第二十八話
氷川拳志は木度町の裏路地での戦いの後、朝焼けに染まる空を見上げながら息を整えていた。汗と埃にまみれたジャケットを軽く叩き、握り潰した天狗のシールをポケットに押し込む。身体は疲労で軋み、脇腹には鈍い痛みが残っていたが、心の中では新たな決意が燃えていた。「鬼の秘密」「天狗の目的」。あの男の言葉が頭から離れず、彼を更なる闇へと誘う。しかし、その足取りは長くは続かなかった。
路地を出て大通りへ差し掛かった瞬間、聞き慣れたサイレンの音が耳に飛び込んできた。赤と青の光が朝の薄闇を切り裂き、黒塗りのパトカーが拳志の前に滑り込むように停車した。ドアが勢いよく開き、屈強な警察官二人が拳志を取り囲む。その動きは迅速で、まるで重罪人を捕らえるかのようだった。拳志は一瞬抵抗を考えるも、疲れ切った身体と冷静な判断がそれを抑えた。
「氷川拳志、乗れ。署まで行くぞ。」
警察官の一人が低く命令し、拳志を後部座席に押し込む。硬いシートに背を預けると、窓の外には木度町の景色が再び遠ざかっていくのが見えた。サイレンが鳴り響き、車内の無線が時折途切れながら現実を突きつける。拳志は小さく息を吐き、目を閉じた。
「母上殿…またかよ。」
彼の呟きは車内の静寂に溶け、すぐに警察署へと運ばれる現実が重くのしかかった。
警察署に到着すると、拳志は前回と同じく両脇を警察官に挟まれ、取り調べ室へと連行された。蛍光灯の白い光が眩しく、消毒液の匂いが鼻をつく。鉄製の椅子に座らされ、一方向ガラスの向こうに誰かの気配を感じながら、彼は首を軽く振って緊張を解そうとした。だが、ドアが開く音とともに、その試みは無意味に終わる。
氷川美津子、拳志の母親であり警視が姿を現した。制服の襟を正し、背筋を伸ばした姿は前回と変わらず威厳に満ちている。短く切り揃えられた髪と、年齢を感じさせない鋭い目つきが、彼女の存在感を際立たせていた。美津子は無言で椅子に腰掛け、拳志をじっと見据えた。その視線は冷たく、重く、拳志は思わず目を逸らす。
「拳志。」
美津子の声は低く、抑揚がない。それが逆に威圧感を増し、拳志の背筋を冷たくさせる。
「お前がまた木度町の裏路地で何かをやらかしたと報告が入った。傷だらけで、埃まみれで、しかも天狗面の男と接触していたとな。何だこれは? 前回の約束はどうした?」
拳志は喉を軽く鳴らし、言葉を探した。前回の取り調べで「もう関わらない」と約束した手前、言い訳が難しい。だが、正直に話すしか道はないと観念し、彼は口を開いた。
「母上殿、落ち着いて聞いてください。俺、約束は守るつもりだったんです。でも、あの天狗面の男が突然現れて…俺の実力を試すとか言い出して、襲ってきたんですよ。仕方なく応戦しただけで、こっちから首を突っ込んだわけじゃないんです。」
美津子は眉をわずかに動かし、拳志の言葉を吟味するように黙った。数秒の沈黙が部屋に重く漂う。やがて彼女は小さく鼻を鳴らし、冷たく返した。
「仕方なく応戦? ふざけるな、拳志。お前がその場にいたこと自体が問題だ。天狗面の男が現れたなら、逃げるなり警察に連絡するなりできたはずだ。それを自分で解決しようとした時点で、お前は私の命令を無視したんだ。」
拳志は唇を噛み、反論しようとしたが、美津子の視線に気圧されて言葉を飲み込む。彼女の言う通りだ。男が現れた瞬間、拳志は逃げる選択肢を頭に浮かべなかった。好奇心と闘争心が彼をその場に留め、戦いへと駆り立てたのだ。
「ただ、母上、あの人が言っていたんです。『鬼の秘密』とか『天狗の目的』とか…何か大きなことが隠されているようで、どうしても気になってしまって。放っておくわけにはいかなかったんです。」
美津子の目が一瞬細まり、拳志の言葉に反応した。彼女はテーブルの上に置かれたファイルを手に取り、パラパラとめくる。中には「ノックアウト」に関する新たな報告書と、天狗面の男の目撃情報が記されていた。美津子は冷静に言葉を返した。
「その天狗面の男については、すでに捜査が進んでいる。裏路地の防犯カメラに映った顔を解析中で、身元特定も時間の問題だ。だがな、拳志。お前がそこに首を突っ込む必要はないと言ったはずだ。鬼だの天狗だの、そんな怪しげな噂を追うのは警察の仕事だ。お前が絡むと、捜査が余計にややしくなるだけだ。」
「でも、あの人は私に何か知っていることをほのめかして、そのまま姿を消してしまったんです。『本当の戦いはこれからだ』と言って。母上なら、その人を捕まえて話を聞き出せるでしょう。私もただ、その真相を知りたいだけなんです。」
美津子は拳志の熱弁を冷ややかに見つめ、ファイルを閉じた。「お前が知りたいだけなら、それはただの好奇心だ。警察の仕事は好奇心で動くんじゃない。証拠と事実で動く。お前がその男と戦ったせいで、現場に余計な痕跡が増えた。もしあの男が重要参考人なら、お前の行動が証拠を曖昧にする可能性だってあるんだぞ。」
その言葉に拳志の胸が締め付けられた。母親の指摘は的確で、彼の無謀さが状況を悪化させたかもしれないという事実に気付かされる。拳志は拳を握り、悔しさを押し殺した。
美津子は小さく息を吐き、椅子に深く腰掛けた。彼女の表情には苛立ちと疲れが混じり、一瞬だけ母親らしい感情が垣間見えた。
「お前と私は違うと言ったはずだ。私は訓練を受け、責任を負う立場にいる。お前はただの学生で、しかも私の息子だ。無茶をして死なれるのが、私には一番耐えられないんだよ、拳志。」
その言葉に拳志は言葉を失った。前回と同じように、美津子の声に込められた本音が彼の心を揺さぶる。母親に認められたいという思いと、自分の好奇心を満たしたいという衝動がせめぎ合い、彼を混乱させる。拳志は目を伏せ、小さく呟いた。
「…わかったよ、母上殿。もう関わらない。今回は本当に。」
美津子は立ち上がり、拳志に背を向けた。
「今夜はここに泊まれ。明日、私が直々に家に帰す。二度とこんな真似をするなと言ったはずだ。次はお前を拘留するぞ。それが息子を守るための私のやり方だ。」
そう言い残し、彼女は部屋を出て行った。ドアが閉まる音が響き、拳志は再び一人取り残された。
取り調べ室の静寂の中、拳志は拳を握りしめた。天狗面の男が消えた理由、「ノックアウト」の真相、鬼の噂。母親の命令を無視するつもりはないが、心のどこかで燻る好奇心が消えない。窓の外では朝日が昇り始め、木度町に新たな一日が訪れていた。
「長い夜はまだ終わらないな…」
拳志は独り言を呟き、椅子の背に凭れかかった。身体は疲れ果てていたが、彼の目はまだ闇の向こうを見つめていた。母親の説教は厳しかったが、それでも拳志の中で何かが動き始めていた。美津子の言葉を守るか、それとも自分の道を進むか。その答えはまだ見つからないまま、拳志は静かに目を閉じた。木度町の謎は、彼を離さない。




