第九十九話 「暴虐の魔王」
『さて、どうするね? フェイクラント』
脳の奥底に響く、憎き大魔王の声。
それは、あたかも高みから見下ろすような、気まぐれな観察者の語り口だった。
きっと今頃、どこかの髑髏の玉座に肘をつきながら、愉悦に満ちた微笑を浮かべているのだろう。
『彼は今の君よりも膨大な魂の質量を備えている。故に、力では勝てぬよ』
──知るか。
今更そんな当たり前のことを囁かれたところで、何の意味がある?
話しかけるな。
俺はそれどころじゃない。
俺は、"想いを強めること"に忙しい──"生き延びること"に忙しい。
『ふふ、では、見せてくれ。再び未知を期待しているよ』
視界が一気に開ける。
頭がぐらつく。
意識が飛びかける。
痛みが、冷や汗が、何もかもが俺の体をこの場に繋ぎ止めている。
だが、それすらも、今はどうでもよかった。
「ほぉ……」
その声に、全身が警鐘を鳴らす。
目の前にいるのは、まるで悪意を具現化したかのような魔族の男。
彼は愉悦に満ちた眼差しをこちらに向けている。
俺が死の恐怖に震えていようが、心が折れようが、関係ない。
それどころか、それすらも"娯楽"として楽しんでいるような顔だった。
「ふん、ちっとは俺好みの展開になってきたかよ」
白髪の魔族は、口の端を歪めながら肩を鳴らす。
俺が膝をついたまま立ち上がる様を見て、まるで遊びの続行を許可するかのように。
もし、この場で背を向けて逃げ出せばどうなるか。
──それは考えるまでもなかった。
守らなければならない。
家族を──マルタローを。
その瞬間、俺の中の何かが、カチリと音を立てて噛み合った。
恐怖が、鎖を外されるように霧散していく。
──もう、こうなればやるしかない。
俺は両足に力を込め、強引に姿勢を正す。
深く息を吸い込み、再び神威を発現させる。
体中の細胞が震え、焼けるような熱が流れ込む。
俺の神威は、おそらく目の前の魔族には到底及ばない。
それでも、"この瞬間の俺"にできることを、俺はやる。
この場にいる限り、俺は"狩られる側"でしかない。
だが──狩る側が常に優位であるとは限らない。
──隙を生み出せ。
その一点に全てを賭ける。
「ふん、逃げ打とうって気がなくなったんなら、もう質疑応答は終了だ。こっから先は口以外で語り合おうぜ。神威使えるんだろ? 力見せろよ」
俺は腰の剣を抜き、それに神威を纏わせる。
刃先が淡く発光し、魔力の揺らぎが微細に空気を震わせる。
だが、それでも恐怖は拭いきれない。
俺の全身は今、極限の緊張に晒され、内側から凍りつくような感覚に陥っている。
足の震えを無理やり止めるために地面を蹴るが、それでも心の奥底にこびりついた恐怖は、決して消え去りはしなかった。
「心配すんなよ。手加減してやる。こっちは活動位階で抑えてやるし、お前は剣でも魔術でもスキルでも呪いでもなんでもいいから使ってみろや。お前も、その犬も実際何者だろうと、要は遊べるかどうかだしよォ」
魔族は、まるで長年積み重ねてきたストレスをようやく発散できるかのように、呼吸を荒げていく。
その姿は、どこか異様だった。
"戦う" こと自体を、待ち焦がれていた獣のように──
「暇してたんだァ、長いこと。待つってのは辛ェよなぁ。もうシケた調査や人族のガキを攫うばっかじゃ満足できねェ。だからよ──これはチャンスなんだ」
人族のガキを攫っていた……?
こいつも、ザミエラやほかの魔族と同じく、奴隷用の子供たちを攫っていたのか。
「俺にここまで譲歩させて、萎えるオチつけやがったらおまえ……」
ギラリと紅く光る眼光が、俺を鋭く貫く。
獣のような鋭い嗅覚を持つ男は、俺の怯えを確信したのか、愉悦に満ちた声で言い放つ。
「後ろにいる犬も、お前の家族も友達も恋人も何もかも探し出して、この世から消しちまうぞ?」
「────!」
目眩がする。
喉はガラガラで、声すらままならない。
どうしようもなく、間違いなく、情け容赦なく、防ぎようもなく、良心の呵責もなく──
こいつは嬉々として俺の総てを壊し、殺し、根こそぎ刈り取り、粉砕すると。
俺の大切な日常を、未知で塗りつぶす異物が今、目の前にいるのだと確信した。
「そうだ──なら、戦わないと……」
「あン?」
未知なんか、望んじゃいない。
予想外の展開なんて、求めていない。
「ぎィ──ッ!!」
外れた左肩を乱暴に嵌め直し、俺は魔族を見据える。
俺は、大魔王なんかとは違う。
この世界に来てから、この世界が好きになった。
それはクリスであり、マルタローであり、サイファー、レイアさん、ベルギス、ミーユ、ブリーノ──そして名前も知らない異世界ファンタジーの住人たち。
バカみたいな日常が大好きだ。
それを維持するためなら、俺は何だってやる。
知らないものなんか、何もいらない。
俺の人生は、平和で気ままで退屈な一本道で、分かり切ったレールをゆっくり歩けるだけでいい。
「だから、邪魔なんだよ、お前」
「……クハッ」
コイツだけじゃない。
プレーリーを襲い、俺からクリスを奪ったザミエラも、大魔王のクソ野郎も。
のうのうと俺の前にでしゃばるんじゃねえ。
「準備は済んだか?」
ゴキゴキと指を鳴らし、魔族が俺を見てくる。
目眩すら覚えるその視線に、しかし気おされている場合ではない。
「魔王軍大隊長──暴虐の魔王、ヴェイン・アクレウスだ。名乗れよガキ。戦の作法も知らねぇか」
「生憎と……知らないな」
お前が家族を、故郷を殺すと言ったからには、素性を知られるような情報を一切明かす気はないんだよ。
「名前が知りたきゃ吐かしてみろよ。白髪野郎」
「面白ェ!」
ヴェインの目が、次の瞬間、飢えた狩人のソレへと変わる。
──その瞬間、空気が震えた。
「……ッ!!?」
踏み込まれたと気づいた時には、もう遅かった。
──ズガァァ!!
