表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

101/226

第九十六話 「ずっと、見ているよ」

 ──感傷に耽るのは、もうここまでにしておこう。


 俺は目を閉じ、深く息を吸った。

 潮の香りが鼻をくすぐり、風に揺れる草の音が心を落ち着かせる。


 それでも、胸の奥にこびりついた寂しさは、そう簡単には消えてくれそうになかった。


 目を開け、周囲を見渡す。

 日はまだ完全に沈んでいない。

 太陽が傾き、地平線へと向かうその途中。


 夜になれば、《エルミナの灯草》の光がはっきりとわかるはずだが、今の時間ではどの草が光るのか判別できそうもない。


 この場所に来る前は、ただの素材集めのつもりだった。

 だが、ここに来てしまえば──この風景が、まるで俺を過去へと引きずり込むように、忘れようとしていた記憶を次々と呼び起こす。


 クリスとの日々。

 あいつと過ごした時間。

 別れ際にした……唇の感触は今でも忘れない。


 ──あいつは、夕日より朝日の方が似合う女の子だった。


 ふぅ、と息を吐き、俺はその場にゆっくりと身を横たえた。

 草の感触が心地いい。

 頭の後ろで手を組み、リラックスしながら空を見上げる。


 腹の上に、ちょこんと乗る感触。


「……日暮れまでもう少しだし、夜になるまで待つか。その方が探しやすいだろ……」


 静かに呟くと、いつもなら元気に「わふ!」と返してくるマルタローの声が、今日は聞こえなかった。


「ん?」


 視線を落とすと、マルタローは俺の腹の上に座ったまま、小さな耳を伏せて俯いていた。

 胸元に前足を添え、わずかに震えている。

 何かを言いたいのに、言えないまま、その小さな背中に寂しさを滲ませている。


 俺はそっと手を伸ばし、柔らかな毛を撫でた。

 だが、マルタローは俺の方を見ず、海の向こうへと沈んでいく夕日をじっと見つめていた。


 静かに、穏やかに、そして、どこか哀しく──


 そうか。

 ここは、懐かしいものを思い出させる場所なのかもしれない。


 この景色は確かに美しい。

 だが、同時に──帰ることのできない過去を思い出させるには、十分すぎるほどの郷愁を孕んでいた。


 夕焼けは過去を振り返らせる──とはよくいったものだ。


「どうした、マルタロー……?」

「くぅ……ン……」


 声をかけると、マルタローはかすかに耳を動かしたが、それでも俺の方を向こうとはしなかった。


「具合が悪いのか……?」


 心配になり、体を起こしてマルタローの背中を撫でる。

 だが、マルタローは首を横に振った。

 風に揺れる毛が、夜の訪れを告げるように淡く光を反射する。


 ──違う。

 これは、心の問題だ。


「……気にしてるのか? セリエスさんに言われたことや、ラドランであったこと……」

「わふぅ」


 マルタローは、そっと息を吐いた。

 肯定の返事だった。


 俺は目を細め、遠くの空を仰ぐ。

 セリエスさんが言ったことは、決して間違っていないのだろう。

 けれど、それを受け入れるのは簡単なことじゃない。


 マルタローは、セルベリア大陸に来てから、生きづらさを感じていたに違いない。

 俺が隣にいたとしても、きっと心のどこかではずっと不安だったのだろう。


「わふぅ……わふ?」

「えっ、俺か?」


 マルタローが俺をじっと見つめてくる。

 俺はそれを見て、ふっと口角を上げた。


「……気にしてない!」

「わふぅ!?」


 驚いたように目を見開き、マルタローが俺の方を振り向いた。

 そのまま俺はマルタローを抱き抱え、持ち上げる。


 その向こうには、広大な海と、沈みかけた太陽。

 逆光に照らされるマルタローは、まるで神々しく光っているように見えた。


「俺とお前は、元々クリスに拾われた居候仲間だ!! 唯一、クリスを失った悲しみを分かち合える存在なんだぜ!」


 俺たちだけが知っている、喪失の痛み。

 俺たちだけが分かる、彼女のいない世界の寂しさ。


 だからこそ──


「これから俺たちの間でどんなことがあっても、俺はマルタローと一緒にいる!! クリスに頼まれたからじゃない、サイファーとレイアさんに言われたからでもない。俺自身の考えだ!」

