第百九話 「命名・マリィ」
「おんなー?」
まるで小鳥のように首をかしげるマルタロー。
その無垢な顔が、逆に俺の背中をゾワッとさせた。
とぼけた顔しやがって……こっちはそれなりに悩んでたんだぞ。
「女だよ、女。女の子ってこと」
「おんにゃのこ〜?」
俺の言葉に、マルタローは頬をむにっと伸ばされながらも「うにょーん」と気の抜けた声を漏らす。
──平和だ。
あまりにも平和すぎる。
昨晩は命懸けで戦っていたとは思えない空気感に、俺の方が現実感を失いそうになる。
「フェイクラントさん、大丈夫ですか!? 一体何が!?」
その空気を切り裂いたのは、セリエスさんの焦った声だった。
振り返れば、庭の入口から彼とアーシェ、セレナが勢いよく駆け寄ってくる。
俺が地面に転がってる姿を見て、心配してくれているらしい。
「い、いやぁ、あははは……急に抱きつかれたので、ビックリして後ろに吹っ飛んだだけですよ……」
俺は笑いながらも、できる限り誤魔化すように言う。
さすがに「この子の一撃は魔王クラスでしてね」なんて言えない。
「そ……そうでしたか? そんな風には見えませんでしたが」
セリエスさんが疑念に満ちた眼差しを向けてくる。
あの冷静沈着な目にじっと見つめられると、妙な汗がにじんできた。
やめてください。
これ以上聞き詰められると、俺のポーカーフェイスももたない。
とか考えていると──
「フェイクラントさん!」
間に入るように、セレナの声が飛んでくる。
俺の方へ駆け寄ってきた彼女の顔は、どこかキラキラしていた。
「勝手に連れ回してしまって、申し訳ありませんでした」
「いや、いいよ。コイツも楽しんでたみたいだしな」
「うんっ!」
隣で満面の笑みを浮かべて頷くマルタロー。
それを見て、自然と口元が緩む。
アーシェはというと、やや離れた場所で腕を組み、気怠げな表情を浮かべたまま立っていた。
見た目は完璧なお嬢様然としながらも、その態度にはどこか"庶民的な疲れ"が滲んでいる。
「ところで、この子の名前、何なの?」
「えっ、名前?」
……遊んでいたというのに、名乗ってなかったのか。
マルタローが自己紹介しなかったのか、あるいはそもそも名前を理解してなかったのか……。
「名前はマル──」
言いかけて、思考が止まった。
ちょっと待て。
女の子の姿で『マルタロー』だなんて勇ましい名前はどうなんだ?
っていうか、クリスもサイファーもマルタローがメスだったことに気づかなかったのかよ。
それともメスだとわかっていてこんな名前をつけたのだろうか。
「マル?」
アーシェが眉をひそめる。
……まぁいい。
今度、サイファーにでも確認しておこう。
「えーっと……マルじゃなくて……マリィだ」
「マリィちゃんですか! 可愛いお名前ですね!」
セレナが瞳を輝かせながら、マルタロー……改めマリィにぎゅっと抱きつく。
その声の調子が、まるで妹を可愛がる姉のように優しかった。
「まりー?」
抱きしめられながら、俺の方を見上げて「?」とした顔のマリィ。
俺は周囲には聞こえないように小さく囁く。
「お前の名前だよ……。新しい名前」
「ふーん」
納得したような、してないような返事。
それでも、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「ところで、話は変わりますが……」
咳払い一つ。
セレナが俺の方を向き直り、ピシッと指を立てた。
「ダメですよフェイクラントさん! 女の子にあんな格好をさせておくなんて!!」
「……あ、すまん」
思わず頭を下げてしまう。
いきなり変身したのでどうしようもなかったのだが、確かに女の子を裸のままにしたのはさすがに不味かったよなぁ。
着替えなんて持ってなかったし、外套をかけたとはいえ、不審者に間違われても仕方ない。
「まったく、父親失格です!!」
「…………父親?」
「そうです!! 親ならちゃんとしてあげないと!! 服も着せてあげない、髪はボサボサ、おまけに全身泥だらけだったじゃないですか!!」
「あ、あぁ……」
言われてマリィを見る。
今の彼女は、髪もさらさら、服も清潔感溢れている。
屋敷の誰かが風呂に入れてくれたのだろうか。
確かに、側から見れば育児放棄する父親感はあった……のかもしれない。
「今度からはフェイクラントさんがちゃんとやってあげてくださいね! マリィちゃんが可哀想です!!」
顔をぐいっと近づけてきて、理不尽なほどの圧力で怒られる。
「は、はい……」
なんだろう……いつの間にか、父親認定されている……。
だが、否定する気にはなれなかった。
どんな言い訳をしようが、女の子を裸にしたままという事実だけは拭えないのだ。
「もう、マリィちゃんも言わないとダメですよ!!」
「んー?」
小首をかしげるマリィ。
まぁ、プレーリーハウンドはもともと服なんて着ない生き物だし、人の言葉だってあまり分からないのかもしれない。
俺やクリスと暮らす中でなんとなく覚えていった言葉を発しているのだろう。
ステータス上は四歳──でもセレナとあまり変わらないように見える。
やはり人とは、根本が違うのだろうか。
『俺と……家族になってくれないか』
あの時交わした約束。
……父と、娘か。
まさか、あの約束がこんな結末になるなんてな。
などと考えていたその時──
「いやいや、穏やかじゃないか。私もその輪に入れてくれないか」
感傷に浸っていると、背後から落ち着いた品のある声が響いた。
一目見て分かった。
静かに佇むその人物は、威風堂々たる気配を纏いながらも、どこか柔らかな眼差しを湛えていた。
ロベルト・グランチェスター伯爵。
「お父様!」
アーシェが声を弾ませる。
整えられた髭に、鋭くも理知的な切れ長の瞳。
シンプルながら重厚な刺繍の施された礼装に身を包み、背筋を伸ばしたその姿は、まさに"統治者"の風格そのものだった。
「お帰りなさい、叔父様」
「うむ」
伯爵はアーシェとセレナに微笑みを向ける。
その瞬間、険しかった表情が一気に柔らいだ。
「愛しいセレナよ。お客さんを私に紹介してくれるかい?」
「はい!!」
セレナは誇らしげに一歩前へ出て、ピシッと姿勢を正す。
「こちらが、セリエスの友人であり、カンタリオンで私を助けてくださった方、フェイクラントさんです。そして、その隣にいるのが娘さんのマリィちゃんです!」
「ほぉ、君がフェイクラント君か」
伯爵は近づきながら、優雅に右手を差し出した。
その手は、剣を持つためではなく、多くの人と握手を交わしてきた貴族の手だ。
紳士然とした振る舞いの中にも、どこか人懐こい気配がある。
「セリエスが使いの途中で世話になったと聞いているよ」
使いの……?
