第百六話 「身体は変わっても、心は変わらない」
「始祖の魔物!? なんだよそれ?」
思わず声を張り上げていた。
"始祖"なんて名前を聞いただけで、どこか神話や伝説の存在のように感じてしまう。
マルタローが──あのちびモフが、そんな大層なものだというのか。
俺の戸惑いをよそに、サイファーはゆっくりと口を開いた。
「全ての魔物の共通の祖先として考えられ、その名がついた。なぜその名が付いたか……それは、始祖の魔物の特異な性質にある」
「特異な性質……?」
俺の口から漏れた言葉に、サイファーは頷き、湯気の立つスープを一口すすった。
そのまま、しばし遠くを見つめるような目で、ぽつぽつと語り始める。
「……超進化。歴史ではそう言われている」
「超進化……?」
「始祖の魔物は、自身の肉体の構造や性質を変化させると言われている。生物の常識や領域を超えてな」
そんな話、今まで聞いたこともなかった。
だけど、俺の頭に浮かんだのは、あの夜の光景。
マルタローが光に包まれ、姿を変えて、俺の前に現れたあの瞬間。
人族の少女──いや、まるで"幼い頃のクリス"そっくりな姿で。
「魔物と言っても、この世界には様々な魔物がいる。狩りの性能に特化した肉食の魔物、それから逃げるために擬態や毒をもつようになった草食の魔物。こいつらは環境に合わせて進化した魔物じゃ」
サイファーは、居間でじゃれ合うチェイシーたちをちらりと見やった。
「じゃが、始祖の魔物は違う。進化にその個体の"意志"が強く影響する。なりたいと強く望めば──マルタローは、チェイシーになったり、ティクロや……ミスティにだってなれる。そして、この世に存在しない全く別の生物にも……種や属、あらゆる段階をすっ飛ばしてな」
「…………!!」
なるほど……。
じゃあ、あの時のマルタローは──
人族になりたいと思って、あの姿になったのか。
長い時間を必要とせず、一瞬で姿を変える。
進化というよりは……変身。
そんな生物が、本当にいるのだろうか。
魔術なんてある世界だが、種や属をすっ飛ばして肉体が変化するなんて、エネルギーの法則を無視しすぎている。
歴史によればというが、そんな確証はどこにもないし、個体の"意志"によって強く影響するのはもはや……
「お主の考えている通りじゃ」
眉を寄せる俺に、すぐさま答えたのはレイアさんだった。
まるで、俺の疑念を読み取ったかのように語り出す。
「始祖の魔物などと大層な名前が付けられておるが、それは恐らく"神威"によるものじゃとワシらは思っておる。マルタローが人になりたいという"渇望"を強く持ち、それが反映された結果じゃ」
「待ってくれ。神威って……想いの強さによって魂の存在密度を引き上げたり、オーラを具現化して攻撃したりする技じゃないのか? 俺も神威は扱えるが、少なくとも変身なんて芸当は──」
「そりゃそうじゃ。お主は、まだ第三位階までしか扱えておらんからな」
レイアさんが即答する。
言い切られたその一言に、俺は息を呑んだ。
(第三位階……?)
そういえば、神威には段階があったはずだ。
以前、レイアさんが少しだけ教えてくれた。
神威は五段階に分かれており、俺のいる顕現位階は第三位階だと……。
「そう。理由はわからんが、人になりたいと思って人になったのなら、マルタローは恐らく神威を使える。そしてその位階は──ワシと同様、第四位階じゃ……」
「…………」
──待ってくれ。
俺が時間をかけて、やっと辿り着いたというのに。
あの、ちびモフは……もう第四位階?
