第百八話 「ニート女」
視界が広がり、再びあの煌びやかな街──シュヴェルツの街並みが目の前に現れる。
尖塔の連なる屋根、石畳に反射する朝日、遠くに響く馬車の音。
けれど、今の俺にとっては何もかもが背景に過ぎなかった。
「マルタロー……!」
その名を呟いた瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
まるで身体が勝手に動くかのように、俺はグランチェスターの屋敷へと駆け出していた。
家族に会いに帰る。
それだけのために、まるで重力を忘れたような足取りで。
──この街に来たのは二度目だというのに、相変わらず屋敷の中は広すぎる。
同じような廊下が何本も交差し、重厚な扉がいくつも並ぶ。
「っと……確かこっちだったよな」
曲がり角の先にある部屋──俺の記憶にある、マルタローが眠っていた場所。
その扉を開いた瞬間、心臓が高鳴る。
「マルタロー!」
だが、そこには──
「……あれ?」
布団は空だった。
シーツには微かな寝跡。
まるでさっきまで誰かが寝ていたかのように、掛け布団がふわりと持ち上がったままの形を保っている。
「いない……? いや、でもここだったはずだ……」
焦燥が胸を占めていく。
まさか、どこかに消えてしまったのか?
それとも、目を覚まして一人で……
いや、考えてる暇はない。
「マルタロー!! どこだー!?」
俺はそのまま、屋敷の廊下を駆け出した。
上階のバルコニーも、応接間も通り過ぎたが、どこにもいない。
そして、最後に中庭に辿り着く。
「マルタロー!!」
扉を勢いよく押し開いた先。
切り揃えられた芝、薔薇が咲き誇る庭園。
「あっ、フェイクラントさん。おかえりなさい」
薔薇の枝を剪定していたセリエスさんが俺に気づく。
……戦闘も強くて、家事もこなせて、庭仕事もできるって……何者だよこの人。
職業スキル「万能」でも持ってんのか?
「セリエスさん! あの、マルタローを見ませんでしたか? さっき部屋に行ったらいなくて……!」
「あぁ、あの子なら先程目を覚まして……お嬢様たちと遊んでいますよ」
「え……遊んで……?」
「ほら、あそこです」
セリエスさんが指差した先。
庭園のさらに奥、噴水を囲むように設置されたティーテーブル。
その中心には、美しく並ぶ紅茶と焼き菓子。
洒落た椅子に腰掛けるアーシェと、ミストフレアのようなパペットを手にはめて遊ぶセレナ。
そのセレナの前に座っている、一人の……白い髪の少女。
青いドレスに身を包み、セレナと笑いながら、手にはキラーチェイサーのようなパペット。
あれは……間違いない。
「マルタロー……?」
小さく呟いたその瞬間、彼女は振り返った。
長いくるくるの白髪が風に揺れ、左耳近くの一房だけ、柔らかなベージュに染まっている。
目が合う。
真っ直ぐに、迷いなく、俺の姿を捉えたその瞳は──どこまでも透き通った、クリスそっくりの、青。
そして彼女は。
「あっ!!」
ぱぁあっと顔を輝かせ、大きな声で口を開く。
「あっ!! あっ!!」
何かをいいたげだが、上手く言葉が出ないように「あっ」だけを連呼する。
そして──
「ふぇい!!!!」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がドン、と鳴った。
彼女は可愛らしいお嬢様ドレスを身にまとい、片手にはキラーチェイサーのパペット。
恐らく、セレナと一緒に遊んでいたのだろう。
「マ、マルタロー!? あれ……なんか格好が……」
「ふぇいぃいいいいいっ!!」
会話の余地もなく、彼女は突進してきた。
「うおっ──!」
反射的に腕を広げ、受け止めようとした、が──
「おかえりッ!!!!」
「ぐおおっ──!?」
──ドンッッ!!
という音と共に、気づけば俺は、空を見上げていた。
彼女の頭が、俺の胸に激突した音だ。
風を裂き、意識が反転する。
(……あ、これ……飛んでる)
セレナとアーシェの「あ……」という間の抜けた声が、やけに遠くに聞こえた。
そして、地面が背中を撫でるように俺を迎える。
「ぐべっ!! べべべべべべべ!!」
数メートル転がったところで、ようやく止まった。
「あれぇ……?」
俺と衝突した位置で、地面にうつぶせになったマルタローが「どうして?」とでも言いたげに首をかしげていた。
「い……いてて……」
擦り傷の痛みよりも、心の衝撃の方が大きい。
な、なんだあの馬鹿力……。
『マルタローの位階は──ワシと同様、第四位階じゃ……』
レイアさんの言葉が脳裏をよぎる。
ああ、そういや……神威位階が上がっているとか言っていたな。
第四位階だと、確か独奏……。
「ステータス……」
思わず、魔術ウィンドウを展開して確認する。
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ステータス
名前 :マルタロー
種族 :人族
職業 :なし
年齢 :4
レベル :20
神威位階 :覚醒
体力 :91
魔力 :62
力 :744
敏捷 :89
知力 :61
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「…………は?」
目を疑った。
「覚醒!? 第四じゃなくない!? っていうか、力どうなっとんねん!!」
あんなに可愛かったマルタローが、今や俺が勝てるステータスは何一つない。
特に力に関しては、おおよそ細腕の幼女が出していい出力を超えている。
むしろ、どこにそんな筋肉が……?
「ふぇいー、だいじょうぶ?」
「うおっ!!」
突然、ウィンドウの中からマルタローの顔がひょこっと現れた。
ビックリしすぎて声が裏返る。
「お、おう! 大丈夫だぜ!!」
「…………ほんとう?」
しゅん、と上目遣いで見上げてくる。
その目が潤むものだから、もう怒る気も起きない。
(……早く会いたかっただけだよな)
その気持ちが、加減を忘れた突進に変わってしまったのだろう。
そりゃそうだ。
魔王の一角であるヴェインを一撃でぶっ飛ばしたことを考えると、この馬鹿力は理解できるか……。
それに、まだいきなり手に入れた力をセーブ出来るハズがない。
しかし。
「…………?」
俺は、ずっと勘違いしていた。
大きな瞳、長いまつげに、しっかり確認したわけではないが、全裸の時、男にしか無いモノは生えてなかった……気がする。
"彼"だなんて、ちょっと悪かったよな。
女……いやメス……。
うーん、人の形をしているし、ステータスも人族になっていたしやっぱ女か。
いや、まぁどっちでもいいか。
そんなことより、今のマルタローは俺を助けるために生まれ変わった姿なんだ。
長い旅路の果て、神威が覚醒し、人の姿になってまで……。
「ふ……」
思わず、笑みがこぼれる。
言ってやらなければな。
今の気持ちを伝えたい。
だから俺は、手をそっとマルタローの肩に置き、優しい笑みで言葉を紡いだ。
「マルタロー……お前……ニート女だったのか……」