あぁ、グライオスの群れと共闘した時のことか。
あの時は助けたというより、助けられた側だ。
むしろセリエスさんが俺たちを助けてくれた記憶なのだが。
「い、いえ。お世話になったのは俺の方です。セリエスさんは本当に──」
「フェイクラントさん」
その時、耳元で静かな囁きが滑り込んできた。
セリエスさんの声だ。
低く、穏やかな、しかしどこか焦った響き。
「……頭の布、取って」
「えっ? あっ!! す、すみません!!」
言われてようやく気づく。
しまった。
完全にバンダナのことを忘れていた。
「す、すみません! 礼儀をわきまえておらず……」
急いでバンダナを外し、礼儀正しく頭を下げながら、伯爵へ向き直る。
──その瞬間だった。
空気が、凍った。
「…………」
目の前の空間から、一気に温度が消えていくのを感じた。
誰も何も言わない。
ただ、沈黙の中に、何かが耐えきれずに弾ける音がした。
「……ぷっ……」
セレナが、唇を強く噛んで震えていた。
目尻がピクピクと痙攣し、堪えきれない笑みが口元から零れ落ちそうになっている。
「ブフーーーーーッ!!」
その直後、アーシェが盛大に噴き出した。
上品な立ち居振る舞いを一瞬でかなぐり捨てて、手で口元を押さえながら爆笑寸前の表情で肩を震わせている。
そして一番近くにいたセリエスさんは──
「……クククク……ッ!! は、腹が……ククク……ッ!!」
肩を背けて吹き出し、顔を真っ赤にして堪えながらも、呼吸がままならないほど笑っていた。
(はっ……!!)
その時、ようやく俺は悟った。
やらかした、と。
アフロ──俺の頭は、ブリーノの古代魔術の被害により、球体にもほどがある完璧なアフロスタイルに変貌していたのだ。
忘れてた……!
俺は今、アフロだった……!
もはや墓穴どころではない。
冥府直通の落とし穴に、自ら飛び込んだようなものだ。
しかし──
「はははっ。どうしたのだね? その髪型は……なかなかにユニークじゃないか」
当の伯爵だけは、少し肩を揺らしながらも、笑いの波に飲まれることなく軽く流してくれた。
さすが、伯爵。
器が違う。
「セリエスさん、笑いすぎです……!」
セレナが軽く肘でつつくも、セリエスさんはただ震えるように首を振るばかりだった。
「おそろい?」
声の主はマリィだ。
まんまるの目をこちらに向け、ふにっと笑いながら首を傾けている。
……いや、お前はもうアフロじゃないだろ。
今の髪は、クリンクリンの長髪だが、決してアフロではない。
「……プレーリーハウンドの頃のお前とはお揃い……かもな」
「そっかぁ」
あっさり納得された。
もういい。
なんかもう、何もかも、どうでもよくなってきた。
そんなことを考えた瞬間──
周囲の笑い声が、ふっと遠のいた気がした。
セレナの声も、アーシェの吹き出すような高笑いも、セリエスさんの堪えきれない嗤いも──
まるで、水の中に沈んでいくように、どんどん小さくなっていく。
(あれ……?)
視界がゆっくりと揺れる。
足元の芝生が、ふわふわと柔らかくなったような錯覚に陥る。
軽く眩暈を覚え、立ちくらみのように重心がふらついた。
──ああ、そういえば。
(何時間……起きてたんだっけ、俺)
思い返しても、はっきりしない。
ヴェインとの戦闘から始まって、夜中マルタローを抱えて走って、ラドランへ飛んで……今度はプレーリーまで戻って、転移して、また……。
気がつけば、俺の体は悲鳴をあげていた。
あぁ──これは、倒れるな。
膝が崩れる。
視界が斜めになる。
気づけば周りの笑い声が、焦る叫びに変わっていた。
でも、もう聞こえない。
音も、視界も、遠ざかっていく。
そして。
倒れたと思った瞬間、柔らかな腕に包まれた気がした。
軽くて、あったかくて、懐かしくて。
意識が完全に途切れる直前、耳元で微かに誰かの声が囁いた。
「しょーがないなぁ……もう……」
その声は、優しくて、少しだけ照れてて──
俺の知っている、誰よりも大切な声だった。