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プロローグ2

 9月1日。夏休みが終わり、2学期が始まる朝。閑静な住宅街の外れに立つ、古びたコンクリートのアパートは、朝の柔らかな陽光に照らされていた。

 窓の隙間から差し込む光が、埃の舞う室内をぼんやりと浮かび上がらせる。遠くで蝉の声が弱々しく響き、夏の終わりを惜しむように鳴いていた。空気はまだ湿気を帯び、じんわりと肌にまとわりつく。

 氷川健志は、狭い寝室のベッドにぐったりと横たわっていた。

 筋肉質な体は、連日の「暴れ回る河童の退治」という、誰にも話せない異常なバイトの疲れで、まるで鉄の塊を背負っているかのように重い。

 

 夏休み中、夜な夜な川辺で緑がかった妖怪を相手に拳を振るい、時には鉄筋を手に追い詰めた。

 報酬は良かったが、体は悲鳴を上げていた。

 目は半分しか開かず、頭はぼんやりと霞んでいる。学校へ行く気力など、とうに消え失せていた。

 

(始業式なんて、休んじまっても誰も気づかねえだろ……)

 

 そんな考えが頭をよぎった瞬間、けたたましい声が部屋に響き渡った。

 

「よお、氷川! 起きてるか? 起きてるな! よし! メシだ、食え!」

 

 ドアが勢いよく開き、飛び込んできたのはクラスメイトの秋山孝あきやま こうだった。

 

 線の細い、小柄な体に、とても男子高校生には見えない可愛らしい童顔に、なぜか女子用のセーラー服を違和感なく着こなした少年。

 

 自称「親友」を名乗るこの男は、施錠されていたはずのドアをいとも簡単に開けて侵入していた。手に持ったフライパンからは、目玉焼きとベーコンの香ばしい匂いが漂い、健志の空腹を刺激する。

 

「お前……どうやって入ったんだよ……」

 

 健志はベッドから身を起こしながら、寝ぼけた声で呟いた。

 秋山はニヤリと笑い、まるで舞台俳優のような大げさな仕草でフライパンを振ってみせる。

 

「フフン、ボクの技術力を舐めるなよ! この程度の 鍵なんて、ボクの愛とヘアピンの前ではただの飾りさ!」

 

「愛じゃねえよ、ただの不法侵入だ……」

 

 健志は呆れたように呟きながら、渋々ベッドから這い出した。

 フローリングの床はひんやりと冷たく、裸足の足裏に朝の現実を突きつけてくる。

 

 ダイニングキッチンに向かうと、すでにテーブルには朝食が並べられていた。

 目玉焼き、ベーコン、トースト、インスタントの味噌汁。シンプルだが、腹を空かせた健志にはまるでご馳走だった。

 

「で? 何なの、秋山? 朝からやたらテンション高いが……」

 

 健志は椅子にドサリと腰を下ろし、フォークを手に取った。

 秋山は対面に座り、まるで母親のような目で健志の様子を見守っている。

 

「昨日メールしたろ? 今日、一緒に登校しようと思ってさ! 」

 

「はぁ……」

 

 健志は思わずため息をついた。サボタージュの計画は、秋山の登場で完全に崩れ去った。

 仕方なく、トーストにかじりつく。バターの香りが口いっぱいに広がり、疲れた体にほんの少しの活力を与えてくれる。

 

(まぁ、食ったら少しはマシになるか……)

 

 窓の外では、朝日がゆっくりと昇り始めていた。アパートの周囲に植えられた桜の木は、夏の緑をまだ保ちながら、秋の気配をわずかに感じさせていた。

 健志はそんな景色をぼんやりと眺めながら、秋山のハイテンションに付き合う覚悟を決めた。

 

 朝食を終え、健志と秋山はアパートを出た。

 住宅街の道は静かで、時折、登校する小学生の声が遠くから聞こえてくる。

 空は薄い雲に覆われ、陽光は柔らかく地面を照らしていた。

 歩道脇の小さな用水路では、水がキラキラと光りながら穏やかに流れている。健志はその水面を一瞥したが、すぐに視線を前に戻した。川のせせらぎが、ほんの一瞬、丑三つ時の記憶を呼び起こした。

 

(あの夜、川で……)

 

 夏休み中のバイトは、ただの肉体労働ではなかった。夜の川辺で、緑がかった妖怪――河童を相手に格闘する異常な仕事。

 健志自身、なぜそんなバイトを引き受けたのか、今でもよく分からない。

 ただ、金が良かったのか、もしくはどこかで、自分の力を試してみたいという衝動があったのかもしれない。

 あの夜、鉄筋を手に河童を追い詰めた感触が、掌にまだ残っている。

 

「ところでお前、なんで女子の制服着てんだよ。いい加減、男子のブレザーにしろよ」

 

 健志がぼそっと言うと、秋山はくるりと振り返り、セーラー服のスカートをひらりと揺らしてみせた。

 

「ハハ、これの方が動きやすいし、似合うだろ? それに、ボクのスタイルなら許されるって!」

 

