第三十二話
木度町の朝は静かに訪れていた。アパートの窓から差し込む朝日が、氷川拳志の疲れ切った顔を照らし出す。彼の手にはヒヒイロカネの錫杖が握られ、その冷たい感触が掌に馴染んでいた。昨夜の鬼との戦い、そして天狗面の男・黒羽との出会い。全てが頭の中で渦巻き、彼に休息を与えない。秋山孝はソファで寝息を立て、桜華は台所で朝食の準備を始めていた。拳志は畳に座り、深く息を吐きながら、黒羽が残した言葉を反芻していた。「次の戦い」。その響きが、彼の心に新たな火を灯していた。
だが、その静寂は長く続かなかった。アパートの玄関を叩く音が響き、拳志は反射的に立ち上がった。ドアを開けると、そこに立っていたのは母・氷川美津子だった。警視の制服に身を包み、短く切り揃えられた髪が朝日に映える。彼女の鋭い目つきはいつも通り威圧的で、拳志は一瞬身構えた。美津子は無言で部屋に足を踏み入れ、拳志の手に握られた錫杖に視線を落とした。
「母上殿…どうしてここに?」
拳志の声には警戒と戸惑いが混じる。美津子は軽く鼻を鳴らし、畳に腰を下ろした。彼女の視線は錫杖から拳志の顔へと移り、その表情に僅かな苛立ちが滲んでいた。
「お前がまた妙なものに首を突っ込んでいるという報告が入った。天狗面の男、鬼、そしてその手に持つ金属棒。お前、前回の約束を忘れたのか?」
美津子の声は低く、抑揚が少ない。それが逆に拳志の胸を締め付けた。彼は錫杖を膝に置き、言葉を探した。
「母上、これは…確かに俺が関わったものだ。でも、今回は違う。鬼が町を脅かしてたんだ。俺が倒さなきゃ、もっと人が傷ついてたかもしれない。黒羽って男に頼まれて、仕方なく――」
「仕方なく?」美津子が言葉を遮り、冷たく笑った。「お前がその場にいたこと自体が問題だと言ったはずだ。警察に連絡せず、自分で解決しようとするその癖が…まあいい、お前はただの学生だぞ、拳志。」
拳志は唇を噛み、反論を飲み込んだ。確かに母の言う通りだ。だが、黒羽の言葉とヒヒイロカネの力が、彼を新たな戦いへと駆り立てていた。美津子は拳志の葛藤を見透かしたように、テーブルの上にファイルを置いた。表紙には「木度町異聞」と記され、内部には鬼や天狗に関する報告書がまとめられているようだった。
「母上がここに来たのは、説教のためだけじゃないよな?」
拳志が慎重に問うと、美津子は小さく頷いた。彼女はファイルを手に取り、ページをめくりながら話し始めた。
「その通りだ。お前が関わった鬼の一件、警察でも動きがある。裏路地の防犯カメラに映った天狗面の男――黒羽と名乗るその人物の身元はまだ特定できていないが、彼が追っているものについて新たな情報が入った。お前が知りたい『鬼の秘密』とやらの手がかりだ。」
拳志の目が鋭く光り、身を乗り出した。
「それって何だ? 母上が知ってるなら教えてくれ。俺だって――」
「黙れ、拳志。」美津子の声が鋭く響き、彼を黙らせた。「お前が首を突っ込む前に、私が話す。お前が無茶をしないよう、私が管理する形で情報を渡す。それが条件だ。」
拳志は渋々頷き、美津子の言葉を待った。彼女はファイルを指で叩きながら、冷静に続けた。
「昨夜、お前が倒した鬼は単独で動いていたわけじゃない。木度町の裏で蠢く妖怪の集団が関わっている可能性が高い。そして、その集団を操る存在がいる。天狗面の黒羽が追っているのは、その首謀者だと思われる。報告書には、鬼の目撃情報と共に、ある女の存在が浮上している。」
「女?」拳志が眉を寄せると、美津子はファイルを広げ、一枚の写真を差し出した。そこには、防犯カメラに映った不鮮明な映像が写っていた。長い黒髪に濃い色のスーツのような服を纏った女が、闇の中で佇んでいる。顔ははっきりしないが、その立ち姿からは異様な気品と妖しさが漂っていた。
「こいつが…鬼を操ってるのか?」
拳志が写真を見つめると、美津子は首を振った。
「まだ分からない。ただ、この女が鬼の出現地点近くで何度も目撃されている。住民の証言では、彼女を見た後に奇妙な霧が町を覆い、鬼の咆哮が聞こえたという。黒羽が追う『何か』と、この女が繋がっている可能性は高い。」
拳志は写真を手に持ったまま、考え込んだ。黒羽が言っていた「天狗の目的」とはこの女に関係しているのか。そして、ヒヒイロカネを求める妖怪集団との繋がりは?
