第百二話 「再会のヒロイン」
──どれほど走り続けていただろう。
気づけば、東の空が淡い橙色に染まり始めていた。
夜の帳はすでに薄れ、朝の気配がゆっくりと世界を塗り替えていく。
呼吸は荒く、視界はかすんでいる。
足は棒のようになり、全身の節々が軋んでいた。
それでも──俺は、走り抜いた。
ただひたすらに、"家族"を抱えて。
どうやら、どこかの街に辿り着いたらしい。
石畳の道に、規則正しく並ぶ街路樹。
「──はぁ……はっ……」
木の幹に背を預ける。
俺の傍には、ぐったりとした少女──いや、マルタローが静かに眠っていた。
寝息は穏やかで、すぅすぅと規則正しく上下する胸元が、唯一俺を安心させてくれる。
なぜこんな姿に変わったのか、何が起きたのかはわからない。
ゆっくりと自分の身体を見る。
擦り傷、裂傷、打撲……全身がズタボロだ。
「癒しの力よ、今こそ治癒の恩寵を──『ヒール』」
淡い光が手のひらから広がり、傷口に触れた。
だが──
「ぐっ……クソ……」
傷の深さに対し、圧倒的に魔力が足りない。
焼け石に水。
痛みは少し和らいだ気がするが、それだけだった。
しかし、街に辿り着けたのは僥倖だ。
どこかの宿に泊まって、傷の手当と睡眠を取りたい……。
「いくら残ってたっけ……?」
ポケットを探る。
が──
「げっ……無い!? まじかよ!!」
財布が……ない。
ヴェインとの激闘か、あるいはあの全力疾走の中で落としたのだろう。
どちらにせよ、もう戻って確かめる余力はない。
いや、戻れるわけがない。
「……終わった……」
俺はずるずると地面に崩れ落ちた。
もはや立っていられる気力も体力も残っていない。
背中を木にもたれかけたまま、虚空を見上げる。
朝靄の向こうで、小鳥が一声鳴いた。
静かだ。
あの狂気と暴力に満ちた夜が、まるで嘘のように、朝の世界は優しく包み込んでいた。
──その時だった。
ガサガサ……と茂みが揺れる音がした。
「……!」
思わず背筋が強張る。
「誰かいるのか……?」
緊張のまま、目を凝らす。
──そして、現れたのは。
「……なんだ、犬か……」
ピョコリと頭を覗かせたのは、まるで獣の王のような風格を纏った、巨大な犬だった。
サイズは大型犬の中でもひときわ大きく、見た目はシベリアンハスキーにも似ている。
ただし、ここは異世界だ。
そんな犬種がいる保証はどこにもない。
見た目は怖いが、こちらを敵と見ている様子はない。
四肢を伸ばし、ゆっくりとこちらへと歩いてくる。
俺の目の前まで来ると、くんくんと鼻を鳴らし、様子を窺っているようだった。
「ん……どうした、腹でも減ってるのか? 悪いな、今は何も持っていないんだ」
財布が無いという絶望が、今になって犬の餌すら買えない現実に変換された。
まさかこんな形で切実に感じることになるとは。
だが、その言葉を理解したかのように、犬は俺の隣に座り込んだ。
大きな身体をゆっくりと地面に伏せ、まるで「撫でてくれ」と言わんばかりに頭を差し出してくる。
「……随分人に慣れてるな。誰かの飼い犬か?」
俺は思わず、その頭に手を乗せた。
柔らかく、しっとりとした毛並み。
目を閉じて気持ちよさそうにする姿は、まるで人の言葉を理解しているかのようだ。
そんな穏やかな空気を、ふいに破る声がした。
「ローゼ!! どこにいるの? 出てきなさい!」
──女性の声だった。
茂みの向こう、まだ朝靄のかかる林の方から聞こえてくる。
俺の隣にいた犬──"ローゼ"と呼ばれた彼は、ピクンと耳を立て、そのままぐるりと身を翻し、茂みの方角へ向かって一声、高らかに吠える。
「ワンッ!!」
「もう、そこにいたのね? まったく……」
呆れたような声音とともに、茂みを掻き分けて現れたのは、一人の少女だった。
陽の光を柔らかく反射する、清潔で品のあるドレスをまとい、整った顔立ちに緩くウェーブがかかった金髪。
年の頃は十五、あるいはその前後か、どちらにせよ、貴族の娘だとすぐに分かるような、"育ちの良さ"が滲み出ている。
瞳の色は、どこか冷たく、鋭い琥珀色。
こちらを見据えるその眼差しは、年齢にそぐわぬ観察力と判断力を感じさせる。
そして彼女は、少しだけ首を傾げたあと、俺とローゼ、そして──
「……ふーん」
俺の傍で眠る少女、マルタローの姿を目にして、少しだけ目を細めた。
その眼差しに、はっきりとした変化が生まれたのが分かった。
警戒──いや、断定だ。
「──あんた、人攫いね」
「はぁッ!?」
ちょっと待て、なんだって?
