、常に出血し続けている悲劇とは、どんなものを指すだろうか。
もし、そんなものがあり得るのなら、それはきっと最初から持つことを許されないという存在。
その手は空虚。
何も掴めないがゆえに、無くすことすら出来ず、最初から欠けているがゆえに癒すこともできない。
永遠の迷い子。
そんな、少女がいた。
彼女の誕生にまつわる、忌まわしい物語を。
約千年前。
現在のヴァレリス王国北端に位置する海辺の港町「サン・クリル」。
その位置に、かつては違う村があった。
あぁ、すまない。
これから話すことは、君たちも既に知っている物語にかなり類似している。
一組の辺境貴族から産まれた、手で触れることを許されぬ、"呪いの子"。
君たちが知っている話と違うといえば、その手で命あるものを触れれば、生命力を吸い取るのではなく、無条件で"命"そのものを奪い去る。
魔力を集めたくてそうなったわけではない。
彼女は初めから"愛されたい"と願っていたからこそ、生まれつき持つ覚醒した"神威"が、"その逆"の性質をもたらした。
神威とは、渇望から来るもの。
しかし、渇望したものが"手に入らない"からこそ、その力は無限に増し続ける。
欲しいものが手に入らなければ、より強く欲求が生まれるように。
母親は気が触れ、狂死した。
父親は周囲から蔑まれ、断頭台にかけられた。
彼女に罪などありはしない。
親の因果が子に報い……それは不条理な世の一つの形。
どれだけ人を殺そうと、彼女は顔を顰めることもなく、口を開けば詩を紡ぐ。
一歩外に出ると、村全体が不気味に静まり返るのみ。
その痛ましい狂気。
誕生にまつわる忌まわしさ。
恐怖と、嫌悪と、忌避と、憎悪と……それらに晒されて育った少女は、失う以前に何も持っていなかった。
痴愚でこそなかったものの、その環境のせいでまともに機能しない感情は哀しいという意味さえわからない。
ゆえに悲劇。
滑稽でさえある外れ者。
しかし、容姿こそ美しい彼女に乱暴を働こうとする者も何人かは存在したが、彼女に触れた者は例外なく命を奪われた。
美は儚さであり、蹂躙される危険あってこそだと仮定すれば、彼女の美貌は美に非ず。
醜にもなれぬ虚無だろう。
その永遠性。
両親が死んでからは犬猫のように徘徊し、何を食べているのか、何処で寝ているのか誰も分からないにもかかわらず、彼女はやつれも朽ちもしなかった。
あれは人間じゃない。
そう言われるのも、なるほど必然の成り行きだったと言えるだろう。
陳腐だが、魔女であると……そう断罪されても仕方ないほど彼女は外れていたし、彼女に触れて死んだ者は既に百を超えている。
生かしてはおけない存在であり、埋葬しなければならない過去だった。
だから──
彼女は捕らえられ、処刑場へと引き立てられる。
触れることが出来ない以上、その扱いは器具を介したものであり、家畜を追い立てるに等しい行為。
それでも、彼女は抵抗をしなかった。
彼女がもしその気になれば、捕り手たちを皆殺しにすることも可能だったはずだろうに。
では、なぜそうしなかったか。
答えは簡単。
彼女は死と処刑の意味を分かっていない。
命を奪うことは彼女に取っての日常であり、死ぬのが他人だろうが、自分だろうが、そこに違いを見いだせない。
処刑台の上。
東の海から現れる太陽の光を眺めながら、彼女は無垢な心で歌を歌うのみだった。
「────」
断頭台の賛美歌。
祈りのような神の呪いを。
「あぁ……」
それは生涯初めての、そして最後になると思われた人としての彼女の言葉。
「綺麗だね──」
その言葉が、耳に焼き付いて離れない。
群衆の中、戯れにそれを見物していた私は魂を打ち砕かれた。
当時には扱える者すらほとんどいなかった魔術を研究している流浪の旅人。
私──オルドジェセル・ディ・ローゼンクロイツは、彼女の在り方に打ちのめされた。
あれは法則から外れている。
これから死ぬというのに、彼女は未だ、大地を、海を、空を──そしてこの世界すべてを愛して止まない永劫に続く想いを渇望し続けている。
ならば私は、彼女を救済することに全てを懸けよう。
彼女の前に跪き、この身は奴隷と成り果てよう。
どこまでも麗しい、断頭台の姫君。
それに相応しい未来を与えることこそ、私の求める究極の──
その後、私はその村を業火で埋め尽くし、彼女を攫った。
悲しむことも泣くことも知らない彼女の代わりに、私が怒らなければ救いが無さすぎると強く思った。
それは余計なお世話であり、偽善の類と言えるだろう。
だけど私は、彼女の人生に胸が震える。
なぜこの子が、こんな目に遭わなければならないのか。
何が悪くて、何が間違っていたというのか。
真実、神というものがいるのなら、そいつこそが呪われるべきだろうと──
だから私は、世界から忌み嫌われ、且つ世界を愛し続ける彼女のために、
この世界を彼女にとってより良いものにするために、
世界を──この手で掌握する道を選んだのだ。
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「やっぱり、あなたとよく似てるわよね」
「それはそうだ、誰もが恐れ、忌み嫌う少女に魅せられた者同士なのだから」
「あの人は、あなたの代わりなんでしょう?」
「君の半身も、今や君の代わりのようなものだがね──」
座に居座る私の前に映る、白き世界からこちらを覗く女神の声。
互いに声以外の干渉は出来ない。
封印が解けて私が世界に漏れ出ているからこそ、許されている範囲の内側。
向こうの女神も未だ、剣に存在を封じ込められているようなもの。
「はぁ……懲りないのね。せっかく封印したのに、千年経っても未だ考えが変わらないなんて」
ため息をつく女神の表情は、おおよそ私たちの出会いの頃とはかけ離れている。
世界を共に旅し、良い仲間に出会い、成長した結果だ。
しかし、その美しさ、永遠性に変わりは無い。
「この身が魔に落ちようと、私の考えは変わらない。現に世界は、私の法で成り立ったままだというのが何よりの証拠。それに、私を信じ、付いてきてくれているザミエラ達の期待にも応えてやらねばならんしな──」
「……無駄よ。何度甦っても、勇者は必ず現れる。それに、サイファーやレイアだって、必死に今もあなたの復活を止めようとしてるわ」
キッと大きな瞳で睨みつけてくる女神。
私はそれに全く怯むことなく、寧ろ穏やかに笑みさえ浮かんでしまう。
アルティア──そんな顔までできるようになったのだな。
「でも、この決着も、彼ら次第」
女神の視線が動く。
その先には、先ほどまで私たちが二人でみていた光景があった。
西方大陸にある屋敷にて、共に眠る一組の男女の姿。
「おかしな話ね。彼らをみていると、昔に戻ったみたい。まるで……あなたと旅をしていた時のような──」
断頭台から救い、共に旅をした若き女神と大魔王。
千と余年も前に、確か私たちもこのようにベッドを共にした。
「これからは、また一緒」
「あぁ……一緒だ」
そう言い放ち"俺"は"クリス"の手を握った。
同情であり、打算であり、そして真実でもある契り。
罪悪感が胸を刺す。
俺もまた、"奴"と同じく彼女を救いたいと思っているはずなのに。
クリスもまた、これまでの壮絶な人生……いや犬生を生きてきた。
だからだろうか……。
全ての決着がついた後、クリスと人生をやり直すことができたなら、それはどんなに素晴らしいことだろうと──
そんな、夢みたいなことを思ったのは──