第九十六話 「ずっと、見ているよ」
──感傷に耽るのは、もうここまでにしておこう。
俺は目を閉じ、深く息を吸った。
潮の香りが鼻をくすぐり、風に揺れる草の音が心を落ち着かせる。
それでも、胸の奥にこびりついた寂しさは、そう簡単には消えてくれそうになかった。
目を開け、周囲を見渡す。
日はまだ完全に沈んでいない。
太陽が傾き、地平線へと向かうその途中。
夜になれば、《エルミナの灯草》の光がはっきりとわかるはずだが、今の時間ではどの草が光るのか判別できそうもない。
この場所に来る前は、ただの素材集めのつもりだった。
だが、ここに来てしまえば──この風景が、まるで俺を過去へと引きずり込むように、忘れようとしていた記憶を次々と呼び起こす。
クリスとの日々。
あいつと過ごした時間。
別れ際にした……唇の感触は今でも忘れない。
──あいつは、夕日より朝日の方が似合う女の子だった。
ふぅ、と息を吐き、俺はその場にゆっくりと身を横たえた。
草の感触が心地いい。
頭の後ろで手を組み、リラックスしながら空を見上げる。
腹の上に、ちょこんと乗る感触。
「……日暮れまでもう少しだし、夜になるまで待つか。その方が探しやすいだろ……」
静かに呟くと、いつもなら元気に「わふ!」と返してくるマルタローの声が、今日は聞こえなかった。
「ん?」
視線を落とすと、マルタローは俺の腹の上に座ったまま、小さな耳を伏せて俯いていた。
胸元に前足を添え、わずかに震えている。
何かを言いたいのに、言えないまま、その小さな背中に寂しさを滲ませている。
俺はそっと手を伸ばし、柔らかな毛を撫でた。
だが、マルタローは俺の方を見ず、海の向こうへと沈んでいく夕日をじっと見つめていた。
静かに、穏やかに、そして、どこか哀しく──
そうか。
ここは、懐かしいものを思い出させる場所なのかもしれない。
この景色は確かに美しい。
だが、同時に──帰ることのできない過去を思い出させるには、十分すぎるほどの郷愁を孕んでいた。
夕焼けは過去を振り返らせる──とはよくいったものだ。
「どうした、マルタロー……?」
「くぅ……ン……」
声をかけると、マルタローはかすかに耳を動かしたが、それでも俺の方を向こうとはしなかった。
「具合が悪いのか……?」
心配になり、体を起こしてマルタローの背中を撫でる。
だが、マルタローは首を横に振った。
風に揺れる毛が、夜の訪れを告げるように淡く光を反射する。
──違う。
これは、心の問題だ。
「……気にしてるのか? セリエスさんに言われたことや、ラドランであったこと……」
「わふぅ」
マルタローは、そっと息を吐いた。
肯定の返事だった。
俺は目を細め、遠くの空を仰ぐ。
セリエスさんが言ったことは、決して間違っていないのだろう。
けれど、それを受け入れるのは簡単なことじゃない。
マルタローは、セルベリア大陸に来てから、生きづらさを感じていたに違いない。
俺が隣にいたとしても、きっと心のどこかではずっと不安だったのだろう。
「わふぅ……わふ?」
「えっ、俺か?」
マルタローが俺をじっと見つめてくる。
俺はそれを見て、ふっと口角を上げた。
「……気にしてない!」
「わふぅ!?」
驚いたように目を見開き、マルタローが俺の方を振り向いた。
そのまま俺はマルタローを抱き抱え、持ち上げる。
その向こうには、広大な海と、沈みかけた太陽。
逆光に照らされるマルタローは、まるで神々しく光っているように見えた。
「俺とお前は、元々クリスに拾われた居候仲間だ!! 唯一、クリスを失った悲しみを分かち合える存在なんだぜ!」
俺たちだけが知っている、喪失の痛み。
俺たちだけが分かる、彼女のいない世界の寂しさ。
だからこそ──
「これから俺たちの間でどんなことがあっても、俺はマルタローと一緒にいる!! クリスに頼まれたからじゃない、サイファーとレイアさんに言われたからでもない。俺自身の考えだ!」
「わふぅ……」
マルタローの瞳が潤み、小さな涙がこぼれ落ちる。
──魔物でも、涙を流す。
俺は静かに座り直し、マルタローを胸に抱き寄せた。
俺の服に顔を埋めるように、マルタローはもぞもぞと鼻を擦りつける。
「はは……泣くなよ」
そっと背中を撫でると、マルタローの肩が小さく震えた。
クリスはいない。
でも、マルタローはいる。
それだけで、俺は十分だ。
