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第三十一話


木度町の裏路地に朝焼けが差し込む頃、氷川拳志は戦いの余韻に浸りながら、額に滲む汗を拭った。鬼との激闘を終え、秋山孝と桜華と共に路地を後にしたばかりだった。意識を失った鬼の姿は闇に溶けるように消え、奇妙な静寂が町を包んでいた。拳志の心には達成感と同時に、新たな疑問が渦巻いていた。天狗面の男が語った「鬼の秘密」と「天狗の目的」。その言葉が頭から離れず、彼の足取りに微かな重さが加わっていた。

アパートに戻った拳志は、簡素な部屋の畳に腰を下ろし、深く息を吐いた。秋山孝はソファに寝転がり、女装の疲れと戦いの緊張から解放されたように目を閉じていた。桜華は台所で水を汲みながら、「ひーくん、すごかったね! 鬼なんて本物だったんだから!」と興奮気味に声を弾ませた。拳志は苦笑しつつ、目の前に置かれたヒヒイロカネの錫杖を見つめた。天狗面の男が渡したその金属製の棒は、朝日を受けて異様な光沢を放ち、ただならぬ存在感を漂わせていた。重さもさることながら、手に持つと冷たく、どこか生き物のような脈動を感じさせる不思議な感触があった。

「これが本当にヒヒイロカネなのか……」拳志は呟きながら、棒の表面を指でなぞった。天狗面の男の説明では、古来より伝わる希少な鉱物で、錆びることも性質が変わることもないとされる金属だという。伝説では神々の武器に用いられたとも言われ、悪事を働く妖怪を退治する僧侶や武功に優れた僧兵に受け継がれてきたものだ。だが、なぜこんな貴重なものが自分に渡されたのか、その理由がまだ腑に落ちなかった。

その時、アパートの玄関を叩く音が響いた。拳志は眉を寄せ、立ち上がってドアを開けた。そこに立っていたのは、あの天狗面の男だった。赤みを帯びた面を手に持ち、素顔を晒した彼の鋭い目が拳志を捉えた。頬の傷跡が朝日に照らされ、男の存在感が一層際立っていた。拳志は一瞬警戒したが、男の表情に敵意がないことを見て取ると、冷静に口を開いた。「またお前か。何か用か?」

男は低く笑い、ゆっくりと玄関に足を踏み入れた。「用も何もあるまい、拳志。お前が鬼を倒したと聞いてな、礼を言いに来たのだ。」

拳志は男を部屋に招き入れ、畳の上に座るよう促した。秋山がソファから身を起こし、桜華も台所から顔を出して男を見た。男は面を膝元に置き、拳志と向き合うと、落ち着いた声で話し始めた。「昨夜の戦い、見事だった。お前たちの手で鬼を倒してくれたことに、心から感謝する。あの鬼は木度町に潜み、人々を恐怖に陥れていた。噂が広まるばかりで、俺一人ではどうにもならんかった。お前が動いてくれたおかげで、町に平穏が戻ったのだ。」

拳志は男の言葉を聞きながら、目を細めた。「感謝ならいいが、それだけじゃねえだろ。お前が俺に鬼退治を頼んだ理由、そしてこの錫杖を渡した理由……まだ全部話してねえよな?」

男はニヤリと笑い、懐から小さな布袋を取り出した。「鋭いな、拳志。確かに俺はお前に全てを明かしてはいなかった。だが、まずは礼を果たさせてくれ。これが約束の依頼料だ。」そう言うと、男は布袋を解き、中から小さな金属片を取り出して拳志に差し出した。それはヒヒイロカネの錫杖と同じ光沢を持ち、手のひらに収まるほどの大きさだった。拳志がそれを受け取ると、冷たい感触と共に、微かな重みが手に伝わった。

「これは……?」拳志が首をかしげると、男が説明を始めた。「ヒヒイロカネの欠片だ。錫杖と同じ素材でできており、俺が長年保管していたものだ。お前が鬼を倒した報酬として、これを渡そうと思う。だが、これは単なる金銭の代わりではない。お前がこれから向き合う戦いのための、一つの鍵だ。」

拳志は金属片を手に持ったまま、男の言葉を慎重に吟味した。「戦い? 鬼を倒したのに、まだ何かあるってのか?」

男は頷き、声を低くして続けた。「そうだ。昨夜の鬼は、木度町の闇の一部に過ぎん。あの鬼が現れたのは偶然ではない。俺が追っている『何か』が関わっている可能性が高い。そして、その『何か』を知るためには、お前のような力が不可欠だ。」

秋山がソファから身を乗り出し、訝しげに男を見た。「ちょっと待てよ、天狗面。あんた、拳志に何を背負わせようとしてるんだ? 鬼退治だけで十分だろ。俺だって巻き込まれたんだぞ!」

男は秋山に目を向け、苦笑いを浮かべた。「巻き込んだのは謝るよ、小僧。だが、お前たちが鬼を倒したことで、木度町の闇はさらに動き出した。お前たちが手を引くならそれでもいいが、拳志にはその覚悟があるように見える。違わねえな?」

