第一〇話 熱狂の槍
私の名は旗島真である、しばらく休んでいた日記を再開することにした。
一九三三年(昭和八年)私がドイツから帰国して十三年が経過した。世界大戦を契機に日本では様々な事が起きている。
大戦が始まると、日本軍は日英同盟を利用して強引に出兵。ドイツに最後通牒を出して回答が無いと見るや山東半島に上陸し青島要塞を陥落する。さらにドイツ領だった太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリン諸島までも占領したのだ。
列強が欧州戦争に手を焼いている間、日本軍は中国本土へ着々と進出、中国政府に二十一か条要求を突き付けて満州、蒙古の権益の延長と拡大を図る。また、社会主義を掲げるソビエト政権を牽制する為、連合国の要請でシベリアにも出兵した。
大正時代の始め、日本経済は戦争特需で空前の好景気となった。
世界大戦の終了後、戦争や軍事的な事件は起こらず世間には反戦ムードが漂っていた。またワシントン会議によって世界規模で軍縮が行われ、日本の海軍、陸軍も軍縮を余儀なくされた。さらに戦争景気の反動で深刻な不景気と関東大震災の影響もあり軍人は大幅に削減される。この時の軍人たちは日清、日露そして世界大戦にも勝利した日本は国際連盟に加盟しアメリカ、イギリス、フランス、イタリアと並ぶ五大強国の一つとなったのにも拘わらず反戦を叫ぶ世間の人たちからはその後、全く評価されず屈辱感のみが残る。この時、ドイツが戦争に負けたのはドイツ革命を引き起こした不届きな国民がいたせいだと考える軍人がいた。『これからの戦争は国民も巻き込んだ総力戦にして愛国心と忠誠心を叩き込む』などど考えたのだろう。
立憲君主制の元、政治は大正デモクラシーの影響で政党政治に移行し普通選挙法と治安維持法が同時に可決された後、昭和の時代がやって来た。
政府は満蒙問題解決の為、山東に出兵。関東軍は張作霖を暗殺、ニューヨークウオール街の暴落で大恐慌と続き、日本にも波及して昭和恐慌となる。アメリカ、イギリス、フランスなどは植民地を囲い込むブロック経済を採るが、日本とドイツは深刻な経済不況に陥った。そんな時、関東軍の行動で柳条湖事件を契機に満州事変が勃発したのである。
私はこの事件を新聞で知る、そこには『満蒙生命線論』の社説が躍っていた。記事の内容は満州への侵攻を煽り立てるものだった。事件直後に『日本は滅亡の道を歩むであろう』と軍部に批判的だった新聞も何故か『満州緩衝国論』と論調が変化した。その後新聞各社は新しくできた媒体のラジオ放送に負けまいと、現地取材で軍が活躍する様子を速報で伝える。正に読者へ向けた熱狂の槍が降り始めたのである。軍の独断で満州国が建国され、国際連盟を脱退した時も新聞は拍手喝采を送っていた。
日本は今、国全体が自国の国益しか考えない国となっていく。
世界大戦による戦時バブルの崩壊によって不況となった昭和恐慌の影響で、輸出に頼っていた父の會社が倒産した。私は自分の技術を生かす為、東京にある帝都レコード會社へ就職し、録音技術部へ配属された。
帝都レコード會社は都心に五階建てのビルを持っている。一階の総務部で入社の手続きを済ませた後、三階にある録音技術部の柳田部長を訪ねるように言われた。
私は階段を上り【録音技術部】と書いてある立て札のドアを開けて中に入ると、こじんまりした部屋の窓際に一つ、大きな机が置いてある。その向かえには事務机が四つくっついて並び、事務机の横には作業机が二つ置かれていた。柳田部長はこの部屋の窓際の机で一人だけで仕事をしていた。
「柳田部長、新しくこの録音技術部に配属しました旗島真です。どうぞよろしくお願いします。」