地面が弾ける。
俺がいた場所を、まるで衝撃波のような蹴りが穿っていた。
避けるのがあと0.1秒遅れていたら──確実に胴体ごと吹き飛んでいたに違いない。
「遅ぇよ」
振り向くよりも早く、視界の端に腕が映る。
反射的に、神威を纏った剣で防ぐ。
だが──
──ドゴッ!!!
「がっ──!!」
受けた剣ごと吹き飛ばされた。
数メートル先の地面へと叩きつけられる。
(……クソッ……速い……!!)
俺の体感速度を優に超えている。
相手の神威は、活動位階のハズなのに、俺が扱うモノよりも遥かに濃い。
格の違いが、はっきりと目に見えてしまっている。
だが──それでも、やるしかない!!
「燃え滾る火の力よ、我が命ずるままに怒り狂え! その咆哮にて包み焼け──『焔衝撃』!!」
紅蓮の火弾が爆ぜ、視界一面に轟々と炎が広がる。
直接的なダメージは通じない──だが、それは最初から分かっていた。
「──っ!!」
瞬間、俺は爆炎の中を疾駆する。
灼熱の業火をすり抜け、火と煙の帳に紛れる。
右手には神威を纏わせた剣──だが、今は斬るのが目的ではない。
男の姿が揺らめく炎の向こうに見える。
この程度の炎、避けるまでもないと踏んでいるのか、動く様子すらない。
そこへ、俺は飛び込んだ。
相手の脇の下に自分の腕を潜らせ、がっちりとロック。
そのまま勢いを利用して反り返り、腕をへし折るべく極めにかかる。
全身全霊を込めた起死回生の技は、しかし──
「で?」
「────!?」
折るどころか、びくともしない。
体格にそう差があるわけでもない。
なのに──この男は崩れない。
「取らせてやってこの程度かよ。こりゃ見込み違いだったかな」
──ドゴォッ!!!
「んギッ──!?」
顔面に強烈な一撃を喰らった。
視界が揺れる。脳が揺れる。
歯を噛み締める間もなく、俺の体は吹き飛ばされ、地面を転がる。
普通、あの体勢から出せる威力じゃない。
「どうしたおい? それで終わりか? 根性見せろよ」
「ガッ──あぁっ!!?」
一瞬で間合いを詰められ、顔面を刈り取るようなアッパーを咄嗟に交差した腕で受けるが、威力を殺せずに吹き飛ばされた。
脳をぐちゃぐちゃにする衝撃に、嘔吐感が込み上げる。
「ご……おぉ……げぇっ」
地面に膝をつく。
肺が酸素を欲しがっているのに、まともに呼吸ができない。
そんな俺を、ヴェインは軽く顎を上げながら見下ろしていた。
当然、傷一つ無いまま。
「────い!?」
ヴェインの手から、不可視の神威が蠢いた。
神威の刃の連撃。
一撃一撃が、明らかに致命傷になり得る重さを持っていた。
間一髪、ギリギリのところで神威の刃を弾き、最小限の動作で捌いていく。
だが、そのたびに全身が軋む。
筋肉が悲鳴を上げ、指先まで震え始める。
防ぐ動作が、徐々に遅くなる。
たった一瞬でも遅れたら、俺の体は──
「──くそっ!!」
俺は刃を捌きながら、大きく息を吸い──
喉の奥から、灼熱の息吹を吹き放った。
「──『火炎の息』!!」
爆炎が広がる。
視界を覆う炎の壁が、俺とヴェインの間に立ちふさがる。
(……距離を……!)
ほんの僅かでも、呼吸を整える時間を稼ぐ。
だが──
にやけた面が、炎の向こうから突き出ていた。
「ッ!?」
次の瞬間、ヴェインの掌が、俺の顔面を捉えた。
「ぐっ──!?」
拳ではない。
掌底だった。
それだけで、俺の体は吹き飛ばされる。
後頭部が地面を叩き、視界が歪む。
呼吸をするたびに、体の中がズキズキと痛んだ。
わざわざ俺が倒れるたびに、こいつはニヤついたまま、俺が立ち上がってくるのを待っている。
こいつを攻略する手段が見つからない。
「……」
ふと、マルタローに目をやる。
待っていろと言った位置で、小さな体が震えていた。
何もできずに、ただ俺を見つめていた。
大丈夫だ。
必ず守る。
「おい、まだ遊べるだろ?」
ヴェインの声が響く。
俺は、ぐちゃぐちゃになった意識の中で──
なんとか、次の一手を探していた。