拳志は男の視線を受け止め、静かに頷いた。「確かに俺は鬼を倒しただけで満足しねい、天狗、お前が何かを隠してるのは分かってる。だが、その闇に踏み込むなら、ちゃんと話せ。半端な情報じゃ動くことはできない。」

男は満足げに頷き、膝を叩いて立ち上がった。「よし、分かった。では、改めて話そう。俺の名は黒羽――天狗の面を被り、木度町の裏で蠢くものを監視してきた者だ。鬼の出現は、ある妖怪の集団が関わっている可能性がある。そいつらはヒヒイロカネを求め、町に混乱を撒き散らしている。昨夜の鬼はその手先の一つに過ぎん。」

拳志は黒羽の言葉に耳を傾け、ヒヒイロカネの錫杖を手に持った。「ヒヒイロカネを求める妖怪集団……それが天狗の目的と関係してるのか?」

黒羽は目を細め、ゆっくりと頷いた。「ああ。俺の目的は、そいつらを止めることだ。だが、俺一人では力不足でな。お前なら、純粋な戦闘能力でそいつらに立ち向かえる。巫女の力を使わず、己の拳だけで戦える奴はそう多くねえ。お前がその適任者だと、俺は確信した。」

桜華が目を丸くして黒羽を見た。「え、じゃあこれからもひーくんに戦わせるつもり? 危なくない?」

黒羽は桜華に視線を移し、静かに答えた。「危険は避けられん。だが、拳志にはその覚悟があるはずだ。そして、このヒヒイロカネの錫杖と欠片は、お前たちを守る武器にもなる。使い方を覚えれば、妖怪相手でも互角以上に戦える。」

拳志は錫杖を手に持ったまま、黒羽を見つめた。「使い方ってのはどういう意味だ? ただの棒じゃねえのか?」

黒羽は笑い、錫杖を指差した。「ヒヒイロカネは単なる金属じゃねえ。妖怪の力を吸収し、己の意志に応じて形を変える性質を持つ。お前が鬼を倒した時、錫杖にその力が宿ったはずだ。試してみろ。己の意志を込めてみろ。」

拳志は訝しげに錫杖を握り、目を閉じて意識を集中した。すると、錫杖から微かな振動が伝わり、手の中でその形が僅かに変化した。棒の先端が鋭く尖り、まるで槍のような形状に変わったのだ。秋山と桜華が驚きの声を上げ、拳志自身も目を見開いた。

「何だこれ……!」


黒羽は満足そうに頷いた。

「それがヒヒイロカネの力だ。お前の意志と戦意が、それを武器に変える。これがあれば、次の戦いで有利に立てるだろう。」


拳志は錫杖を手に持ったまま、黒羽に視線を戻した。

「次の戦いか……。お前が追ってる妖怪集団とやらに、俺が立ち向かうってわけだな?」


「ああ。だが、無理強いはしねえ。お前が引き受けるなら、このヒヒイロカネの欠片と錫杖は正式にお前に譲る。鬼を倒した礼としてな。」


拳志は一瞬考え込み、仲間たちを見た。秋山は疲れた顔で肩をすくめ、桜華は心配そうな目で拳志を見つめていた。だが、拳志の瞳には迷いがなかった。彼は深く息を吸い、決意を込めて黒羽に答えた。

「分かった。俺が引き受ける。お前が礼を言うなら、俺はその礼に応える形で戦うよ。木度町の闇を終わらせてやる。」


黒羽は深く頷き、面を手に持って立ち上がった。

「感謝する、拳志。お前の力に期待してる。次の手がかりは、また俺が持ってくる。その時まで、錫杖を手に慣らしておけ。」


そう言い残し、黒羽はアパートを後にした。玄関のドアが閉まる音が響き、部屋に静寂が戻った。拳志はヒヒイロカネの錫杖と欠片を手に持ったまま、窓の外を見た。朝焼けが空を染め、木度町に新たな一日が始まっていた。だが、彼にとって、これは新たな戦いの幕開けに過ぎなかった。

秋山がため息をつき、ソファに倒れ込んだ。

「ったく、また面倒事に巻き込まれたな……。でも、拳志がやるなら俺も付き合うよ。」


桜華が笑いながら拳志の肩を叩いた。

「ひーくん、頼もしいね。私も手伝うよ。鬼退治より面白そうだし!」


拳志は仲間たちの言葉に笑みを浮かべ、錫杖を握り直した。

「ああ、頼むよ。木度町の闇はまだ深い。だが、この武器があれば、俺たちなら何とかなるさ。」


朝日が部屋に差し込み、ヒヒイロカネの錫杖が輝いた。拳志の心に刻まれた決意は、さらに強くなっていた。黒羽の感謝と依頼料として受け取ったこの武器を手に、彼は新たな戦いへと踏み出す準備を整えた。木度町の謎はまだ解かれていない。そして、その先に待つ真実を知るために、拳志の拳は再び振るわれるのだ。


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