第百三話 「異質ではなく、特別」
「すみません。夢中で走っていたからわかりませんでした……まさか誰かの屋敷内に入り込んでいたなんて……」
俺が頭を下げながらそう言うと、セリエスさんは小さく笑った。
「ふふ……屋敷の塀を飛び越えたのも覚えていないなんて、よっぽど夢中で走っていたんですね」
その声音に責める色はなかった。
むしろ、若干の呆れと、状況を察しての同情が滲んでいた気がする。
今、俺たちはグランチェスター伯爵家の応接間にいた。
豪奢な天井、金色の装飾が施された調度品。
壁に並ぶ絵画はすべて額縁に収められ、どれもこれも高価なものに違いない。
──それでも、不思議と落ち着く空間だった。
重厚なソファに腰を下ろすと、傷を隠すように丁寧に包帯が巻かれた腕が、心地よく痺れていた。
セリエスさんの指示で屋敷の侍医が処置してくれたらしい。
応急手当としては十分すぎる対応だった。
そして、俺の隣のソファには──まだ眠り続けているマルタローの姿。
全身を柔らかな毛布で包まれ、胸元までしっかりと隠されている。
彼女の寝息は静かで、まるで深い水の底で揺れるように、穏やかだった。
「傷の手当てまで……本当にありがとうございます」
「当然のことをしたまでです」
相変わらず、どこか隙のない洗練された物腰。
けれど、その内側には確かな温かみがあった。
彼の立ち振る舞いには、「誰かを守ることが当然だ」という、強い矜持のようなものが見て取れる。
「そういえば、詳しい素性については話しませんでしたね」
ふと、セリエスさんが姿勢を正し、ゆっくりと名乗った。
「私はシュヴェルツの街を治め、そして……この大陸の商人組合をまとめているロベルト・グランチェスター伯爵の近衛剣士を勤めさせてもらっています」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋が微かに伸びた。
ロベルト・グランチェスター。
セレナの叔父にして、アーシェの実父。
ゲームにも登場した、この街──いや、西方大陸の要職をいくつも束ねている実力者だ。
……まさか、そんな人物の側近だったなんて。
「すごい人だったんですね、セリエスさん……」
「いやいや、立派なのはグランチェスター伯爵であって、私ではないですよ」
彼は淡く笑い、軽く手を振った。
けれど、こういう人こそ、本当にすごい人だ。
謙虚で、自分の立場をひけらかさず、それでいて誰よりも他者に目を向けている。
ありがたい。
本当に。
けれど、そんな柔らかい空気も──すぐに、緊張へと切り替わる。
「さて、話を戻しますが、フェイさん。あなたが無断で屋敷に入り込んだ件……これを無かった事にはできません。事によっては、私は与えられた仕事を果たさなければならない」
その視線は、決して敵意ではなかった。
だが、それでも──甘くはない。
彼は"守るべき立場"として、今この場で俺に責任を問おうとしている。
背筋が自然と伸びる。
「えーっと……それは……」
言い訳がましいことを言えば言うほど、逆効果なのはわかっていた。
だけど、黙っているわけにもいかない。
「そして──その子供はいったい……?」
セリエスさんの目が、隣のソファに横たわる少女へと向けられる。
その視線は、どこか警戒を孕んでいた。
「まさか、本当に……お嬢様たちを攫いに来たわけでは……」
「ちっ違います!!」
思わず、声が裏返る。
もういい。
このまま黙っている方が、よほど怪しすぎる。
何も言わないで誤魔化すには、状況が悪すぎた。
「えっと……この子は……マルタローなんです」
あまりにも突飛な言葉。
けれど、俺は真剣だった。
セリエスさんの眉がわずかに動く。
それでも、否定はしなかった。
「マルタロー……? あの、フェイクラントさんが連れていたプレーリーハウンドですか?」
「……はい。何から話せばいいのか……俺もまだ、混乱してるんです……」
声は自然と震えていた。
俺は──昨晩に起きた全てのことを話した。
霧ヶ丘でエルミナの灯草を採集していたこと。
その時に突如現れた、暴虐の魔王と名乗る魔族との戦闘。
そして──その時、マルタローが"人の姿に変わり、俺を助けてくれた"という、信じがたい現実。
俺自身、未だにすべてを理解できているわけじゃない。
だが、それでも目の前の少女が、マルタローであることに疑いの余地はなかった。
「そんなことが……?」
セリエスさんは、ようやく言葉を発した。
その声には、確かな驚きが滲んでいた。
「ええ……信じてもらえないかもしれませんが……それが、事実です」
口にした瞬間、自分でもその言葉の重みを感じる。
事実だと理解していても、それが現実味を持たないほど、あの夜は"異常"だった。
応接間の中に、重い沈黙が落ちた。
セリエスさんは、テーブルの上で指を組み、思案するように少し俯いた。
瞳の奥で、何かを慎重に吟味しているような気配が伝わってくる。
「……たしかに」
やがて、小さく口を開いた。
「そんなことが起きたなら……夢中で走って、気づかず屋敷に入り込む……そういうことも、あるのかもしれませんね」
それはまるで、独り言のような呟きだった。
