感情の免罪符と創作文化の現在地
以下の文章は【惑星迷子】のネタを考える時にメモしていたことを、
コラム的に文章にまとめたものです。
──推しと感情でつながる世界の歪み──
●第一章:誰がやったかが、すべてになる時代
近年、創作をめぐる評価や倫理観に大きな変化が起きている。
「どんなネタを使ったか」ではなく、「誰がやったか」が重要視される傾向が強まりつつある。
「好きな人がやってくれたから嬉しい」
「推しが演じてくれたから正義」
そういった感情そのものが、作品や行為の正当性を担保する“免罪符”として機能している。
かつては「好きなキャラがパロディしてくれればOK」というライトな共犯感が中心だったが、
今では「誰でも“許される演者”になれる」ほど、感情の力が肥大化している。
●第二章:感情が倫理を上書きする
感情が免罪符として機能する背景には、感情が倫理を上書きしてしまう構造がある。
「愛があるからいいでしょ」
「気持ちがこもってるから許して」
「本気で推してるから問題ない」
こうした言説の裏には、「好き」という感情があれば、どんな模倣や引用も正当化されるという前提がある。
さらに、その感情が共有されない相手には、「愛がない」「わかってくれない」「敵だ」とレッテルを貼ってしまう。
結果として、「同じ感情を持つ者だけが正しく、違う感情を持つ者は排除される」という、静かな断絶が生まれてしまう。
●第三章:感情は“湧く”ものから“名付ける”ものへ
もうひとつ注目すべきは、現代の感情の扱われ方が変質している点だ。
感情が「自然に湧き出るもの」というより、「自分で名付けて持ち帰るもの」になっている。
SNSは本来、明示的に感情を表現する場ではない。
いいね、リツイート、絵文字などの反応は、必ずしも感情そのものではない。
それでも人は、そこに感情を見出し、さらに自分自身にも「感情があったことにする」。
たとえば、そこまで心が動いていないのに「泣ける」「尊い」と書く。
「これはしんどい」と投稿しながら、実はその言葉に自分の感情を合わせていく。
実感よりも、「感じた自分」を演出することが先に来る。
これは心理学でいう「ラベリング効果」ともつながっているような気がする。
実際に感情があったかどうかではなく、「感情があったことにする」という自己暗示が感情の中心になっている。
●第四章:推しの沈黙が「裏切り」に見えるとき
この構造が行き着く先にあるのが、「代理怒り」の現象だ。
たとえば、「推しが怒っていないこと」に対して、自分が代わりに怒るという状況である。
自分が名付けた感情ラベリングが正義となり、
推し本人が穏やかでいることさえ「間違っている」と感じてしまう。
そして「私が代わりに怒ってあげなきゃ」という勘違いの使命感が生まれる。
このとき、本人の気持ちや感情は二の次になっており、
共感した側の感情が、すでに上位に置かれている。
これは、感情が“私物化”されている状態だといえる。
●最終章:異なる感情と共にある文化へ
感情によって行動が免罪され、共感によって他人が選別される今の文化は、
一見すると優しさや愛に満ちた世界に見えるかもしれない。
だがその裏には、異なる感情を許さない不寛容と、
創作への敬意の希薄化という構造的なゆがみが潜んでいる。
本当に守るべきなのは、「同じ感情を共有すること」ではない。
異なる感情を持つ他者と共存できる知性と想像力こそが、
これからの創作文化を支える鍵なのではないだろうか。
惑星迷子も続きを書いていますが、
だんだんネタが短編のほうが効きそうなものばかりが思いつき、ネタだけが溜まってる状態です
このネタは、卓也が調子に乗ってる裏で、ファンが個々で暴れて大きな事件になるという話を考えてる時に、どう感情を動かそうかなとメモしていたものです。




