第九十五話 「かつての約束」
「──というわけで、古代魔術を復活させる手順はこの通りじゃ」
「…………」
目の前の巨大なボードには、無数の資料が貼られていた。
古代文字で書かれた羊皮紙、黄ばんだ書物の切れ端、錬金術に関する魔法陣の図解、そして何かの魔石らしき鉱石のスケッチまで。
その中心には、転移魔術の発動過程を示したと思われる魔法陣が描かれている。
「これが錬金術の基盤であり、古代魔術を再現する鍵じゃ。錬金術とは、魔力を練り込み、物質の構造を変化させる技術のこと。例えば……」
ブリーノが何やら難しい専門用語を並べて説明しているが、俺はほとんど聞いていなかった。
理由は明白──
「俺の髪の毛……」
俺は椅子の背もたれに寄りかかり、虚空を見つめる。
目の前に広がる情報の海よりも、自分の頭皮のほうがよほど深刻な問題に思えた。
人間、何かを失ったときに初めてその大切さを実感するというが、まさかそれが「髪」とは思わなかった。
「魔術を教えたんだから、ちゃんと働け!!」
「あれが教えた内に入ると思ってるのか?」
俺たちの押し問答はしばらく続いたが、仕方なく話を本題に戻す。
ブリーノの説明によれば、転移魔術を復活させるにはとてつもない魔力が必要らしい。
ブリーノは自称「一流の魔術師」だが、それでも全く足りないほどだという。
「古代魔術は"古い記憶"のようなものを復元する作業じゃ。発動させるための情報は揃っておるが、それを動かす魔力が圧倒的に足りんのじゃ」
「ふーん……つまり、復活したら使うのに魔力はそんなに必要ないけど、復活させることそのものに大量のエネルギーが必要ってことか?」
「その通りじゃ!」
なるほどな。言ってることはわかる。
ただ、そうなると問題は「どうやってそんな魔力量を確保するか」って話になるわけだ。
「で、転移魔術を復活させるためには、大量の魔力を含んでいると言われている──」
そう言って、ブリーノは本を開き、標本画を指差す。
「《エルミナの灯草》を採集してきてほしいのじゃよ」
そこに描かれていたのは、幻想的な植物だった。
細長い茎の先に、小さな花が咲いている。
その花びらは淡く光り、まるで宵闇に浮かぶ小さな灯火のようだ。
「この草はな、古くから"魔力を蓄える性質"があると言われておる。夜になるとより強く輝くのが特徴じゃ。できるだけ、強く光っているものを取ってこい」
「へぇ……俺の頭くらい強く光るのか?」
「ええい、ちゃんと元に戻す方法も考えておるから拗ねるな!!」
またもや口論になりかけるが、今はそれどころじゃない。
しかし、ふと疑問が浮かんだ。
「…………今思ったんだけど、なんで自分で採りにいかなかったんだ? 魔術だって使えるし、魔物ともちゃんと戦えそうだけど」
俺がそう言うと、ブリーノは急に神妙な顔つきになった。
まるで何か言いたくないことを隠すように、目を伏せる。
「……ここを離れられん深ーい事情があるんじゃよ……。それができたら、出ていった息子を探しにも出ておるわ……」
「どんな事情なんだ?」
「……準備をしろ」
ブリーノはそう言って標本図鑑を勢いよく閉じ、話を終わらせた。
明らかに"これ以上話すことはない"という意思表示だ。
「なんだよ……」
それ以上突っ込むのも気が引けたので、俺は渋々と素材集めの準備を始めることにした。
すると、リュックの中から小さな気配が動く。
「わふ」
マルタローが、静かに忍び込んでいた。
どうやら一緒に行きたいらしい。
ラドランの街を歩く際、マルタローを連れ歩けばリスクになりかねないが……。
俺が感心していると、ブリーノが急に「ちょっと待っとけ」と言い、マルタローに向かって何か魔術を唱えた。
すると、マルタローの姿がゆっくりと透け始め、次第に視認出来なくなる。
「うおっ……」
「ふっ……これでラドランの人に見つかる心配はないじゃろ」
「すげぇな……これも復活させた魔術なのか?」
「どうじゃ……面白いじゃろう?」
ブリーノは満足げに笑いながら、片手を振る。
「魔術とはな、本来、なんでもできるものなんじゃよ」
得意げに語るブリーノ。
俺は初めてこのジジイを尊敬した。
「わふ!!」
姿が見えなくなったマルタローが俺の体をよじ登り、頭に乗ってくるのがわかる。
今までならマルタローのもふもふによるアフロヘアーというのが定番だった。
しかし──
透明になったマルタローでは、ただのハゲに変わりはない。
「ぶははははは!!!」
またもブリーノが爆笑し始めた。
何がそんなに面白いのか、もはや俺には理解できない。
──もういい、笑いたければ勝手に笑ってろ。
こっちはこれから、魔術師の助手としての初仕事だ。
ブリーノはまだ肩を震わせながら、俺に一枚の地図を差し出してきた。
「これを持って行け。エルミナの灯草の群生地は、この"霧ヶ丘"の南西にあるはずじゃ」
