第九十八話 「俺は、まだ死ぬはずじゃない」
光の刃を受け止めた衝撃が腕に鈍く響く。
全身に伝わる重圧。
俺は無意識のうちに喉を鳴らしながら、神威の刃を押し返した。
「ほぉ……いい反応してるな、ガキ」
男はそのまま後方へと跳躍し、ようやく立ち止まる。
愉快そうに口角を持ち上げ、にやけた表情で俺を見据えていた。
軽薄に、気楽そうに。
まるで俺との戦いが、些細な遊びの一つに過ぎないとでも言いたげに。
構えることすらしない。
腕を下ろしたまま、気だるそうに息を吐き、肩をすくめて笑っている。
その声音はあまりにも穏やかで、戦いの緊迫感すら忘れさせるほどだった。
──ふざけるな。
なにが 「ほぉ」 だ。
人を殺したばかりのくせに、何をそんなに楽しそうにしてやがる。
目の前の魔族。
シミ一つない綺麗な顔立ちをしたその見た目は、十代後半、もしくは二十代程度の青年にも見える。
けれど、俺を 「ガキ」 呼ばわりするということは、実際にはずっと長く生きているのだろう。
……そんなことは、どうでもいい。
問題なのは、こいつが先ほどまで迷いなく人を殺していたこと。
そして、今もなお、その事実に微塵の罪悪感も抱いていないことだ。
何の感慨もない。
何の哀れみもない。
あるのは、ただ 「どうでもいい」 という風な態度だけ。
──殺戮を日常の一部にしている奴の目だ。
「──ぁ、──く……」
声が、出ない。
喉の奥がひどく乾いている。
頭の中で思考が回るのに、舌が動かない。
いや、違う。
これは──言葉を発する前に、全身の神経が危険を叫んでいる。
目の前の男に対し、ほんの一瞬でも隙を見せれば、その瞬間に殺される。
言葉を紡ぐ余裕すら許されない。
だから、俺の声は喉の奥に押し戻され、震えるだけだった。
──どうして、こんなことになった?
どうして俺は、こいつと対峙している?
そもそも、何が起こっている?
そんな疑問すら、霞んでいく。
片腕に感じる、小さな震え。
俺はマルタローをしっかりと抱きかかえた。
マルタローの怯えは、尋常ではなかった。
ただの恐怖じゃない。
まるで、この男の存在そのものが「死の象徴」であるかのように、体を強張らせ、毛を逆立てている。
──動物的な本能で理解しているのか。
俺も同様に、こいつが 「狩りの魔王」 に匹敵するか、それ以上の存在であることを悟っている。
──魔王か?
しかしこんな奴、俺は知らない。
「よぉ、なんか言えよ、ガキ。こっちは気ぃ遣って、話す機会を与えてやってるんだぜ? 口利けねぇってわけでもねえだろうが」
不機嫌そうに、けれどどこか楽しげに、男が言う。
足を一歩、こちらへ踏み出しながら。
その瞬間。
全身が総毛立った。
無意識に。
意識よりも速く。
マルタローを抱えたまま、俺の右手は自然と神威の刃を振りかぶっていた。
強く、鋭く。
ありったけの力を込め、目の前の敵へと叩きつける。
だが──
「おっと」
ガキンッ!!
鋭い音が響いた。
俺の刃は、あっさりと受け止められる。
まるで紙を払うかのように、男は片手で俺の攻撃を弾いた。
「なんだ? このクソみたいな神威は」
男はつまらなそうに呟きながら、もう片方の拳を振り上げ──
──ドゴッ!!
「ぁ──ガッ──!!」
視界が跳ねる。
鈍い衝撃と共に、俺の腹に鈍痛が走った。
呼吸が詰まり、地面に膝をつく。
しかし、同時に──震えていた膝が、少しだけ落ち着きを取り戻した。
痛みが、俺の意識を強制的に正常に引き戻す。
「なんで……俺が、こんなこと……」
搾り出した声が、震えている。
「……あ? 別に俺としちゃ、どうでもいいんだが」
男は、退屈そうに肩をすくめた。
そして、唐突に、俺の腕の中のマルタローを指さす。
「ウチの仲間に、こりゃまた不愛想な女がいてな……一年前くらいだったか? チンケな村を制圧しに行っただけのハズが、かなり重症で帰ってきやがってよォ……。そいつが言うには、"耳の色の違うプレーリーハウンドに気をつけろ" って言ってたのを思い出してな」
男の紅い瞳が、そう言いながらじっとマルタローを見つめる。
そしてその言葉の内容には、思い当たる節があった。
一年前にチンケな村を襲った、魔族の仲間の女。
プレーリーを襲ったザミエラで間違いないだろう。
「見たところ、お前が抱えているプレーリーハウンド……その通りじゃねぇか?」
「…………?」
この男は一体、何を言っている。
マルタローは最弱種の魔物だ……何かの間違いじゃないのか……?