人攫い? 俺が?
「最近、子供を攫う事件が多いって聞いてたけど……もしかして私も攫いに来たって訳? いい根性してるじゃない。私が誰の子供か知っての上なの?」
「ちょ、待て待て、早とちりにもほどが──」
「お姉様ー、どこー? ローゼ見つかったー?」
──そのとき。
もう一つの声が聞こえた。
「あっ、いた!」
どこか聞き覚えのある、透明感のある少女の声。
すぐに、茂みのの奥から一人の少女が駆けてくる。
柔らかなシルエットを描く豪奢なドレス。
風にさらりとなびく、美しい瑠璃色の髪。
その顔を見た瞬間──俺の意識がフリーズした。
「あ……」
その少女も、俺の姿を視界に捉えた瞬間、ピタリと足を止める。
そして、ほんの数秒、驚いたように目を見開いた。
「……セレナ?」
「フェイクラントさん!?」
彼女のその反応は、再会を確信させるには十分すぎるものだった。
セレナ・グランチェスター。
一年ほど前、カンタリオンの街で人攫いに襲われていたところを、偶然通りかかった俺……とサイファーが助けた少女だ。
……まぁ、その人攫いの正体は、今となっては悪友になってしまった"ハロルドたち"だったわけだが。
アルティア・クロニクルのゲーム内で俺がエミルとして結婚相手に選んだ、ミーユと同じくゲームのメインヒロインの一人。
そうだ……確かに彼女はゲームでも青年編では既にカンタリオンにはいなかった。
確か、ストーリーではカンタリオン周辺の情勢が悪化した……とかだった気がするな。
直接のきっかけは──思い出すまでも無い。
カンタリオンの隣村であるプレーリーが魔族によって滅ぼされたという、あまりにも無惨な噂が流れたからだ。
それを耳にしたセレナの両親は、即座に危機を察知した。
家庭の安全を第一に考え、旧家であるグランチェスター本家に連絡を取り、セレナを西方大陸へと避難させたのだ。
俺は思わず、辺りを見回す。
荘厳な街路樹の並木道。整備された石畳。
遠くに見える古い城郭と尖塔。
つまりここは──
「……シュヴェルツ、なのか?」
「ええ……わからなかったのですか?」
セレナの言葉を聞いた瞬間、背筋に寒気が走った。
俺はどれだけ走ったんだ?
北西──いや、北東へ?
それでも、ここは……
まさか、西方大陸の中心地の一つ、"シュヴェルツ"まで来てしまったというのか。
ラドランからは遥かに離れた場所だ。
神威で疾走し続けていたとはいえ、気が遠くなる距離だ。
どんだけ全力だったんだよ、俺……。
「ちょっと、セレナ。知り合いなの?」
振り返れば、先ほどの金髪の少女──セレナが「お姉様」と呼んでいた子。
その瞳は鋭く、眉間には僅かに怒りの皺。
怒っている、いや──明確に「苛立っている」表情だった。
「アーシェお姉様、落ち着いて。フェイクラントさんは、昔、私を助けて──」
「だからと言って、このグランチェスター伯爵家の敷地内に無断で侵入してきているのよ。どう考えても人攫いと考えるじゃない」
冷たく言い放つ金髪の少女。
初対面のはずなのに、なぜか既視感があった。
アーシェ──そうだ。
こいつも、ゲームでは青年編で、エミルの仲間になる重要人物。
貴族の家に生まれながらも、騎士としての道を志し、理知と剣術の両方を極めた、才気あふれる少女。
だが、そんな設定は今はどうでもいい。
「勝手に人攫い認定するな」
「そう? じゃあ隣で寝ている裸の女の子はどう説明するつもりかしら?」
俺の傍で眠る少女──マルタロー。
その姿を見たアーシェは、再び眉をひそめる。
「そ、それは……」
さすがに言葉に詰まった。
まさか「魔物が謎の変身して人の姿になった」なんて言えるはずもない。
セレナが困ったように仲裁に入ろうとするが、アーシェの目がそれを許さない。
……まぁ、確かに立場的には完全に不審者だ。
ボロボロの男が、裸の少女抱えて家の敷地内にいたら、俺でも通報する。
「えっとだな……これはその……」
そんな声が喉を漏れかけたその時だった。
「お嬢様方──なんの騒ぎですか?」
低く、よく通る声と共に、長身の男が姿を現した。
銀の髪を後ろで一つにまとめ、礼儀正しく整った身なりに、無駄のない騎士服。
その立ち振る舞いからして、ただの門番や従者ではないことが分かる。
──が、この男も見覚えがあった。
「ん……? 確かあなたは、魔物使いの……」
「セリエス……さん?」
やれやれ、俺はいつになったら身体を休められるのだろうか。