第百話 「クリス」【マルタロー視点】
──フェイの言葉は、ボクの中で心を満たした。
『なぁ、マルタロー。俺と、家族になってくれないか……?』
そう言われた瞬間、ボクの胸の奥がじんわりと温かくなった。
まるで、ずっと曇っていた空にぽっかりと穴が空いて、陽の光が差し込んできたような気分だった。
居場所のないボクを、最初に救ってくれたのはクリスだった。
クリスに拾われてからは、彼女の暖かい優しさに包まれ、ボクは居場所を取り戻した。
クリスが消えてからも、サイファーおじいちゃんやレイアおばあちゃん、そしてフェイがずっとそばにいてくれたおかげで、寂しくはならなかった。
けれど、フェイと共にこの大陸に来てから、また白い目で見られるようになった。
その視線は冷たく、時には嫌悪に満ちていて……ボクが彼らにとって邪魔な存在であることを、嫌というほど理解させてくる。
でも、それはもう慣れていた。
ボクは魔物だから、人族に嫌われるのは当たり前だと思っていたし、フェイたちの方が特別なのは理解していたから。
それに、ボクにはフェイがいた。
彼はいつもボクを抱きしめてくれたし、冗談を言って笑わせてくれた。
フェイがそばにいてくれるだけで、それだけでボクは十分だった。
……だけど。
ボクのことを嫌そうに見る人族の視線を、フェイは気にしていた。
ボク自身はもう慣れていたのに、フェイはボクに慰めの言葉をかけてくることが増えた。
その時のフェイの顔が──ボクには、すごく辛そうに見えた。
ボクは、フェイのあんな顔を見たくなかった。
だから、考えた。
ボクはフェイといない方がいいんじゃないかって。
──ある日、ボクは悪い夢を見た。
フェイがボクを置いて、遠くに行ってしまう夢。
いない方がいいと思っていたくせに、いざ本当に離れていくと、身体が勝手に動いていた。
走って、叫んで、ボクはフェイを追いかけていた。
でも、届かなかった。
ボクの足では、フェイには追いつけなかった。
──怖かった。
ボクは、フェイがいなくなるのが怖かった。
それなのに、ボクのせいでフェイが辛い思いをしているなら、ボクはどうすればいいのか分からなくなった。 一緒にいたいけど、一緒にいたくない。 ボクのせいで、フェイが傷つくのは嫌だった。
そんな時だった。
フェイが、ボクに"あの言葉"をくれたのは。
『俺と、家族になってくれないか……?』
信じられなかった。 ボクがそばにいても、フェイにとっては辛いだけかもしれないのに。 この旅が終わっても、ずっと、ずっと一緒にいたいって、そんなふうに言ってくれるなんて。
ボクは……幸せだった。
嬉しくて、嬉しくて……気づいたら、涙が溢れていた。
家族。
そんな言葉を、ボクがもらえるなんて思ってなかった。
クリスにだって言われたことは無い。
ボクは、フェイのそばにいていいんだ。
ボクは、フェイと一緒に生きていけるんだ。
だから、思ったんだ。
フェイのために、ボクはもっと強くなろうって。
ボクがフェイの支えになろうって。
──だというのに。
目の前にあるのは、最悪の現実だった。
「ぐぁあああッ!!」
「……解せねェな。本当にお前、そんなモンかよ」
フェイの叫び声が、ボクを現実へと引き戻した。
ヴェインと名乗った魔族が、ボクの"家族"の腕を踏みつけていた。
ゴリッ……と嫌な音が響く。
フェイの体が跳ねる。
「ど、けぇえええッ!!」
「キレんなよ。程度が知れるぞ?」
「がぁ────ッ!?」
フェイは怒りに身を任せながら腕を退かそうとするけれど、ヴェインは笑いながらさらに踏みつけている。
ボクの大好きなフェイが、痛みに顔を歪めている。
ボクを守ろうと必死になっている。
怖い。
ボクの体は震え、足がすくんで動けない。
フェイの言葉が、頭の中でこだまする。
ボクの中に灯った、小さな勇気の光をかき集める。
「わ、わふ……」
少しずつ、足に力を込める。
ボクは、フェイの家族なんだ。
ボクが、フェイを守るんだ。
「わぅううううううう!!!!」
ボクは震える体を無理やり動かし、ヴェインに向かって飛びかかった。
「あ?」
「ギャゥッ──!!」
ボクの体は、あっさりと弾かれた。
ヴェインはわずかに手を振っただけだった。
けれど、それだけでボクの体は宙を舞い、地面に叩きつけられ、ゴロゴロと転がる。