私は総務部長から渡された書類を差し出した。
「おお、君が旗島君か、話は総務部長から聞いてるよ。今日は部員が皆出はらってるんだ。確か、君はドイツに留学してたんだってね」
「もう十年以上も前の話です、世界大戦が起きた時ですから」
「あの悲惨な戦争中に留学してたのか、それは大変だっただろう」
「色々と無惨な話がありました」
「早速だが、このニュース映画の録音の仕事を手伝ってくれ」
「ニュース映画ってどのようなものですか」
「新聞社からの依頼で作るんだ。関東大震災で在京の新聞社は凋落したが、大阪に本社がある新聞社は東京に進出してきて最近景気が良いそうだ。どうやら満洲事変が起こって軍の記事を書くようになってから、発行部数が伸びているらしい」
「軍の宣伝に利用されてるんじゃないですか?」
「読者の獲得競争で受けのいい記事を書いてしまうんじゃないかな」
「新聞ってそういう媒体なんですか」
「とにかくこの仕事の準備をしてくれ、君の机はそこだ」
私は柳田部長から資料と十六㎜フィルムを渡され、部長の目の前にある机に鞄を置き、椅子に座って資料を見る。その資料の表紙には[ニュース映画・満州事変]と書いてある。その中にはコマの写真と台詞が書いてあった。
「午後になってアナウンサーが来たら、映写室で台詞を録音する。それまでの間あそこのフィルム編集機で映像を見ておいてくれ」
「分かりました」
作業机の上に置いてあるフィルム編集機は、糸紬の糸車の様な大きなリールを左右に抱える指示具がある。そのリールには手回しハンドルが付いていた。中央にはフィルムを切断する機構を備える蓋の付いた箱と、フィルムを下からの光源でのコマを映し出す、すりガラスを嵌めた窓があった。
私は左のリールをニュース映画のリールと交換して十六㎜フィルムを引っ張りながらフィルム淵の穴を歯車に引っ掛けた。さらに切断部と映像部にフィルムを通し右のリールの根元に巻き付けて、右のリールハンドルを回す。カタカタと音を出しながら、すりガラスに映るコマ送り映像を確認した。
その映像の内容は【満州事変】のタイトル文字の後、いきなり野戦中の日本兵が、三人がかりで大砲をぶっ放すところから始まる。その後短剣を付けた銃を持った五、六人の兵士が勇ましく突撃していく様子が映し出される。サイレントなのに兵士の雄たけびが聞こえてくるような至近距離の映像だ。画面が切り替わると今度はアーチ状の門から兵士が銃を構えて十数人が走って出てくる。この映像もカメラの直ぐ脇を兵士が通り過ぎて行く様子が映っている。最後に日の丸の旗と連隊の名前を書いた大きな垂れ幕と横一列に並ぶ兵士たちが銃や旗を振り、万歳をする様子が映し出されていた。
「部長、この映像はかなり近距離から撮影されていますね、やっぱり軍の宣伝映画じゃないですか」
「確かに、しかしこの日本軍の活躍する姿が国民に受けるんだよ。だから新聞各社は軍のえらい人たちにすり寄って、絵になる写真や映像を撮る事に夢中なんだ」
「何か軍部と新聞社が作り上げたものを見ていくうちに、国民がだんだん巨大な渦の中に引き込まれてしまうような気がします。いや、自ら進んで飛び込んで行くようになる気がします。このままでは戦争が始まりますよ」
「世界情勢を俯瞰して見るという政治家や有識者はいないのかね」
「やっぱり満蒙の巨大な利益を目論んでいる人が多いんじゃないですか、指導者たちも軍の行動を見て見ぬふりをするとか」
「君は中々鋭い考察をするね」
「世界大戦が始まる時のドイツを知ってますから、しかし全く状況が違いますね、あの時のドイツは皇帝専制政治ですから軍の行動は皇帝がしっかり掌握していました」
「このまま戦争が始まったら、誰が誘導しているのか分からなくなる」