俺はマルタローを優しく持ち上げ、目線を合わせる。
泣いたせいで毛はしっとりと濡れ、もふもふが少し圧縮されていた。
「なぁ、マルタロー……ちゃんと言っておきたいことがあるんだ」
「わふぅ?」
口にするなんて恥ずかしい。
だけど、言っておきたい。
「俺と、家族になってくれないか……?」
「わふ?」
きょとんとするマルタロー。
俺は、少し照れながら続ける。
「クリスを失って、家もなくなって、俺には家族がいない……。俺は、もしこの旅に終わりがあるとするなら、どこかで静かに暮らすと思う。まぁ、サイファーやレイアさんの世話にはなるかもしれないけど……。その時も、お前にはずっと隣にいて欲しいんだ」
かつてクリスにも言いたかった言葉。
でも、言えなかった言葉。
「一緒に暮らして、朝はおはようって言い合って、夜はおやすみって言う……そういう関係になりたいなって、思ったんだよ」
マルタローは何も言わず、じっと俺の言葉を聞いていた。
「まぁ、お前がよければだけ──」
「わふぅううう!!」
言い切る前に、マルタローは俺の頭に飛び乗り、大きく鳴いた。
不安そうな表情は、もうどこにもなかった。
「……OKってことか?」
「わふぅ!! わふぅ!!」
マルタローの全身が震えるように揺れ、俺の頭の上で跳ねるように鳴いた。
その声は、まるで長い間押し殺してきた何かを、やっと吐き出せたかのような、そんな純粋な喜びの響きを帯びていた。
「ありがとう……」
静かに、心からの感謝を口にする。
俺がマルタローの頭を撫でると、いつもよりずっと力強く、俺の額に鼻先を擦り付けてきた。
──家族。
たった一言の変化かもしれない。
けれど、それは俺にとって、大きな意味を持つ言葉だった。
何かを失い続けてきた俺が、初めて「守りたい」と思ったものが、今、確かに家族となって、ここにいる。
そうしている間にも、日はゆっくりと沈みかけていた。
黄金色の光が地平線に溶け、茜色が徐々に深みを増していく。
雲は淡い紫に染まり、やがて夜の帳が世界を包み込もうとしていた。
──そして。
「……」
気づけば、俺たちの足元には、無数の小さな光が揺らめいていた。
「……すげぇ」
思わず息を呑む。
まるで夜の空が地上へと降りてきたかのように、無数の淡い輝きが草原を埋め尽くしている。
一面に広がる《エルミナの灯草》の光は、静かに脈打つように瞬いていた。
それはまるで、風に合わせて鼓動するかのような、儚げでありながらも確かに存在する"命の光"だった。
俺はマルタローをそっと抱き下ろし、草原の中にゆっくりと足を踏み入れる。
足元をそっと撫でる光は、何かを伝えようとしているかのように、柔らかく揺れた。
「見ろよ……マルタロー」
「わふぅ……」
マルタローも、まるで言葉を失ったかのように、静かにその光景を見つめていた。
彼の瞳に映る光は、俺の瞳にも映っているはずだった。
静寂の中、ただ風の音だけが俺たちを包み、夜の世界へと導いていく。
夜空に広がる星々と、地上の灯草の光が混ざり合い、どちらが空でどちらが大地なのかわからなくなるほど、世界は幻想的な景色に包まれていた。
これが、古代魔術を復活させるための材料……?
そんなことを一瞬考えたが、俺はすぐにそれを振り払う。
──今はただ、この景色に身を委ねていたかった。
俺とマルタローが、ただそこにいるだけでいいと思える場所。
言葉はいらない。
ただ、一緒にこの風景を見ていれば、それだけで十分だった。
「俺たちの新しい絆を……祝福してくれてるみたいだな」
光の中で佇みながら、ふとそんなことを思う。
たとえ偶然だとしても、まるでこの瞬間を待っていたかのように、エルミナの灯草は輝いていた。
俺たちが「家族」になった、その証を祝うように。
寂しさも、迷いも、不安も──
すべてが、この柔らかな光に包まれて、少しだけ癒されていくようだった。
夜の空を仰ぐ。
星々が静かにまたたき、どこか遠い場所で、誰かが微笑んでいるように見えた。
もし、あの約束が叶っていたなら、クリスもこの光景を見て、どんな顔をしていただろう。
あの優しい声で、「綺麗だね」と言うだろうか。
それとも、俺の髪型を見て笑っていただろうか。
「なぁ……クリスも、天国から見てるかな」
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『うん、ずっと見ているよ』