美津子は拳志の表情を見ながら、声を低くした。
「さらに、興味深い報告がある。この女、目撃されるたびに手に何かを持っていた。金属製の棒だ。大きさや形状から見て、お前が持つその錫杖と酷似している可能性がある。」
拳志は驚き、膝の上の錫杖を見下ろした。「ヒヒイロカネ…だと?」
「ああ。お前が黒羽から受け取ったその金属が、ただの武器じゃないことは私も分かっている。伝説にあるヒヒイロカネは、妖怪を封じる力を持つとされる。お前が鬼を倒した時、その力が発動した可能性はあるな。」
拳志は錫杖を握り直し、微かな振動を感じた。黒羽が言った通り、この金属は意志に応じて形を変える。そして、鬼の力を吸収したあの瞬間を思い出す。美津子は拳志の反応を見ながら、言葉を続けた。
「だが、その女がヒヒイロカネを持っているなら、話は別だ。彼女が妖怪集団の首謀者なら、なぜ同じ力を持つ武器を手にしているのか。お前が持つ錫杖と何か関係があるのか、それとも別の目的があるのか…。警察でも調査を進めているが、まだ情報が足りない。」
拳志は目を細め、母に問いかけた。「その女の正体は? 名前とか、どこにいるのかの手がかりは?」
美津子は首を振った。
「まだ分からない。目撃情報が曖昧で、顔も特定できていない。ただ、木度町の北側、廃神社周辺で頻繁に見られているという報告がある。そこが次の調査ポイントだ。」
その時、台所から桜華が顔を出し、興奮した声で割って入った。「ねえ、ひーくん! 謎の美女って面白そうじゃない! 私も一緒に行きたい!」秋山がソファから身を起こし、眠そうな声で呟いた。「ったく、また面倒事に首突っ込む気かよ…。でも、美女なら俺もちょっと興味あるな。」美津子が二人を冷たく一瞥し、拳志に向き直った。「お前が仲間を巻き込むなら、それもお前の責任だ。だが、私が許可を出したわけじゃないことを忘れるな。警察の捜査に干渉すれば、次はお前を拘留するぞ。」
拳志は苦笑しつつ、母の言葉に頷いた。「分かったよ、母上殿。俺が勝手に動くつもりはない。だが、その女が鬼を操ってるなら、放っておけない。黒羽とも話して、次の動きを決めたい。」美津子は立ち上がり、拳志に背を向けた。「なら、私からの情報はここまでだ。廃神社周辺の動きには気を付けろ。お前が死ねば、私が一番困るんだからな。」
そう言い残し、彼女はアパートを後にした。ドアが閉まる音が響き、部屋に静寂が戻った。
拳志は写真を手に持ったまま、仲間たちを見た。桜華が目を輝かせ、秋山が肩をすくめる中、彼の心は決まっていた。謎の美女とヒヒイロカネの繋がり、そして鬼の背後に潜む真実。それを知るため、彼は再び戦いの場へと踏み出す覚悟を固めた。
その夜、拳志は黒羽と連絡を取った。廃神社近くの裏路地で待ち合わせ、二人だけで話を進めることにした。月明かりの下、黒羽は天狗の面を手に持つことなく、素顔で現れた。頬の傷跡が薄闇に浮かび、彼の鋭い目が拳志を捉えた。
「お前が鬼を倒した後、動きがあったと聞いた。警察官である母親から情報を得たんだな?」
黒羽の声には僅かな驚きが混じる。拳志は頷き、写真を差し出した。「ああ。この女が鬼と関わってるらしい。ヒヒイロカネを持ってる可能性もあるってさ。お前、何か知ってるか?」黒羽は写真を手に取り、目を細めた。「…こいつか。確かに見覚えがある。木度町の北側で何度か目撃したことがある。名前は分からんが、妖怪の気配を強く感じる女だ。鬼を操る力があるなら、俺が追ってる集団の中心に近い存在かもしれねえ。」
拳志は錫杖を手に持ったまま、黒羽に問いかけた。「その女がヒヒイロカネを求めてるなら、俺が持ってるこれが狙いってことか?」黒羽は首を振った。「それだけじゃねえ。ヒヒイロカネは妖怪を封じる力を持つが、逆にそいつらを強化する力にもなり得る。お前が鬼を倒したことで、女はその力を欲してる可能性もある。だが、確かなのは、廃神社が次の鍵だ。あそこに何か隠されてる。」
拳志は深く息を吸い、決意を新たにした。「なら、俺が行くしかないな。お前と一緒に、その女の正体を暴く。母上には内緒でな。」
黒羽はニヤリと笑い、拳志の肩を叩いた。「いい覚悟だ。だが、無理はするな。お前が死ねば、俺の計画も終わりだ。」
月が木度町の空を照らす中、拳志と黒羽は廃神社へと向かう準備を始めた。謎の美女と鬼の秘密。その先に待つ真実を知るため、拳志の拳とヒヒイロカネが再び試される時が近づいていた。木度町の闇は、まだその全貌を現していない。