何かを確かめるように、自分に言い聞かせるように。
その声音には、俺を責める色はなく──むしろ、理解しようとする意志が込められていた。
「セリエスさん……」
思わず声をかけると、彼は静かにこちらを見た。
「はい?」
「俺は……どうなっても構いません! 無断で屋敷に入ったこと、魔物を連れていたこと、すべて罰を受けます! でも、マルタローだけは……見逃してやってください!!」
俺の声は震えていた。
けれど、それでも言わずにはいられなかった。
「セリエスさんが……魔物を嫌っていることも、魔物と一緒にいる俺に不信感を抱いていることも……全部、承知してます!! でも、マルタローは──あの子は、俺の"家族"なんです!!」
頭を深く垂れた。
額がテーブルに触れるほど、力を込めて。
「お願いします!!!」
「っ……!」
言葉に詰まったような気配を感じた。
しばらくの沈黙が流れる。
「いや、そんな……頭を下げないでください」
「でも……!」
「私はただ、事の成り行きを知りたかっただけですよ。屋敷に入り込んだ件は……私が責任をもって報告します。あなたを咎めるような真似はしません。安心してください」
ゆっくりと顔を上げた俺に、彼は微笑みを向けていた。
その笑みは、穏やかで、誠実だった。
「あと……私はフェイクラントさんのことを嫌っているわけではありません。あの時のことを気にしているなら申し訳ない……。アレは、私が一方的に話しすぎてしまった」
──あの時の言葉が蘇る。
『そのプレーリーハウンドとは、別れた方がいい』
『私も、受け入れることはできない』
『魔物によって、身内を亡くしているからです』
「フェイクラントさんの能力に、私の過去は関係ない。……偉そうなことを言ってしまって、すみません。あれから、自分でも反省していたんです」
「…………」
何も言えなかった。 ただ、その言葉をまっすぐに受け止めるしかなかった。
「でも、今は……その力に感心しています」
「……どうしてですか?」
俺が尋ねると、セリエスさんは少し笑って、ゆっくりと口を開く。
「さきほど、あなたの隣にいたローゼ。あの犬は、セレナお嬢様にしか懐かないのです。伯爵家の使用人ですら引き綱をつけさせてもらえないというのに……あなたは、初対面で完全に警戒を解かせていた」
「……あ、あれは、たまたま……」
「いえ、"たまたま"ではない。あの犬は、見知らぬ者が近づいただけで牙を剥く。ですが、あなたには自分から寄っていき、穏やかな顔を見せていた」
セリエスさんは静かに言葉を継いだ。
「それに、プレーリーハウンドが傷ついたフェイクラントさんを助けるためにあの姿になったとするならば……魔物や動物に愛されるフェイクラントさんは……『異質』ではなく、『特別』だと訂正しなければならない」
「セリエスさん……」
目頭が熱くなる。
悲しみでも悔しさでもない。
俺のことを、そしてマルタローのことを認めてくれたということで心が軽くなる。
「……ありがとうございます」
俺がそう呟くと、セリエスさんは軽く頷いた。
「これも何かの縁。フェイクラントさんを、私の"客人"としてこの屋敷に招いたことにしましょう。そうすれば、今回の件も穏便に処理できます」
「えっ、そんな……」
「いえ、いっそ"友人"として迎え入れましょう。迷惑でなければ、ぜひあなたのことを色々と教えてください。……私は、あなたに興味があります」
「……はい、ぜひ。こちらこそ……よろしくお願いします」
──こうして、俺は人攫い疑惑から晴れて解放された。
そして、セリエスさんのはからいで、このまま屋敷に滞在させてもらえることになった。
傷ついた体を癒すためにも、これ以上ない恩恵だった。
「もっとも……ここはグランチェスター伯爵の屋敷。主人の許可が必要です。今は外出中で会えませんが、戻り次第、私から説明します。それまでは、ここで待っていただけますか?」
「はい、ありがとうございます」
そうして再び、ソファに身を預けた。
──心がようやく、緩んでいくのを感じた。
「ところで、フェイクラントさん」
セリエスさんが、ふと思い出したように言う。
「あなた、先程の話によると、"エルミナの灯草"を届ける予定だったのでは? ずいぶん離れてしまいましたね」
「あっ……」
そうだった。
ブリーノに頼まれて、錬金術の素材を──
って、ラドランってどれだけ遠いんだよ!
「戻る手段が……あ、いや、戻れる体力が……」
「でしたら」
セリエスさんは立ち上がり、書棚の引き出しを開けて一枚の札を取り出した。
「ラドランへの"転移スクロール"を差し上げましょう」
「えっ、そこまでしてもらうのは……」
「いえ、待っている方もきっと心配されているでしょう。……お届けするものがあるのなら、早く戻った方がいいと思いますよ」
「…………」
しばらく迷った末、俺は──
「……ありがとうございます」
そう言って、スクロールを受け取った。
そして、再び視線を隣のマルタローに移す。
今の彼女を無理に動かすのは酷だ。
目を覚ますまで、この屋敷で休ませてあげよう。
「……マルタロー。ちょっとだけ、待っててくれ。すぐ戻るから」
そう言って彼女の髪を撫で、俺は再びラドランへと向かった。