第百五話 「始祖の魔物」
「クリス……」
その名を口にした瞬間、胸の奥に静かな波が立った。
転移魔術──本来なら、ブリーノの庭先に跳ぶはずだった。
いきなり遠くへ行くのは怖かったので、無意識に安全な場所を選んだつもりだった。
けれど──結果として、俺の意志はあまりにも正直だったらしい。
視界いっぱいに広がる、懐かしい草原。
湿った風。
揺れる穂先。
俺が唱えたオリナスの行き先は、プレーリーだった。
目の前には、一本の木の根元に寄り添うようにして佇む十字の墓標。
……一年前、俺がこの手で立てたものだった。
クリスを──幼馴染であり、初恋の相手であり、今も心に棲み続ける彼女。
墓標は今も、驚くほど綺麗だった。
本来なら、雨風に晒されて木は朽ち、周囲には雑草が生い茂っていてもおかしくない。
けれど、埃一つすらないままに保たれていた。
まるで誰かが、今もずっと、ここを守ってくれているかのように。
「……ふっ」
自然と、笑みがこぼれた。
「瞬間移動なんてできるなら、お前のそばに行きたかったんだな……ずっと」
そっと膝をつき、墓標に手を伸ばす。
温もりなどあるはずもない木の十字架は、それでも、どこか柔らかく感じた。
ゆっくりと、手のひらでなぞる。
まるで、過去を撫でるように。
「聞いてくれよ、クリス……」
ぽつりと、言葉が零れた。
「俺はあれから、旅を続けているよ……。ヴァレリス王国では、ベルギスの命を助けたりしたんだ……あの最強のベルギスだぜ?」
この世界で旅してきたことを、墓に向かって話す。
ただのモブだった男が、王女とも知り合いになれたりとか、十ヶ月も囚人船で強制労働させられた話も、今ではウッディゴーレムなんかの数倍も強い魔物にも苦戦しなくなったことも……。
全部が全部、以前彼女に言ったような嘘の話ではない。
少しだけ、拳を握ってみせる。
かつて何もできなかったこの手が、今は誰かを守るために動ける。
「……俺も、少しは強くなったんだぜ?」
風が吹く。
草原がさざ波のように揺れる。
まるで……クリスが笑っているかのように。
「クリスといた頃の俺は、ほんとにダメだった。泣いて、逃げて、嘘をついて……。でも、お前がいなきゃ、俺、今ここにいなかった」
思い返す。
あの時、言いにくいことを叱ってくれた。
頑張れと、背中を押してくれた。
俺の全部が、あの頃の"お前"に支えられていた。
『マルタローのこと、頼んでもいいかな?』
そう、あの日の夢の中で、お前は言った。
「やってるよ……。俺……あいつと、ようやく"家族"になれたんだ」
気づけば、頬を涙が伝っていた。
ぽろぽろと、堰を切ったように、止まらない。
言葉にするたび、目の前の墓標がやけに遠くて、近くて、恋しくなる。
──でも。
それでも、やっぱり。
「……俺は、お前とも、旅をしたかったよ……クリス」
ずっと一緒にいたかった。
いつか、世界の果てまで、手を引いて歩きたかった。
お前が見たことのない景色を、一緒に見せたかった。
知らないものに出会って、知らない味に笑って──何気ない日常を、どこまでも続けていきたかった。
目を閉じれば、まだ焼き付いている。
不器用なくせに、どこか姉のように振る舞ってた姿。
怒るとすぐ口調が強くなるのに、優しさが隠せてないところ。
そして──最後に見た、あの炎の中で消えていった姿。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
風が涙を拭ってくれるみたいに吹き抜けていく。
「……バカだよな、俺。今さら、こんなとこに来て、何やってんだか……」
自嘲気味に笑って、鼻をすすった。
ふと、背後から、草を踏む音がした。
「そこに誰かおるのか?」
低く、けれどどこか懐かしい、落ち着いた女の声。
その瞬間、俺の心臓が跳ねた。
振り返る。
──黒い布で全身を包んだ、細身の影が、俺の背後に立っていた。
フードの隙間から垂れる白い髪は美しくて、不気味で。
けれど、俺の耳は、その声を絶対に忘れていなかった。
「……レイア……さん?」
その声に反応して、布の中の人影がピクリと動き、静かにフードを取り払う。
さらりと流れる長い白髪。
陽の光を受けて微かに輝く銀糸のような髪が、風に舞う。
そして、月兎を思わせるような尖った耳──魔族の証。
「おぉ……フェイか」
その姿は、一年前と変わらなかった。
少女のような姿に、どこか芯のある眼差し。
先ほどまで押し殺していた感情が一気に溢れ出し、目頭が熱くなる。
こみ上げる懐かしさに、体が勝手に動いた。
「レイアさん──ッ!!」
「ぬぉおおッ!?」
全力で駆け出して、抱きついた。
細い体に勢いよく飛び込む──その反動で、俺も彼女も川の方へとすっ飛んでいく。
──ざばぁあっ!!
