「感情でできた通貨」──情動資本主義を生きる私たちへ
惑星迷子で広告の話を考えた時のメモを、またコラム的にまとめて見たもの。
7/5に向けてちょうど良さそうだったので。
不安な人おる?って話。
今読んだ人は、タイムリーだし、
未来に読んだ人は思考のタイムマシンの疑似体験。
第1章 「いいね」から始まる貨幣経済
朝起きて、スマホを開く。タイムラインには誰かの怒り、誰かの涙、誰かの笑顔が流れている。
どれも「感情」だ。
しかし、そこに込められた思いの深さではなく、「どれだけ拡散されたか」で価値が決まる。
感情はコンテンツになった。
もっと言えば、感情は「通貨」になった。
わかりやすいのは「悲しい」「嬉しい」「ムカつく」──この三語が、人の視線を集め、広告主の財布を開かせる。つまりこうだ
感情 → 数値 → 可視化された注目 → 広告収入 → 誰かの利益
あなたの怒りが誰かの儲けになっている。
あなたの涙が、誰かのキャンペーン成果になる。
気づかないうちに、感情の換金は完了している。
第2章 アルゴリズムは感情の温度で動く
「拡散される感情」には、法則がある。
それは、人間が発散したがる感情ほど、広告価値が高いということだ。
怒り、恐怖、驚き、スカッとする話。つまり、人の心を瞬間的に動かすもの。
これらは「反応率」が高く、AIはそれを記録し、優先的に拡散する。
広告はそれに寄生する。まるで、怒りの血を吸って増殖する蚊のように。
逆に「静かな幸せ」「なんとなく憂鬱」「説明できない違和感」は、数字になりにくい。反応されにくい。
つまり、換金されない。タイムラインの底に沈んでいく。
アルゴリズムは、熱量の高い感情を上へ、低い感情を下へ送る。機械が感情の価値を仕分けし、そこに広告主が札束を投げ入れる。まるで感情の株式市場だ。
第3章 あなたの怒りは、どこへ行くのか?
あなたが怒ったとする。何か理不尽なニュースを見た。腹が立ち、拡散したくなった。
引用リポスト、リプライ、引用リポストのリプライ。どんどん燃え上がる。
その瞬間、あなたの感情は、発散されていない。むしろ、保存され、利用され、誰かの財布の中にきちんと記録される。
あなたがスッキリする前に、広告料が発生するのだ。
発散されない怒りは、見えないパイプラインを通って、誰かの口座に吸い込まれていく。
そしてあなたは、感情を搾取されたまま、「ちょっと疲れた」とスマホを閉じる。
満たされないまま。けれど数字は残っている。
広告主にとっては、それで十分なのだ。
第4章 個人が「感情投資家」になる時代
この流れに気づいた一部の人は、むしろ積極的に感情を「設計」するようになった。
炎上しやすい投稿を作り、感動ポエムで共感を集め、笑えるネタでバズを狙う。
言葉を磨き、表情を整え、感情を商品化する。それでフォロワーが増えれば、企業案件が来る。
感情を演じる → 数値化される → 信頼になる → マネタイズ
もはや、現代のインフルエンサーは「感情のプロデューサー」だ。
彼らは知っている。怒るべき話題、泣くべき背景、笑えるタイミング。
それらはすべて、「感情でお金を稼ぐ技術」だ。
第5章 感情に値段をつけない生き方は、まだ可能か
すべての感情が貨幣に変わるわけではない。変えないこともできる。
たとえば、何も発信せずに一人で笑う。何も撮らずに泣く。誰にも言わずに怒る。誰かのためでなく、自分のために感情を感じること。
それは何の収益にもならないが、確かに「生きている」という感覚になる。
いま、もっとも贅沢な行為とは──
「貨幣化されない感情を抱くこと」かもしれない。
SNSを離れ、感情に値段をつけない時間を持つ。
それは現代において、ひとつの抵抗であり、静かな自由なのだ。
第6章 情動資本主義の向こうへ(終章)
私たちの社会は、いつのまにか「感情で回る経済圏」に移行していた。
情報資本主義はすでに終わりつつある。
次に来るのは、「情動資本主義」──感情が主要な取引対象となる世界だ。
感情が数値化され、投資され、収益化される。私たちはそれを、面白がりながら、自覚なく受け入れてきた。
だがここで一つ、立ち止まって考える必要がある。
「感情が金になる社会」は、果たして豊かな社会なのだろうか?
感情を売る人、感情で稼ぐ人、感情を利用する人。そこに本当のつながりはあるのか?
共感のフリをしてクリックさせるだけの投稿、怒りを煽るだけの構図、泣かせるだけの動画。
それらは、私たちの心を耕すどころか、疲弊させ、消耗させてはいないだろうか。
もしも未来の教科書に、今の時代がこう書かれていたら──
「21世紀初頭、人々は感情を切り売りして暮らしていた」
──あなたはどう思うだろうか?
誰かの「いいね」のためではなく、自分の実感で生きること。
数値化されない感情を、誇りとともに抱えること。
それが、この情動資本主義の時代を生き抜くための、小さくて確かな反抗なのだと思う。
1999年、人類は滅びなかった。
けれど……もしあの予言が「世界の外側」ではなく「内側の崩壊」を指していたとしたら──
いまの私たちの社会は、少しだけノストラダムスに近い顔をしているかもしれない。




