第百一話 「白髪の少女」
ヴェインの手の中、宙に浮いたまま、俺は相変わらず死の間際にいた。
首を掴まれ、ぶら下げられた状態。
まるで虫けらでも握り潰すような、雑な扱い。
皮膚が軋み、骨が悲鳴を上げる。肺は酸素を求め、視界は暗転と閃光を繰り返す。
──それでも、なぜか、俺はまだ絶望しきってはいなかった。
ヴェインの深紅の瞳が、俺の表情を訝しむ。
気に食わない、とでも言いたげに、舌打ちしながら握力を増す。
「テメェ……ッ!!」
首が軋む。
意識が朦朧とし、全身の熱が引いていく。
「──ぁ」
唐突、体温を奪われるような感覚。
嘔吐感と酩酊感が同時に襲ってくるような気持ちの悪さ。
「──ッ、──!?」
呼吸が出来ず、瞬きも出来ず、指一本すら動かせない。
指が動かない。
まぶたすらも持ち上げられない。
生命力そのものが絞り取られるような感覚。
俺の血液が、ヴェインの神威によって蒸発し、白煙となって消えていく。
「お前、まさかな……もしかして」
ヴェインの声が、一瞬驚きを帯びる。
俺は、ぼんやりとした意識の中で、確信していた。
『自分がまだ、ここで死ぬはずがないという確信』
「くはっ……」
ヴェインが、突如として笑い出した。
最初は低く、抑えるように。
けれど、次第に肩を震わせ、そして──爆発するような哄笑を上げた。
「あはっ、かはっ、くははは、あははははははははははははははははははッ!!」
笑いが、空を裂く。
その狂気は、吹き荒れる嵐のごとく周囲の大気を震わせる。
「面白ェなぁ──ッ!!」
ヴェインの紅い瞳が、熱を帯びた光を放つ。
まるで燃え盛る太陽のように、凄烈な輝きを宿す。
圧倒的な神威が爆発し、突風のような衝撃が俺の全身を打ちのめした。
「面白ェ、面白ェ面白ェぞ、このクソ猿劣等種野郎ッ!! てめぇ、自分が誰と同じ神威纏ってるのか分かってんのか!? 笑わせるじゃねェか身の程知らずのカスがよォッ!!」
ヴェインは興奮していた。
「あぁいいなぁ、いいぜお前。そそるぜ食いてえ堪んねえ! 串刺して引き裂いて、吊るして晒して吸ってやらァ!!」
狂気──それは紛れもない歓喜の叫び。
この男は、何かに気づいたように喜び、そして激昂していた。
「侮辱だぜ。あぁ冗談じゃねぇ許せねえ! こんなガキが彼の方の寵愛でも受けてるってのかよクソ野郎が。つまりなんだ!? 俺じゃお前は殺せねえとでも彼の方は思ってんのかよ。だったら試してやろうじゃねえか」
押し寄せてくる神威の波が、蒸発する血液が、俺の視界を赤く紅く染め上げていく。
目の前には狂人。
ついにタガが外れた本気の怪物。
「──独奏」
ヴェインが、静かに言葉を紡いだ瞬間。
圧倒的な死の気配が、世界を支配した。
その手加減なしの圧力に、俺は今、心臓が動いているかどうかもわからない。
──死ぬ。
ゴメン……マルタロー。
せっかく、"家族"になれたのに。
そう思った刹那──
光が弾けた。
「あ!?」
ヴェインが、即座に反応する。
彼の狂気に染まった瞳が、光の方角へと向けられた。
俺も、そのまばゆい光に、かろうじて目を向ける。
そこにいたのは──
純白の髪を持つ、少女だった。
髪は地にまで届くほど長く、月の光を浴びて輝いている。
目元には涙が滲み、けれどその瞳は凛とした決意に満ちていた。
「……マル……タロ……?」
言葉が出ない。
俺の知るマルタローとは、まるで別の存在のようだった。
だが、"彼女"は確かに俺を見つめている。
「なんだァ……!?」
ヴェインが低く呻く。
警戒しているのか、あるいは興味を持ったのか。
どちらにせよ、次の瞬間には"事態の異常さ"を悟ることになる。
少女が、低く姿勢を取り──
地を抉るほどの勢いで、ヴェインへと突撃した。
「フェイ……ヲ……イジメルナァァアアアアア!!」
「なァ──ッ!?」
その速さは、目で追うことすらできない。
俺を掴んでいたヴェインの腕が、瞬時に引き剥がされる。
彼女は俺を抱え込むようにして、強引にヴェインの手から引き離した。
「クソがッ!!」
ヴェインが神威を纏わせ、反撃の体勢を取る。
だが、それよりも早く──
少女の細い脚が、ヴェインの腹部を思い切り蹴り上げた。
──ドゴォッ!!!