落ち着け。
整理しろ。
プレーリーが襲われた日、俺はクリスが燃やされる中、ザミエラが撃ち出した炎の魔術によって気を失った。
目が覚めた頃には何故かザミエラは消えており、俺の腕の中には耳の色を変えたマルタローだけがいた。
この男が言うザミエラの言葉は、明らかに耳の色が違うプレーリーハウンドに対して警戒の色を表しているようだ。
ということは、プレーリーではマルタローがザミエラを退けた……?
そういえば、ベルギスを救いに遺跡に行った際も、ザミエラはマルタローに対して過剰に反応していた気がする。
──いや。
『村は、もう大丈夫だから』
あの日、夢の中で、確かにクリスはそう言った。
俺はクリスが守ってくれたのだと思っていた。
マルタローがザミエラを退けたってのなら、そんな言い方はせず『マルタローが守ってくれた』とでも言うだろう。
それに、マルタローが魔王を退けられるはずがない。
実際、俺はコイツのステータスを確認できるし、戦闘でも俺の補助で手一杯程度なのだから。
「一応な、俺らは"その辺の雑魚魔物"に傷を負わされるほどヤワな存在じゃねぇんだよ」
男はニヤリと笑い、言った。
「お前、何か知ってんじゃねぇのか? 聞いた話じゃ、その魔物は冴えなさそうな男に連れられているって情報だったんだが? それに、俺と目が合うだけで瞬時に力量の差を理解し、神威を使って逃げ出したんだ。明らかに怪しいよなァ……?」
「……ッ……!」
息が詰まる。
何も考えずに、ただ人族に恨みでも持った魔族が追いかけてきたのかと思っていたが、コイツなりに何か確信があって追いかけてきていたのか。
──逃げろ。
全身がそう警報を鳴らすが、背後は崖、逃げることは出来ない。
「知らない……俺は……」
やっとのことで、俺はただそれだけを答える。
考えてみると、ザミエラを退けられる人物がいるとするなら、あの場にいたマルタローしか考えられない。
しかし、マルタローがやったのかと訊かれれば断言出来ない。
事実、マルタローはさっきから俺の服に隠れようと身を振るわせているだけだ。
「はっ……ははは、ははははははははははは」
栓のイカれた蛇口のように、男は笑いを迸らせた。
それは聞いているだけで正気が薄れ、狂気が伝播してきそうな悪意の集合体。
「クク、ははは、そうかそうか、お前知らないか。そうだよなぁ、あぁそうだろうとも。面白ぇ」
肩を振るわせて笑いながら、男がさらに俺の方へと近づく。
その目はまるで笑っていない。
全身が総毛立つ。
「面倒くせぇな、身体に訊くかよ」
「────っ!?」
──ゴォンッ!!
「────ぐ、あぁッッ」
突然笑いを止めたかと思うと、無造作に蹴られた。
咄嗟に腕でガードしたはずなのに、俺はボロクズのように吹き飛ばされた。
「が──ぐ、ぎぃぃッ」
こちらは神威でガードしたはずなのに、それを超えてダメージが凄まじすぎる。
追いかけてきた時からわかってはいたが、コイツも神威を扱えている。
俺のものとは比べられないほどの存在密度。
「よォ」
──バキッ!!
「ギィッ──!」
「それでもう一度訊くんだけどよ」
上体を起こそうとした瞬間に、左肩を踏みつけられた。
ギシギシと音を立てて、関節が破壊されていく。
「その犬は、本当はすげぇ力でも持ってるのか? だったら見せてくれよ。俺ァ戦えればそれでいいんだからよ」
「…………づッ、ぁ」
踏まれた痛みで視界が明滅する。
叫び声すらあげられない。
「おいおい頼むぜ、サクサクいこうや」
「ちく、しょう……!!」
反射的に、俺は残った右手で男の足首を掴み上げた。
なんとかどかそうと力を込めるが、まるでびくともしない。
「おい、触んじゃねぇよ、気色悪ィ」
「────ッ!?」
途端に声色を変えた男は、片手だけで俺を宙に釣り上げた。
そのまま、回し蹴りの要領で振り回す。
──そして。
「がッ──!!」
たったそれだけで、海沿いの崖ギリギリまで飛ばされた。
死ぬのか?
ここで。
こんな訳の分からない状況に巻き込まれて、意味もなく潰されるのか?
かつてザミエラと対峙した時のように、何もできずに死ぬのか?
嫌だ。
こんな展開、俺は知らない。
「わ……ふ……」
「大丈夫だ。マルタロー、そこで待ってろ……」
マルタローを手放し、俺は立ち上がる。
「ほぉ?」
紅い瞳が俺を見据え、男がゆっくりと歩み寄る。
たったそれだけの動作なのに、俺は喉がひりつくほどに息を詰めていた。
「わふ……」
マルタローが心配するように小さく鳴く。
大丈夫だ。
覚悟を決めろ。
そもそも俺は、こんなところで、まだ死ぬハズではないのだから──