幕間 「ラドランの灯」 【三人称視点】
ラドランの街。
そこにある一軒の家──木造の二階建て、質素だが、整った外観を持つ門番・アルドの住まい。
昼過ぎの陽射しが、すりガラス越しに柔らかく差し込み、家の中に淡い光を広げていた。
居間の奥、寝室の一角。
そこには、一人の少女が眠っていた。
静かな寝息と、かすかに動く胸元。
その傍らには、アルドが椅子に座っている。腕を組んだまま、目を閉じていた。
テーブルの上には、小さな小瓶。
澄んだ緑色の薬液が、淡く揺れていた。
「本当に治るのか!?」
ドアが乱暴に開き、荒い足音と共に現れた男が、感情を隠さずに声を荒げた。
門番・ランス。
フィーネの恋人であり、アルドの同僚だ。
「……静かにしてろ」
アルドは、低く、しかしはっきりとした声で言った。
目を閉じたまま、それでも隣の少女の眠りを乱すなと、語気に込める
事の発端は、二週間ほど前だった。
フィーネがどうしても見たいと言った花があった。
エルミナの灯草。
青白く光る、幻想的な花。霧ヶ丘に自生しているというそれを、少女はどうしても一度この目で見たかった。
反対したはずだった。
けれど──優しい兄と、恋人は、少女の願いを無下にはできなかった。
だからこそ、アルドとランスは護衛として同行したのだ。
帰り道。
霧が深まり始めた丘の途中で、突然の羽音とともに現れたのが──眠禽グライオスだった。
巨大な鳥のような魔物。
青灰色の羽、鋭い爪、そして──口から放つ、濃密な催眠ガス。
なんとか撃退はした。
だが、フィーネはその時のガスを吸い込んでしまった。
……それ以来、ずっと目を覚まさなかった。
医師に見せても、薬師に頼んでも、これだけ長く眠っている理由は分からないと言われた。
誰にも、どうすることもできなかった。
ランスは、それから変わってしまった。
夜に酒場に入り浸り、荒れた口調と態度。
部下に怒鳴り、物に当たり、そして何より、自分を責め続けた。
魔物を、より激しく憎むようになった。
仕方がないことだった。
ラドランという街は、代々、魔物の脅威と戦い続けてきた街だ。
壁の外にある森も丘も、そこに巣食う獣も──人々にとっては敵以外の何物でもない。
その中で、たとえ理屈でわかっていても、“魔物のせいで恋人が目を覚まさない”という現実は、容易に怒りへと変わる。
アルドは静かに、小さな瓶を取り出す。
中には、青白く淡い光を放つ薬液が満ちていた。
小さなスプーンで、フィーネの唇へと薬を運ぶ。
数滴。
ほんの数滴を飲ませると、彼女の胸が小さく揺れた。
二人は息を呑む。
時が止まったような静寂の中──
「……ん……」
長いまつげがふるえ、少女の瞳がゆっくりと開かれた。
「……おにい……ちゃん……?」
寝起きの声は、どこかけだるげで、夢の続きを引きずっているようだった。
けれど、それでもその言葉は──あまりにもはっきりとした、生の証だった。
「気がついたか!! フィーネ!!」
兄の隣に立つランスの声に、フィーネが思わず瞬きする。
目を丸くする少女を、ランスは何も言わずに強く抱きしめた。
声が震えていた。
肩も、指先も、堪えきれないほどに震えていた。
「きゃっ……!? ランス……? ど、どうしたの……?」
やがて、顔を上げたランスの頬には、久しぶりの笑みが浮かんでいた。
それは、どこか少年のような、無垢で、まっすぐな──久しく見ていなかった、彼本来の笑顔だった。
「やったなアルド!! この薬、いったいどこで手に入れたんだよ……!!」
ランスが叫ぶようにして問う。
アルドは、静かに答えた。
「……街のみんなが、血眼になって探していた人からだよ」
「……ッ!?」
その言葉に、ランスは言葉も出なかった。
グランティスから旅してきたという、どこか抜けた雰囲気の男。
彼は魔物を殺さず、言葉で叱って追い返していた。
当然、ランスは彼に不信と警戒の目を向けていたというのに──恋人はその男によって救われたと言われると、反応に困る。
「まさか……この街に魔物を連れ込んだっていう、あの……?」
「そう。あの人だ」
ランスの顔から、笑みが少しずつ消えていく。
そして、その代わりに複雑な表情が浮かんだ。
アルドは立ち上がり、窓の外に目を向ける。
遠くの空に、青い風が流れていた。
「なあ、ランス……僕らの街は、昔から魔物と戦い続けてきたよな。俺だって魔物は怖いし、憎いって思うこともある」
拳を、強く握る。
「でも……ああいう人まで、退けてしまったらいけないんじゃないか?」
ランスが、黙ったまま視線を逸らす。
そして、ゆっくりと──けれどはっきりと、言った。
「……その考えは、間違いだ。アルド」
その声には、迷いがあった。
感謝と信頼と……そして恐れと、正しさを守ろうとする、頑なさ。
「今回のことは、心から感謝する……でも……魔物と関係を持つ人族を、信用するわけにはいかない。今回のことがすべてじゃないんだ。そこを間違えるなよ……」
その言葉に、アルドは微かに目を伏せた。
「……間違い……か」
呟くように言ったその声には、揺るぎない思いが滲んでいた。
「街のルールに縛られていたら……妹は……フィーネは、目を覚ますことはなかったかもしれないんだ……」
「…………」
「それでも間違っているのか……僕の考えは……」
その言葉に、ランスは何も返せなかった。
風が、窓の隙間から吹き込んで、カーテンを揺らす。
静かな午後。
目覚めた少女の声と、薬瓶の中の光が、ただ淡く、部屋を照らしていた。