物理法則を無視した神威の衝撃が、ヴェインを吹き飛ばす。
尋常ではない破壊力。
空気が裂け、大地が揺れる。
「テメェッ!! やっぱり何か隠してると思ったら、神威使えんのかよ──面白ェ!」
ヴェインは吹き飛ばされながらも、地面を蹴り、抉りながらブレーキをかける。
そのまま姿勢を立て直そうとするが──
「……ッ!!」
──もう、遅かった。
ヴェインの足元には、何もない。
彼が吹き飛ばされた先は、崖の外側だった。
「──ッ!? アァァァアアアッ!?!?」
紅き瞳が驚愕に染まり、叫びが夜空に響く。
しかし、反応する間もなく、その姿は深淵へと呑み込まれ──
……完全に、消えた。
「……」
静寂が訪れる。
戦場に満ちていた狂気の神威が、嘘のように消え去った。
「……はぁ、はぁ……ッ」
ゆっくりと地面を押し、立ち上がる。
全身が痛む。骨が軋む。
意識はぼんやりと霞み、呼吸するたびに肺が燃えるように熱い。
だが、今は痛みを噛み締めている暇はなかった。
少女の方へ目をやる。
──そこには、純白の髪を持つ幼い少女が、地面に大の字で倒れ込んでいた。
「……ッ!?」
全裸だった。
目を疑う。
先ほどまで、そこには見慣れた白いわたあめのようなプレーリーハウンド──マルタローがいたはずだ。
けれど、今目の前にいるのは、
透き通るような白い肌、長く柔らかそうな髪、まるで月光を纏ったかのような少女だった。
彼女は、まるで力を出し尽くしたかのようにぐったりと横たわっている。
かすかに肩が上下し、か細い息遣いだけが夜の静寂に溶けていた。
「マ……マルタロー……?」
俺の喉から、震えるような声が漏れる。
マルタローは魔物だ。
プレーリーハウンドだ。
こんな人族の姿に変わるなんて……そんなことは……。
しかし、周りを見渡しても、俺と少女以外には誰もいない。
「ふぇ……い……」
俺の名前を、掠れた吐息で呼ぶその声音。
──間違いなかった。
俺の名前を知っているこんな子供は知らない。
ということは、本当にマルタローなのだろう。
よく見ると、真っ白な髪の毛の一部は前と同じくベージュのままだ。
けれど、それを理解したところで、俺の脳はその事実を受け止めきれない。
思考が止まり、まるで現実と夢の境界が曖昧になったような錯覚すら覚える。
震える指を伸ばし、彼女の頬をつついてみる。
「わふぅ……」
──鳴き声? は、変わっていなかった。
って、考えている場合じゃない。
ヴェインがどうなったのかは分からない。
生きているのか、死んだのか。
今ここでじっとしているのは危険だ。
この戦いは、終わってなどいない。
あれほどの神威を使える魔王が、たかが崖から落ちたくらいで死ぬはずがない。
俺はマルタロー? を抱き上げた。
裸だとまずいので、上着代わりにも使っていた外套で身を包む。
意識が完全に落ちているのか、反応はない。
「……っ!」
俺は、咄嗟に地面を蹴った。
今出せる神威を全開にし、地を裂くように駆け出す。
進む方向も考えずに、ただ闇夜を疾走した。
背後から殺気が迫ってくる錯覚すらあった。
心臓が喉元まで競り上がるほどの緊張。
「はぁ……っ、は……っ!!」
──どこに走っているかも分からない。
俺の神威が尽きるまで、
目の前に広がる闇に身を投じるように、ただひたすらに走り続けた。
ただ……変身したマルタローの顔は、幼少期のクリスの顔と、何故か瓜二つだった。