はねむしのひめさま(reprise)
ぼくらの乗っていた旅客機は、知らない国の山奥深くに墜落した。
最後に観たのは一面の炎。
こわれた機体を照らす橙色の光。
死ぬんだな。せめて痛くないといいな。
はやく気絶するか即死したいな、と思いながら目を閉じた。
*
……あれからどれくらい経っただろう。
ぼくはまだ生きている。いや、生かされている、というべきかな。
目が覚めたら、平らな石でできた祭壇のような、寝台のような場所に仰向けに寝かされていた。五体満足で痛む箇所はなかったけれど、動けない。どうにか頭を動かして下半身を見ると、体中に何かがぐるぐると巻きついている。
無数の植物。つるくさのようだ。
一本一本はただの細い茎に見えるのだけれど、とにかく数が多い。小さな葉がついていて、ところどころに赤い花も咲いている。道端で見かけたら「可愛らしい」とすら思ったかもしれないつるくさに、ぼくは雁字搦めに縛られていた。
深い、とても深い森の奥。
昼もうす暗いほどに蒼く茂った樹々。湿って苔むした地面。羊歯の群生。見える範囲にぼく以外の人間はいない。どこかにある筈の、墜落した旅客機の機体も見当たらない。
生存者はぼくだけなのか、それとも、ほかの場所に同じように生かされているのかはわからない。
時折、虫のような、鳥のような、翅の生えた小さないきものが飛んできて、ぼくの口をこじ開けて何かを垂らす。とても甘い、糖蜜のような味。食餌のつもりらしい。空腹や喉の渇きを感じることはないから、おそらく十分に足りているのだろう。
下半身はおそらく垂れ流しなのだと思うけれど、匂いや不快感は特にない。たまに何かざわざわとした感触が、背中や臀部のあたりを這い回ることがある。何かちいさないきものが排泄物を食べているのかもしれない。
不思議と気持ち悪くはない。というか、この状態になってから、激しい感情に駆られることがない。逃げたいとか、戻りたいとか、誰かに会いたいとか……そういった気持ちに靄がかかっている感じがする。ぼくは本来ならどんなふうに行動する人間だったんだろう。家族や恋人っていたんだっけ? あまり思い出せない。
濃密な空気。甘いような青いような香り。どこか遠くで何かが啼いている。甲高い音。小さな音。葉擦れ。かすかな風。淡い光と闇。
おだやかな、おだやかな日々。
*
時折、特別な夜が来る。
とっくに陽が沈んだというのに、妙に明るくて、森の底がほんのり黄色っぽい青色に照らされる夜。
そんな時に、あのひとが来る。
いつも森の中を好き勝手に飛び回っている小動物たちが、不意に緊張したようすで気配をひそめる。下草までもが、かしずくように道を作る。
森の奥のもっと奥、ぼくの知らないどこかから、ぼくのところにやってくる。
ヒトのような白い肌。長い手足。わずかに蠢く髪。
大きな複眼はふたつ。長い触覚。背後におおきく広がる翅は、光の加減であらゆる色と模様にみえる。
それは多分、この森の主だ。
七色の翅の揚羽。奥底の姫君。
姫君がぼくに近づくと、本能的に首を垂れたくなるのだけれど、仰向けのまま動くことができない。もどかしくてもぞもぞしてしまうぼくを踏みつけるように乗っかってくる。金属質の複眼でぼくの顔を覗き込んで、そして……。
とても気持ちのいいことがはじまる。
姫君のからだから細い管が伸びて、ぼくの腹や首や脇に刺さる。何か麻薬みたいなあたたかいものがぼくに注ぎ込まれる。そうしたら目の前に虹のようなきらめく景色が広がる。みたことないほど綺麗な景色。姫君はぼくを抱きしめて、ぼくはそれに応えられなくて、またもどかしさを抑えられなくなる。そのうち、ぼくに麻薬を注ぎ込んでいた細い管が、こんどはぼくの中から「何か」を吸い出しはじめる。ぼくの身体の一部……それとも意識の一部? 何かがぼくから欠けていく。その喪失はあまりにも気持ちがよくて、ぼくは何もかもどうでもよくなって、姫君にすべてをゆだねてしまう。
周囲の小さないきものたちが、音楽のようにリズミカルな音を立てる。その音色が楽しげだから、ぼくはさらに気分がよくなる。
夜が、更ける。
*
翌朝、朦朧としているぼくの口に、小さないきものたちが糖蜜を与えに来る。
どうやら特別な栄養素が含まれているようで、これを口にするとぼくはみるみる元気を取り戻してしまう。こうやってまた、力を蓄えて、次の特別な夜に備えるのだ。
たまに、ここに来る前の出来事を思い出そうとするけれど、どんどん思い出せなくなっているような気がする。何をどれだけ思い出せなくなっているのかも思い出せない。多分、姫君がぼくから吸い出している「何か」に、そういったものも含まれているんじゃないのかなって気がする。
もうあまり上手に思考をまとめられないのだけど。そのうち全部吸い出されて、空っぽになったら、多分ぼくは棄てられるんだろうな、というのはわかる。
ぜんぶわかって、それでもやっぱり、逃げようとか死のうとかは思わない。
だってここではすっかり満たされている。じゅうぶんな食べ物があって、大事な役割があって、たっぷりの報酬ももらっているんだもの。
もしかして、この森の奥の、麻痺するような甘い大気の外だったら、違うことを思っていたのかもしれないけれど……でも、ぼくは森にいる。森で得られる幸福をすべて与えられているから、あまりに満たされてしまったいる。
森の外のできごとを忘れるたびに、さらに幸福になれる。
それなら忘れたらいいんじゃないかな。
石の褥で、つるくさに絡まれて、ぼくは空を見上げる。
早く、あの夜がまた訪れないかなあと、幸福な夢をみながら生かされている。