「……ったくよォ、これがザミエラをビビらせたっつーのか?」
ヴェインは、呆れたように鼻を鳴らす。
その瞳には、何の感情もない。
……ボクは、何もできなかった。
フェイを助けるどころか、ただ転がされただけだった。
でも──
「……マルタロー!!」
フェイがボクの名前を呼ぶ。
それだけで、ボクはもう一度立ち上がろうと思った。
何度でも。
何回でも。
ボクは、フェイの家族だから。
「マルタロー!! ク、ソォオオオッ!!」
「はぁ……揃いも揃って、キレたもん勝ちがまかり通るご都合主義でも信じてんのかよ。そういうのはエルジーナみたいな反則馬鹿以外にゃ起こせねェんだ。お前にそういう素質はねぇよ」
ヴェインは、つまらなそうに肩をすくめた。
その顔には、心底飽きたとでも言わんばかりの退屈な色が滲んでいる。
「気に食わねぇな」
そう呟いた瞬間、視界が一瞬で揺れる。
次の瞬間、フェイがヴェインの手の中で宙に浮かんでいた。
「──ッ!!」
フェイの足が、空を蹴る。
ヴェインの手が、彼の首をがっちりと掴み上げていた。
「お前、絶望が足りねぇ。これから死ぬやつの目をしてねぇ」
そのまま、ゆっくりと握力を強める。
ギリギリと、骨が軋む音が響いた。
フェイが苦しそうに喉を押さえ、必死に抵抗しようとするが、ヴェインの力は微動だにしない。
「それとも、こんな戯けた時代じゃ、自分が死ぬって実感も持てねぇのか? いや、違うな。そうじゃねぇ……」
ヴェインは、独り言のようにぼそぼそと呟き始める。
「覚えがあるぜ、そういう目。その、全てわかってますってツラぁ……」
紅い瞳が、じっとフェイを見つめている。
それは、まるで"別の何か"を重ねているような、奇妙な視線だった。
「──ァ……ッ!!」
フェイが、苦悶の声を漏らす。
彼の爪がヴェインの腕に食い込むが、無駄だった。
喉が締め付けられ、呼吸ができなくなる。
顔が苦しげに歪み、目がかすんでいく。
──嫌だ。
フェイが、死ぬ。
ボクの家族が、またいなくなる。
──前も、こんなことがあった。
とても強い、真紅の魔族が、ボクの大切な仲間であるクリスを奪った。
あの時も、ボクは何もできなかった。
ただ、駆け出して、足掻いただけで、何もできずに終わった。
今、また同じことが起ころうとしている。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
ボクは足を踏み出そうとする。
でも、体が動かない。
どうすれば止められるかわからない。
あの時と同じ無力感が、ボクを押し潰そうとする。
──でも。
あの時、ボクは。
視界が白く染まる。
頭の奥が、じん、と熱を持ち始める。
ボクは、あの時、何をしていた?
──覚えがないハズなのに。
記憶の奥底に、ぼんやりとした感覚が広がっていく。
それは、まるで古い夢の断片のようだった。
あの時。
消えたはずのクリスに抱かれた温もり。
そして、気づけばボクの手の中にあった──
"光る剣"。
ボクは、その剣を振るっていた。
ボクは、"戦っていた"。
燃え盛る炎の中で、"真紅の魔族を圧倒していた"。
ボクには、剣なんて持てないハズなのに。
ただのプレーリーハウンドだ。
けれど。
──もし。
あの時のように、手があれば。
この短い前足じゃなく、人族のように長い腕があれば──アイツを、フェイから引き剥がせるのに。
──もし。
足があれば。
四つ足じゃなく、人族のように長い、思いっきり地面を蹴れる脚があれば──アイツに、全力でぶつかることができるのに。
頭の奥で、何かが弾ける音がした。
視界が、白く、白く、光に飲み込まれていく。
「マル……タロー……」
フェイを助けないと。
ボクの家族を、もう二度と、失いたくない。
──力が欲しい。
ボクは、ボクのままじゃ、フェイを救えない。
フェイを助けられる力を──!!
そう強く願った瞬間──
光が、弾けた。
それは、ボクの体の中から、じわじわと広がっていく。
血の中に、肉の中に、骨の中に、染み込むように。
フェイを助けるために。
「ふぇ……イ……!!」
ボクは、もう一度フェイの名前を呼んだ。
すると、どこか遠くで──いや、近くで。
『うん、一緒に戦おう』
──消えたはずの、あの優しい声が聞こえた。
涙が、零れ落ちる。
ボクは、思い切り地面を蹴り、腕を伸ばし、フェイに向かって"特攻"した。