「誰も許してねえよ……」

 

 健志は呆れたように呟きながら、肩をすくめた。

 秋山のこの奇行には、もう慣れっこだった。

 最初は驚いたが、今では彼の「らしい」行動として受け入れている。

 

 とはいえ、周囲の視線が気になるのは事実だ。通りすがりの主婦や、犬の散歩をする老人が、チラチラと秋山を見ているのが分かった。

 

 二人は住宅街を抜け、坂道を登って学校へと向かう。坂の途中には、桜並木が続いており、春には満開の花で道を彩る名所だ。

 今は緑の葉が風に揺れ、時折、落ち葉が地面に舞い落ちる。

 健志はリュックを肩にかけ、ズボンのポケットに手を突っ込んで歩いた。

 秋山はスキップするように軽快に進み、時折、健志を振り返って話しかけてくる。

 

「なあ、氷川。夏休み、どうだった? なんか変なバイトしてたって噂聞いたけど?」

 

「変なバイト……まあ、な。川で妙なもんを追い払う仕事だった。疲れただけだ」

 

「ハハ、川で? まさか魚釣りじゃないよな? 何か、妖怪でも出てきたんじゃないか?」

 

 秋山の軽い口調に、健志は一瞬、言葉に詰まった。

 

 妖怪 

 

 確かに、河童は妖怪だった。だが、そんな話を秋山にしても、信じるはずがない。いや、信じたとしても、余計に騒ぎ立てるだけだ。

 

「バカ言え。妖怪なんているわけねえだろ。普通のバイトだよ」

 

「ふーん、つまんねえな。氷川なら、なんか面白いことやってそうだったのに!」

 

 秋山は笑いながら先を歩き、健志は小さくため息をついた。

 川での出来事は、誰にも話していない。自分でも、半分夢だったのではないかと思う瞬間がある。

 だが、体の痛みと、財布に入った報酬は、あの夜が現実だったことを確かに証明していた。

 

 学校に着くと、校門には生徒たちのざわめきが響いていた。

 夏休み明けの初日ということもあり、どこか浮足立った雰囲気が漂っている。校庭の片隅では、野球部の朝練の掛け声が響き、体育館からはバスケ部のボールの音が漏れてくる。健志は校舎の入り口で靴を履き替え、秋山と一緒に1年B組の教室へと向かった。

 

 教室は、すでに生徒たちで賑わっていた。

 窓際では女子たちが夏休みの旅行の写真を見せ合い、黒板の前では男子たちがゲームの話を大声で繰り広げている。

 教室内の空気は、夏の暑さを引きずりながらも、新しい学期の期待感で満ちていた。

 

「こーくん、ひーくん、おはよう!」

 

 教室に入るなり、甘く軽やかな声が二人を迎えた。声の主は、外立桜華はしだて おうか

 秋山の幼馴染であり、クラスでも目立つ存在だ。

 小柄で、どこか幼さの残る顔立ちだが、明るく社交的な性格で、隠れファンが多いと噂されている。

 ちなみに実家は名のある神社で彼女自身も巫女として手伝いをすることとあるのだとか。

 

 彼女の髪は、朝日を受けて黒髪が光る。

 制服のリボンが少しだけ歪んでいるのが彼女らしい。

 

「おはよう、桜華! 、相変わらず元気だな。」

 

 秋山が笑顔で手を振ると、桜華はニコニコしながら近づいてきた。彼女の目は、まるで子犬のようにはしゃいでいる。

 

「ね、ね、聞いた? 最近、噂の通り魔の続報!」

 

 桜華の声は、教室の喧騒を突き抜けるほど弾んでいた。健志は眉をひそめ、リュックを机に置いた。

 

「なんだ? とうとう捕まったか?」

 

 秋山が興味津々で聞き返すと、桜華は目をキラキラさせながら身を乗り出した。

 

「それがね、例の通り魔さん、今度は近くの川で暴れてたところを、クマみたいな大男に殴り飛ばされて、河童みたいに流されていったんだって! そこで同じクマ男のひーくんはどうお考えですか!?」

 

 健志の心臓が、ドクンと跳ねた。川。河童。クマみたいな大男。桜華の言葉は、まるで健志の夏の記憶を直接抉るようだった。

 だが、彼は平静を装い、ぶっきらぼうに答えた。

 

「誰がクマ男だ! 俺はクマみたいに強くねえし、クマみたいな大男にも河童の知り合いなんかいません」

 

「へぇ? そっかそっか。でも、いかにも霊長類最強って感じの氷川なら、河童くらい倒せるんじゃない?」

 

 桜華の無邪気な笑顔に、秋山も便乗してニヤニヤする。

 

「アホめ。俺のはあくまで人間用だ。頑張ってもツキノワグマまでだ」

 

「逆にツキノワグマまでならなんとかなるんだな…」

 

