第九十七話 「逃げ場無し」
──夜の帳が、静かに世界を包み込もうとしていた。
エルミナの灯草が風に揺れ、淡い光が草原の波となってゆらめく。
まるで星が地に降りたような幻想的な風景。
この輝きを見ていると、どこか現実離れしているような気がして、時間の感覚さえ曖昧になってしまう。
「よし、こんなもんでいいだろ」
手の中には、光を帯びたエルミナの灯草の束。
これだけあればブリーノも文句は言わないはずだ。
俺は背負い袋の中に丁寧に収め、周囲を見渡す。
丘の上に広がる光景を名残惜しく思いながらも、目的は果たした。
「急いで帰るか」
「わふ!」
俺の肩に乗っていたマルタローが小さく鳴き、ぴょんと頭の上へと飛び乗る。
その毛並みは、先ほどまでの不安や寂しさを吹き飛ばしたかのように、どこか弾んでいた。
そう、俺たちはもう"家族"だ。
エルミナの灯草が瞬く丘を振り返り、一度だけその絶景を目に焼き付ける。
エルミナの灯草が広がる草原。
黄金色から群青へと移り変わる夜の空。
そして、その先に広がる、どこまでも続く海。
──美しい。
俺の人生で、こんなにも心を奪われる風景は、そう多くはないだろう。
だが、その静寂は、唐突に破られることになる。
──ザァァァァッ……
風が吹いた。
いや、違う。
吹いた、というよりも、まるで何かが"入り込んできた"かのような、異様な感覚だった。
同時に、凄まじい悪寒が走る。
背筋が粟立ち、思わず全身の毛穴が開く。
反射的に身構えると、俺の頭の上でマルタローが小さく震えた。
「……わふぅ……」
探知スキルが何かを捉えたのか。
それとも、ただの野生の本能か。
とにかく、何か"いる"。
──確信を持てるほどの、不快な気配が、すぐそこに。
俺は息を呑み、バッと振り返る。
目に映るのは、さっきまで俺たちが灯草を採取していた草原。
その奥にある崖。
──そして、その崖の先端に、"誰か"が立っていた。
後ろ姿しか見えない。
しかし、異様な存在感だった。
全身を黒の衣で包み、白髪が夜風に靡いている。
レイアさんを彷彿とさせる色合い──だが、それだけだった。
彼女と違うのは、"アイツ"を見るだけで、全身が警鐘を鳴らし続けることだ。
──逃げろ。
脳が、本能が、危険信号を発している。
血液が凍るような恐怖を、理性が無理やり飲み込もうとする。
魔族……?
いや、そもそもアイツは、いつからそこにいた……?
目を凝らした瞬間、そいつが唐突に喚いた。
「だから、封印はこの大陸で──あァ!? 聞こえねーよ!! クソ」
思わず咄嗟に伏せ、草原に体を隠す。
──通信魔術か?
男は手に何かを持ち、それに向かって怒鳴っていた。
苛立ちを露わにし、時折舌打ちしながら言葉を続ける。
その動きに合わせて、ゆっくりと彼の横顔が見えた。
俺の心臓が、一瞬、凍りつく。
白い肌。
アルビノのように紅い目。
人族にはありえない、異様に長い耳。
──魔族だ。
「……クソが。魔力阻害だァ……? あぁ、そういやエルミナの灯草には大量の魔力も込められているんだったっけか……ったく、クソめんどくせぇな」
ぼやくように吐き捨てる男。
どうやら、まだこっちには気づいていないらしい。
ならば、今のうちに──
俺は静かに体勢を低くし、ゆっくりと後退する。
足音を消し、風に紛れるようにして──
その時だった。
──ふわり
舞い上がる、一枚の花びら。
エルミナの灯草の花弁が、淡く光りながら宙を漂い、
まるで"何かに導かれる"かのように、俺の頭の上へと流れていく。
──おい、待て。
やめろ。
光る花弁が、そっとマルタローの鼻先を撫でる。
「……っ」
まずい。
鼻がピクピクと震える。
嫌な予感がする。
──だが、マルタローの鼻は忠実だった。
「……くしゅんっ!」
小さな、けれど澄んだ音が、夜の静寂を切り裂いた。
崖の上の男が、動きを止める。
俺は息を呑む。
静かに、ゆっくりと、男がいた場所を振り返ると──
すでに、男はこちらを見据えていた。
月明かりに照らされたその顔。
紅い瞳が、暗闇の中で異様な光を放つ。
目が合った瞬間──
そいつの口角が、ニヤリと持ち上がった。
「……あァ?」
低く、喉を震わせるような声が響く。
ただそれだけで、全身の毛が逆立つような悪寒が走る。
そこにあるのは、明確な"敵意"。
俺は躊躇なく、神威を解放した。
