プロローグ
丑三つ時。草木が眠り、人の世が深い静寂に包まれる時刻。闇は濃く、星さえもその輝きを控えめに瞬く。閑静な住宅街の外れ、細い小川がささやかなせせらぎを響かせる。普段なら、この川はただの水路に過ぎない。
だが今、その水面下では、何かが必死に泳いでいた。
緑がかった体色、背中に硬い甲羅、頭頂部に水を湛えた皿——河童だ。
妖怪と呼ばれる存在でありながら、この夜、彼は異様なまでに焦っていた。
普段の彼は、人間をからかい、適当にちょっかいを出しては、ほんの少しの優越感に浸るのが常だった…だが今、彼の心は恐怖と混乱に支配されていた。
(ありえない! ありえない! ただの人間に、こんな目に遭わされるなんて!)
水をかき分け、川底の石を蹴りながら、河童は必死に逃げていた。
冷たい水が彼の体を包み、普段なら心地よいはずのその感触も、今はただの重荷に感じられた。
頭の皿に湛えた水が、揺れるたびにこぼれそうになり、彼の力を弱らせていく。
それでも、彼は泳ぎ続けた。泳がなければ、死が待っている——そんな確信が、彼を突き動かしていた。
事の始まりは、ほんの数時間前だった。
この住宅街の外れにある小さな橋の下で、河童はいつものように人間を待ち構えていた。
夜の闇に紛れ、人の足音を聞きつけ、軽い悪戯を仕掛ける。
それが彼の楽しみであり、存在意義のようなものだった。人間は弱い…人間は愚かだ。
ちょっとした妖術や力で簡単に怯え、逃げ出す。
だからこそ、河童は彼らを弄ぶことに喜びを見出していた。
今夜も同じだった。橋の上を通る人間の気配を感じ、彼は水面下で身を潜めた。足音は重く、ゆっくりと近づいてくる。
普段なら、こんな遅い時間に歩く人間は酔っ払いや疲れ切ったサラリーマンくらいだ。どちらも簡単な標的だ。だが、今夜の足音には、どこか異様な迫力があった。
(ふん、なんだか面白そうな奴だな。いつもより少し手応えのある相手と遊んでやるか)
河童は水面に顔を出し、橋の上を見上げた。
そこに立っていたのは、予想を遥かに超える大男だった。筋肉が服の上からでも分かるほど隆々と盛り上がり、顔には無表情とも取れる重い影が宿っていた。
普通なら、ここで河童は引き下がったかもしれない。だが、今夜の彼は少し調子に乗っていた。
いつもと同じように、簡単に人間を翻弄できると信じていた。
「へっ、でかいだけでどうせ鈍重な奴だ。ちょっと驚かせて、泣き叫ぶ顔を見てやる!」
そう呟き、彼は水から飛び出した。鋭い爪を振り上げ、大男の足元に絡みつくように仕掛けた。いつもなら、ここで人間は悲鳴を上げ、転倒し、逃げ惑う。だが、今回は違った。
次の瞬間、河童の腹に重い衝撃が走った。まるで鉄の塊で殴られたかのような痛み。息が詰まり、視界が揺れた。
大男の拳が、正確無比に河童の腹に食い込んでいた。
「ぐっ……!?」
河童は地面に叩きつけられ、這うようにして後ずさった。痛みよりも、驚愕が彼の心を支配していた。
人間が、こんな力を? こんな速さで? 信じられなかった。いつもなら、彼の素早さは人間を圧倒する。
だが、今、彼の動きは大男の前ではまるで子供の遊びのようだった。
「な、なんだ、こいつ……!」
大男は無言だった。ただ、冷たく光る目で河童を見下ろし、ゆっくりと拳を構えた。
その姿に、河童は初めて恐怖を感じた。人間ではない。何か別の、得体の知れないものがそこにいるような錯覚すら覚えた。
次の攻撃が来る前に、河童は必死に動いた。地面を蹴り、近くの茂みに飛び込む。だが、大男の動きは予想以上に速かった。茂みが裂ける音とともに、巨大な手が河童の首筋を掴もうと迫る。辛うじてかわし、彼は這うようにして逃げ出した。
(逃げろ! 逃げなきゃ、死ぬ!)