「わふぅ……」


 マルタローの瞳が潤み、小さな涙がこぼれ落ちる。

 ──魔物でも、涙を流す。


 俺は静かに座り直し、マルタローを胸に抱き寄せた。

 俺の服に顔を埋めるように、マルタローはもぞもぞと鼻を擦りつける。


「はは……泣くなよ」


 そっと背中を撫でると、マルタローの肩が小さく震えた。


 クリスはいない。

 でも、マルタローはいる。


 それだけで、俺は十分だ。


 俺はマルタローを優しく持ち上げ、目線を合わせる。

 泣いたせいで毛はしっとりと濡れ、もふもふが少し圧縮されていた。


「なぁ、マルタロー……ちゃんと言っておきたいことがあるんだ」

「わふぅ?」


 口にするなんて恥ずかしい。

 だけど、言っておきたい。


「俺と、家族になってくれないか……?」

「わふ?」


 きょとんとするマルタロー。

 俺は、少し照れながら続ける。


「クリスを失って、家もなくなって、俺には家族がいない……。俺は、もしこの旅に終わりがあるとするなら、どこかで静かに暮らすと思う。まぁ、サイファーやレイアさんの世話にはなるかもしれないけど……。その時も、お前にはずっと隣にいて欲しいんだ」


 かつてクリスにも言いたかった言葉。

 でも、言えなかった言葉。


「一緒に暮らして、朝はおはようって言い合って、夜はおやすみって言う……そういう関係になりたいなって、思ったんだよ」


 マルタローは何も言わず、じっと俺の言葉を聞いていた。


「まぁ、お前がよければだけ──」

「わふぅううう!!」


 言い切る前に、マルタローは俺の頭に飛び乗り、大きく鳴いた。

 不安そうな表情は、もうどこにもなかった。


「……OKってことか?」

「わふぅ!! わふぅ!!」


 マルタローの全身が震えるように揺れ、俺の頭の上で跳ねるように鳴いた。

 その声は、まるで長い間押し殺してきた何かを、やっと吐き出せたかのような、そんな純粋な喜びの響きを帯びていた。


「ありがとう……」


 静かに、心からの感謝を口にする。

 俺がマルタローの頭を撫でると、いつもよりずっと力強く、俺の額に鼻先を擦り付けてきた。


 ──家族。


 たった一言の変化かもしれない。

 けれど、それは俺にとって、大きな意味を持つ言葉だった。

 何かを失い続けてきた俺が、初めて「守りたい」と思ったものが、今、確かに家族となって、ここにいる。


 そうしている間にも、日はゆっくりと沈みかけていた。

 黄金色の光が地平線に溶け、茜色が徐々に深みを増していく。

 雲は淡い紫に染まり、やがて夜の帳が世界を包み込もうとしていた。


 ──そして。


「……」


 気づけば、俺たちの足元には、無数の小さな光が揺らめいていた。


「……すげぇ」


 思わず息を呑む。

 まるで夜の空が地上へと降りてきたかのように、無数の淡い輝きが草原を埋め尽くしている。

 一面に広がる《エルミナの灯草》の光は、静かに脈打つように瞬いていた。

 それはまるで、風に合わせて鼓動するかのような、儚げでありながらも確かに存在する"命の光"だった。


 俺はマルタローをそっと抱き下ろし、草原の中にゆっくりと足を踏み入れる。

 足元をそっと撫でる光は、何かを伝えようとしているかのように、柔らかく揺れた。


「見ろよ……マルタロー」

「わふぅ……」


 マルタローも、まるで言葉を失ったかのように、静かにその光景を見つめていた。

 彼の瞳に映る光は、俺の瞳にも映っているはずだった。

 静寂の中、ただ風の音だけが俺たちを包み、夜の世界へと導いていく。


 夜空に広がる星々と、地上の灯草の光が混ざり合い、どちらが空でどちらが大地なのかわからなくなるほど、世界は幻想的な景色に包まれていた。

 これが、古代魔術を復活させるための材料……?

 そんなことを一瞬考えたが、俺はすぐにそれを振り払う。


 ──今はただ、この景色に身を委ねていたかった。


 俺とマルタローが、ただそこにいるだけでいいと思える場所。

 言葉はいらない。

 ただ、一緒にこの風景を見ていれば、それだけで十分だった。


「俺たちの新しい絆を……祝福してくれてるみたいだな」


 光の中で佇みながら、ふとそんなことを思う。

 たとえ偶然だとしても、まるでこの瞬間を待っていたかのように、エルミナの灯草は輝いていた。

 俺たちが「家族」になった、その証を祝うように。

 寂しさも、迷いも、不安も──

 すべてが、この柔らかな光に包まれて、少しだけ癒されていくようだった。


 夜の空を仰ぐ。

 星々が静かにまたたき、どこか遠い場所で、誰かが微笑んでいるように見えた。

 もし、あの約束が叶っていたなら、クリスもこの光景を見て、どんな顔をしていただろう。


 あの優しい声で、「綺麗だね」と言うだろうか。

 それとも、俺の髪型を見て笑っていただろうか。


「なぁ……クリスも、天国から見てるかな」



 ---



『うん、ずっと見ているよ』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