視界が一瞬、白く焼き切れる。
大地が震え、風が唸る。
その瞬間、俺の肉体は"ヒト"であることをやめた。
全身の細胞が弾け、極限まで高められた出力が四肢を貫く。
──疾走。
地を蹴る。
地面が砕ける。
蹴り出した瞬間に、俺の視界はすでに数十メートル先へと飛んでいた。
それはもう"走る"という概念ではない。
俺は"一閃"した。
およそ生物が発揮できる範囲を超えた速度。
前の世界ならば、"こんなものが存在するはずがない"という認識が常識のフィルターとなり、俺の姿は不可視へと変じていることだろう。
だが──
「カカ、神威使いの劣等種に会えるとはなァ!! 逃がすかよ」
ぞわり、と背筋が凍った。
声が──すぐ後ろから聞こえる。
意味が分からない。
なぜ追いかけられなければならない。
そんな思考を張り巡らせながらも、俺は尚も全速で駆けている。
限界を超え、地を蹴るたびに世界が後ろへと消えていく。
だというのに、遅れを感じさせることなく、俺の背後へとまとわりついている男の声。
「……ッッ!!」
焦燥が全身を駆け巡る。
速度を上げる。
身体が焼けるように熱い。
気づけば、ラドランには余裕で着いてしまう距離だろう。
しかし、こんな存在を街へ引き入れてしまえば、どうなるかは火を見るより明らかだった。
目を焼かれるほどの破壊と、血と、死の宴。
ダメだ。
街に行くわけにはいかない。
俺は咄嗟に進路を北東へと変えた。
ラドランを避ける。
海岸沿いを選び、ただひたすらに駆ける。
だが、その先には──
「ん? なんだ?」
馬車が見えた。
四人の冒険者たちが、緩慢な足取りで街へと向かっている。
クエスト帰りなのか、どこか緩みきった顔をしている。
「──逃げろッ!!」
俺は叫んだ。
だが、遅い。
俺の声に、彼らの脳が追いつくハズがない。
彼らは俺が疾走する風圧にすら驚き、飛ばされぬように帽子を押さえた。
──それだけだった。
故に、何が起きているのか理解する前に、"ソレ"が通り過ぎるだろう。
「────!!」
──断末魔と共に、血の花が咲いた。
視認する前に、抵抗すらできぬまま。
まるで"無"から生じた暴力の顕現。
男から発された"不可視の刃"が、一閃のもとに、進行方向のすべてを殺害する。
例外はない。
戦士の男であろうが、魔術師の女であろうが、馬であろうが。
"それ"は公平に、たった一つの方法で殺害した。
──斬首。
地に落ちた五つの首が、草の上に転がる。
生々しい音を立てて、血が地面を赤く染める。
まるで"ただ通り過ぎただけ"という感覚で、それは成された。
「────ッ!!」
見られない。
見たくない。
考える暇もなく殺されてしまった四人の冒険者たち。
彼らは、今日はどうする予定だったのか。
仕事がうまくいって、街に戻って美味いものを食おうと話していたかもしれない。
そんなありふれた一日が、無残に断ち切られた。
──死すら、ファンタジーにありきたりなカッコいい死に方すら、彼らには許されない。
殺害したというのに、"それ"は疾走をやめない。
まるで歩くことが死を意味するかのように。
俺の背後にまとわりつく殺意は、寸分たりとも衰えなかった。
「不味いなオイ。こんな雑魚じゃなくて、お前が楽しませてくれよ」
ザミエラやベルギス。
とある強さの壁を超えた者だけが発することのできる存在感。
俺とは明らかに違う存在密度。
……逃げなければ、死ぬ。
俺は速度を極限まで引き上げた。
血管が破裂しそうな感覚。
それでも足りない。
だが、前方に見えるのは──
「ク……ソ……ッッ!!」
崖。
高さ100メートルは下らない。
真下には、荒れ狂う海が広がっている。
目の前には、何もない。
進めば落ちる。
──逃げ場は、どこにもない。
「追いついたぜェ、そこ動くなよォ!」
背後から、嗤う声が響いた。
振り返る。
"それ"が、そこにいた。
腕を掲げ、"顕現する剣"が伸びていく。
──高密度のエネルギーが収束し、剣を象る。
そのまま、一閃。
即死の間合い。
迫る死の刃を前に、俺は躊躇うことなく "同じもの" を顕現させた。
俺の右腕に"光"が集う。
高密度の神威が剣となり、純粋な破壊の形を成す。
「うぉおおおおっ!!」
──ガキィン!!
衝突。
火花が散る。
空気が焼け、衝撃が全身を襲う。
……俺の刃は──"それ"の刃を、受け止めていた。