どれだけ走っただろう。息が上がり、頭の皿の水が半分以上こぼれていた。力は弱まり、視界はぼやけていた。それでも、河童は走り続けた。そして、ようやく見つけた——自分にとっての聖域、小川だ。
彼は迷わず川に飛び込んだ。冷たい水が体を包み、ほんの一瞬だけ安堵が胸をよぎった。
川は河童の領分だ。ここなら、どんな人間も追ってこれない。泳ぎの速さ、潜水の技術——これらは人間が到底及ばない領域だ。少なくとも、そう信じていた。
水底に身を沈め、彼はようやく息をついた。心臓はまだ激しく鼓動し、腹の痛みは引かない。だが、ここなら安全だ。少し落ち着いて、状況を整理しよう。そう自分に言い聞かせ、彼は水面を見上げた。
(そうだ、さっきのは不意を突かれただけだ。人間なんかに、本来なら負けるはずがない。まずは態勢を整えて、それから……)
その時だった。
――ズガン!!
凄まじい音が川底を揺らし、河童の思考を寸断した。頭を掠めるようにして、何かが水をかき分け、川底に突き刺さった。鉄筋だった。どこからか手に入れた、錆びた鉄の棒が、まるで槍のように川底に突き立っていた。
「な……!?」
河童の心臓が再び恐怖に締め付けられた。鉄筋が刺さった方向を見ると、水面の向こうに巨大な影が揺れていた。大男だ。あの男が、川まで追ってきたのだ。
(そんなバカな! 人間が、こんな速さで!?)
水面を突き破り、大男が川に飛び込んでくるのが見えた。筋肉質な体が水をかき分け、まるで獣のような勢いで河童に迫ってくる。
その目には、冷たく、しかしどこか楽しげな光が宿っていた。まるで、狩りを楽しむ猛獣のように。
河童は必死に泳いだ。川の流れに乗り、岩の間をすり抜け、全力で逃げ続けた。だが、大男の追跡は止まらない。水をかき分ける音が、すぐ背後で響く。距離が縮まっていくのが、肌で感じられた。
(どうしてだ! どうしてこんな目に! 俺はただ、いつものように遊んでいただけなのに!)
恐怖と悔しさが、河童の心を支配していた。彼は妖怪だ。人間より優れた存在のはずだ。
それなのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか。なぜ、こんな人間に追い詰められなければならないのか。
だが、考える暇はなかった。大男の手が、すぐそこまで迫っていた。河童は最後の力を振り絞り、川の浅瀬に飛び出した。陸に上がれば、さすがに追ってくるのは難しいはずだ。そう信じて、彼は水から這い上がった。
だが、その瞬間だった。
大男が、信じられない速さで河童の背後に迫り、巨大な拳を振り上げていた。河童が振り返った瞬間、顔面に衝撃が走った。骨が軋む音、肉が潰れる感触。視界が真っ白になり、意識が遠のいていく。
(ああ……これが、終わりか……)
最後に、河童の頭に浮かんだのは、ほんの一瞬の後悔だった。なぜ、あの大男に手を出してしまったのか。なぜ、いつも通りの弱い人間を選ばなかったのか。
そして、意識は闇に飲み込まれた。
丑三つ時の小川は、再び静寂に包まれた。水面は穏やかに揺れ、まるで何事もなかったかのように星の光を映している。大男は、倒れた河童を一瞥すると、無言で立ち去った。
その足音は、夜の闇に溶け込むように遠ざかっていった。
夜が明ける頃、住宅街の人々はいつもの朝を迎えるだろう
。誰も、この川で起きた出来事を知ることはない。ただ、どこかで、誰かが囁くかもしれない。
「最近、橋の下で変な音がするんだよな……」