理解が追いつかない。
いや、認めたくないだけかもしれない。
けれど──思い出してしまう。
まだ俺がここにいた頃、火竜に襲われ、死の淵に立たされていたあの時。
マルタローは、俺を庇うようにして立ちふさがり、光に包まれて、信じられない力を振るっていた。
あれが、神威だったのなら納得がいく
レベル差をものともしない、理を超えた力。
「マジか……」
ため息まじりに、そう漏らす。
サイファーが、ぽん、と俺の肩に手を置いた。
「マジじゃ……。だが、戸惑っているのは、お前だけではないかもしれんぞ。目を覚ました時、お前がいないと、不安になるんじゃないか? ……いつかの時みたいにな」
いつかの時。
俺がサイファーと喧嘩して、腹を立てて、この山を飛び出した日のこと。
マルタローを置いて、一人で夜道を降りて行った、あの馬鹿な日。
……後から聞いた話だ。
その日のマルタローは、大好きだったリンゴすら見向きもしなかったらしい。
ただ、俺が帰ってくるのを、ずっと待っていたと。
「はやく帰って、そばにいてやれ」
サイファーはそう言って、ゆっくり笑った。
まるで、その優しい声が、俺の迷いをほどいてくれるように。
それでも、不安は胸の奥に居座り続けていた。
マルタローの姿が変わってしまった今、俺は……どう接していいのか、正直わからない。
尻尾を振って甘えてきたマルタローとは、明らかに違って見えた。
それでも──
「大丈夫じゃ」
隣で、レイアさんがぽつりと呟いた。
その声は、芯の通った、確かなものだった。
「今まで通り接してあげればよい。見た目が変わっても、マルタローはマルタローじゃ」
──そうだ。
二人の言う通りだ。
姿が変わったって、心まで変わったわけじゃない。
昨夜、炎の中で手を伸ばしてくれた彼女は、俺が「ずっと一緒だ」と約束した大切な家族は──変わらず、マルタローなんだ。
迷ってる場合じゃない。
戸惑ってる暇なんて、どこにもない。
だって、あの子はきっと、今も俺を待っているから。
「……わかった」
小さく、でも確かな声で、俺はそう言った。
言葉にした瞬間、胸の霧がすっと晴れていく。
そんな決意が顔に出ていたのか、向かいのサイファーがふっと目を細めた。
「……それにしても、たった一年で見違えるほどに成長したな」
ぽつりと漏らした声は、あの日のような鋭さとは程遠い、柔らかく、どこか寂しさを孕んだ音だった。
鍋の蓋を傾けながら、彼は笑う。
「お前がこんなに立派になってくれて、嬉しいわい。……ワシらも少しは、師匠らしいことができたのかのう?」
「……いや、それはサイファーとレイアさんのおかげだ」
照れくさくて、思わず視線をそらす。
けれど、胸の奥に灯った感情は、紛れもない「ありがとう」だった。
俺はここで、間違いなく育ててもらったのだ。
「ふん……まだまだじゃ」
レイアさんがそっぽを向きながらも、ほんのり頬を染めてそう言った。
……変わらないなぁ、本当に。
鍋の香りが、また一層強くなる。
何でもない野菜のスープだったのに、急にしょっぱく感じたのは俺だけではないハズだ。
「……今度は、マルタローと一緒に帰ってこい。その時はどれだけ強くなったか……ワシが直々に試してやるからの」
「あぁ、今度はマルタローも連れてくる」
そう返すと、レイアさんは満足そうに腕を組み、サイファーは再びスープをすすっていた。
……この空気が、どこか懐かしい。
「ところで、アレはちゃんと持っとるか?」
「アレ? ……あぁ!」
言われてすぐに思い出した。
ここを出ていくとき、レイアさんから手渡された、あの宝石のような首飾り。
「ちゃんと持ってるぜ。ほら」
俺は首元に手をやり、服の中からそれを取り出す。
旅の間、ずっと肌身離さずつけていたのだが、あまりにも高価そうに見えるせいで、人目につかないようにいつも服の中に隠していた。
サイファーとレイアさんは、それを数秒ほどじっと見つめる。
その目に浮かんでいたものが何なのか、俺には分からない。
懐かしさだったのか、安心だったのか、あるいは──少しだけ、後悔にも似たものだったのか。
けれど、次の瞬間には。
「……ならいい」
それだけを言い残して、サイファーはスープの器を置いた。
レイアさんもまた、小さく咳払いをしてぽつりと続ける。
「マルタローも心配しているじゃろう……そろそろ帰れ」
そう言った彼女の声は、まるで送り火のように温かかった。
俺はもう一度、首飾りを服の中へと戻し、ゆっくりと立ち上がった。
扉の前で、二人に向かって頭を下げる。
「……あぁ、行ってきます」
その言葉に、誰も返事はしなかった。
けれど、扉を閉じる前、確かに見えた。
レイアさんが、口元だけで、小さく笑ったのを。