「……ふむ」
俺は地図を受け取り、ざっと目を通す。
ラドランを出てしばらく西へ進み、そこから南へ逸れた先に"霧ヶ丘"と呼ばれる場所があるらしい。
その丘のどこかに、魔力を宿した灯草が自生しているというわけだ。
「あ、そうだ。頼みがあるんだけど」
出発する際、俺がそう言うと、露骨に嫌そうな顔をするブリーノ。
「なんじゃ……金なら無いぞ」
「ちげぇよ」
金を借りられるとでも思ったらしい。
息子によく言われたのだろうか。
俺はポケットから一枚の紙を取り出す。
気になったことがあったからメモしたものだ。
「これに書いてあるアイテムを集めてくれないか?」
「……薬草の調合リストか? ふむ…… まぁこれくらいならラドランでも集まりそうじゃな。お前さんが考えたのか?」
「いや、サイファーに教わったやつだけど。帰ってくるまでに頼めるか?」
「仕方ないの……。では、そちらも頼んだぞ」
「……あぁ、行ってくる」
俺は踵を返し、ブリーノの家を後にした。
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ラドランの街を出る際、少しだけ緊張した。
何せ、俺の頭には"透明化した魔物"が乗っているのだから。
何度も周囲の人間の視線を確認する。
だが、門番も、道行く人も、誰一人としてマルタローの存在を気にしている素振りはなかった。
ちなみに、さすがにハゲ頭を晒すのも恥ずかしいので、布をバンダナのように頭に巻いている。
そしてその上にマルタローが乗っかっている状況だ。
「わふ」
俺の頭の上で、見えないはずのマルタローがぴょこんと動いた。
……バンダナの上で動かないで欲しい。
余計に変な形になる。
しかし、なんだかんだで、俺はマルタローを頭に乗せたまま、ラドランの門を抜けることができた。
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街を離れると、道は徐々に細くなり、やがて丘陵地帯へと入る。
風は穏やかで、草の匂いが鼻をくすぐった。
「……こりゃ、いい場所だな」
霧ヶ丘という名前から、もっと暗くてじめじめした土地を想像していたが、実際は違った。
なだらかな草原が広がり、所々に白い野花が咲いている。
丘の上へと続く道の途中には、ぽつぽつと岩が転がり、長い年月を感じさせる。
「わぅふ!」
「……あれか」
目的地を見上げると、丘の頂には一本の巨大な木が立っていた。
風に揺れるその枝葉は、まるで天空を抱くように広がり、堂々とした姿を見せている。
「……よし」
俺はゆっくりと歩を進めた。
木の根元に立つと、思わず息を呑む。
目の前に広がるのは──草原の向こう、遥か遠くに続く海の景色だった。
空と海の境界が曖昧になるほどの青。
どこまでも続く水平線が、まるで世界の果てを見せているようで──
言葉を失うほどに、美しかった。
「……すげぇ」
俺は呟いた。
心が、一瞬で奪われる。
まるで、時間の流れさえも止まったように──
ただ、ここに立っているだけで、世界に溶けていくような感覚に陥る。
「…………」
この景色を見ていると、"あの日"のことを思い出す。
『……綺麗……』
『だろ? 俺はいつか教会を出て、冒険者になるんだ』
『冒険者?』
『あぁ、ここから見える草原より、もっと広い世界を見るんだ! 冒険者になって、いろんなとこを旅して……ワクワクしないか!?』
幼い頃の、フェイクラントの声。
そして──クリスの声。
俺の記憶ではないはずなのに──
懐かしくて、儚くて、温かい。
『じゃあ決まりだな。二人で一緒に冒険者になって、世界を見に行くか!』
『うん!』
かつて交わした、"約束"。
俺たちは、世界を見るために冒険者になることを誓い合った。
どこまでも続く景色を、一緒に見て──
この世界を、二人で旅するつもりだった。
(……もし、彼女がここにいたなら)
そっと、目を閉じる。
もし、今この瞬間、隣にクリスがいたなら──
この景色を見ながら、どんな言葉を交わしていただろうか。
(……こんな風に、ただ並んで、空を見ていたのかもしれない)
……でも、彼女はもういない。
失ったものは──戻らない。
「……っ」
頬を伝う熱いものを、指で拭う。
だが、涙は止まらなかった。
こんなに美しい景色を前にしているのに、心はどうしようもなく寂しかった。
「……わふ」
マルタローの小さな鳴き声が、俺の意識を現実へと引き戻す。
気づけばマルタローは魔術が解けたのか、俺の頭から降り、肩の上でそっと鼻を押し付けていた。
「……大丈夫だ。ちょっと、昔を思い出しただけさ」
そう言って、涙を誤魔化すように深呼吸をした。
「わふ……」
「そうだよな……お前だって、クリスと一緒に旅をしたかったよな」
なぁ、クリス。
俺は、まだお前と旅がしたいよ。