水飛沫が上がる。
冷たい川に、二人して水没。
「ぶはっ!!」
「バ……バカもんが!! いきなり何をするんじゃ!!」
レイアさんは顔を真っ赤にしながら、髪を振り乱して川から顔を出す。
ずぶ濡れの白髪が額に張り付き、その怒声には、昔と変わらぬ迫力があった。
「ご、ごめん」
それでも、俺は笑っていた。
涙混じりに、心から笑っていた。
---
「ぶぅえっきしッッ!!」
その後、山道を登り、小一時間歩いて──俺は、かつての小屋に戻ってきた。
クリスや村人たちの墓は、たまにレイアさんやサイファーが下りてきて掃除をしてくれていたらしい。
しかし、夏とはいえ、濡れた服で山道を登れば冷えるのは当然だった。
一年ぶりの帰還。
「がぅ!!」
「グル……」
「ピピィ!!」
扉を開けると、真っ先に飛び出してきたのは、三匹の魔物たち。
みんなあの頃と変わらぬ元気っぷりだった。
「うぉおおっ!! ずぴっ……チェイシー、ティクロ、ミスティ……元気だったか!!」
勢いのままに抱きつくと、全員一斉に嫌そうな顔をした。
濡れているせいだ。
「挨拶はいいからとっとと着替えろ。ワシのを貸してやる」
中にいたじいさん──サイファーが、苦笑いで服を投げてよこす。
ふと、鍋の香りが鼻をくすぐる。
いつの間にか着替え終わったレイアさんが、黙々とスープをよそっていた。
この風景……。
この匂い、この音、この温度。
ただいま。
──心の奥から、自然とそう言葉が漏れそうになった。
懐かしさに、思わず目を細める。
「旅は順調か?」
「あぁ、聞いてくれよ……」
俺は、クリスの墓前で語ったように、この一年の旅路を語った。
王女との共闘、海賊や迷宮都市、囚人船に魔物の群れ。
いくつもの出会いと別れの話を。
語り終えるころには、レイアさんもサイファーも黙って頷いていた。
どちらも多くを語らないが、俺の話に耳を傾けてくれるだけで、それだけで十分だった。
──だが。
「ふむ……で、マルタローはどうした?」
サイファーの問いかけに、俺の手が止まる。
「あっ……」
しまった。
あまりに懐かしさに浸っていたせいで、今はマルタローが隣にいないのを一瞬忘れていた。
あの子は、今もあの屋敷で静かに眠っている。
でも──この場所に来てよかった。
サイファーなら。
Sランクの魔物使いである彼なら、何か分かるかもしれない。
「あのさ」
俺は意を決して口を開いた。
西方大陸で、マルタローに起きた出来事を話す。
霧ヶ丘での戦い。魔族との死闘。
そして──その最中、マルタローが光に包まれ、姿が変わってしまったことを。
俺の語りに、サイファーとレイアさんは一言も挟まず、黙って聞いてくれた。
そして。
「ふむ……やはり、そうなったか」
サイファーが、ゆっくりと口を開く。
その声音は、重く、慎重で。
「な、なにか知ってるのか? 教えてくれよ……! アイツ、急に姿が変わって……俺、どうしたらいいか分からなくて……」
思わず前のめりになる俺を、サイファーはゆるやかに制した。
目を閉じ、深い呼吸を一つ置く。
「……お前には言わないでおいたんだが……」
その言葉を吐いた瞬間、横にいたレイアさんの視線が鋭く跳ねる。
「……忘れておったくせに」
彼女の声には、乾いた棘があった。
ばつの悪そうな顔をしながら、サイファーは口元を押さえて咳払いをする。
そして、ゆっくりと俺に向き直った。
「マルタロー……あの魔物は、ただのプレーリーハウンドではない。『始祖の魔物』と呼ばれる、特別な魔物なんじゃ」
その言葉は、まるで空気を震わせるように、俺の中に響いた。
始祖の──魔物?
その言葉の意味を、俺はまだ、何も理解できなかった。