 秋山のツッコミに、教室の一角が笑いに包まれた。健志は苦笑しながら、机に突っ伏した。疲れた体に、この賑やかさは少し刺激が強すぎる。

 だが、どこか心地よい騒がしさだった。桜華の話は、ただの噂として笑いものになるはずだった。

 だが、健志の頭の片隅では、あの夜の川辺の光景がちらついていた。

 冷たい水、闇に沈む川底、そして、鉄筋を握りしめた自分の手。

 

(まさか、あの河童の話が、こんな形で広まってるなんて……)

 

 そんな会話をしているうちに、予鈴が鳴り始めた。教室の喧騒が少しずつ収まり、生徒たちがそれぞれの席に戻っていく。

 担任の先生が教室に入ってくると、桜華は「それじゃ、何か面白そうなことがあったら聞かせてね!」と言い残し、自分の席へと小走りで戻った。

 

 健志も秋山も席に着き、始業式の準備を始めた。教室の窓からは、校庭の緑が眩しく映り、遠くの山々が朝靄に霞んでいる。

 健志は窓の外をぼんやりと眺めながら、桜華の話した噂を反芻していた。

 

(川で、河童が、クマみたいな大男に……か)

 

 その話は、ただの噂にしては妙に具体的だった。健志自身、あの夜のことを誰にも話していない。

 なのに、なぜこんな噂が広まっているのか。誰かがあの場面を見ていたのか。それとも、ただの偶然か。考えれば考えるほど、頭がモヤモヤしてくる。

 

(バカバカしい。考えすぎだ。疲れてんだ、俺)

 

 担任の声が教室に響き、始業式の挨拶が始まった。

 健志はノートに落書きをしながら、話を聞き流した。秋山は隣の席で、こっそり携帯端末をいじっている。教室は、いつもの日常にすっかり戻っていた。

 

 始業式が終わり、午前中の授業が始まる。

 健志は数学の授業中、窓の外を眺めながら、ぼんやりと考え事をしていた。

 夏休みのバイトで鍛えられた体は、机に収まりきらないほど大きく感じられる。

 だが、その体も、今はただ重いだけだった。

 

(2学期か……またあの変なバイト、続けるのか?)

 

 そんなことを考えていると、秋山が小さな紙切れを投げてきた。開いてみると、(昼メシ、一緒に食おうぜ!)と走り書きされている。健志は小さく頷き、紙をポケットにしまった。

 

 昼休みになると、健志、秋山、桜華の三人は屋上で弁当を広げた。

 屋上のフェンス越しに見える町並みは、夏の終わりを静かに告げている。遠くの川が、陽光を受けてキラキラと輝いていた。

 

「なあ、桜華。さっきの河童の話、どこで聞いたんだ?」 

 

 健志が何気なく尋ねると、桜華は箸を止めて目を輝かせた。

 

「神社に来たおばちゃんたちから! 最近、川辺で変なことが多いんだって。夜中に妙な音がしたり、誰かが叫ぶ声がしたり……。で、通り魔の噂と混ざって、こんな話になったみたい!」

 

「ふーん、面白えな。氷川、夜中に川行ってみねえ? 河童捕まえようぜ!」

 

 秋山がニヤニヤしながら言うと、健志は即座に拒否した。

 

「バカ言え。俺は疲れてんだ。夜中に川なんか行ったら、逆に河童に引きずり込まれるわ」

 

「ハハ、ひーくんが河童に負けるわけないじゃん! だって、霊長類最強だもん!」

 

 桜華の無邪気な笑顔に、健志は苦笑するしかなかった。

 だが、心のどこかで、ほんの少しの好奇心が芽生えていた。

 川で何が起きているのか。

 クマみたいな大男とは、誰なのか。いや、まさか自分がその「大男」だなんて、誰も気づいていないはずだ。

 

 昼休みが終わり、午後の授業が始まる。健志は眠気と戦いながら、なんとか授業を乗り切った。放課後、秋山と桜華は部活や委員会の活動で忙しく、健志は一人で帰路についた。

 夕暮れの住宅街は、朝とはまた違った雰囲気だった。

 オレンジ色の陽光がアスファルトを染め、遠くで子供たちの笑い声が響く。

 健志は用水路沿いの道を歩きながら、ふと足を止めた。水面には、夕陽が映り込み、まるで別の世界を覗いているかのようだった。

 

(河童、か……)

 

 健志は小さく笑い、歩き出した。あの夜のことは、確かに現実だった。

 だが、今はそんな非日常よりも、日常の平和が愛おしく感じられた。秋山のバカ騒ぎ、桜華の無邪気な笑顔、教室の喧騒。

 それらが、健志を現実につなぎとめてくれる。

 

 アパートに帰り着くと、健志はベッドに倒れ込んだ。疲れた体を休めながら、彼は小さく呟いた。

 

「明日も、秋山に起こされるんだろうな……」

 

 窓の外では、夜がゆっくりと訪れていた。

 川のせせらぎが、遠くでかすかに響いている。丑三つ時になれば、また何かが蠢くかもしれない。

 だが、今の健志には、そんなことよりも、ただ眠ることの方が大事だった。

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