第四話 広場の空
モスコーからワルシャワを経由してベルリンへは、再びシベリア鉄道に乗るんだ、二日間の工程なんですよ。
途中で停車する波蘭土の首都ワルシャワは作曲家ショパンの故郷だよ。出窓の着いた赤橙色の屋根が見え、細長い四、五階建ての集合住宅の壁が、白、薄緑、黄色、薄茶色や桃色などに塗装して隣合わせにくっついている。その色調の強弱が欧州の街並みの魅力なんだ。
ここで諸君らに音楽を聞かせてあげよう。僕の鞄の中からハーモニカを出してショパンの [英雄ポロネーズ] の一節を吹くよ。
ぷ~ぷぷ、ぷぷぷぷぷぷぷ~、 ぷぷぷぷぷぷ ぷっぷっぷっぷっぷ~。
「Прекрати《プリクラティ》 это《エト》!」近くにいた露西亜人が何か怒ってるぞ~?
露西亜人は僕の胸ぐらを掴む、助けてくれ~。――ボコボコ。
「どうしたんだよ?」
知りたいですか? 問題出して欲しいですか?
仕方ない、では問題出しますよ。どうして露西亜人は僕を殴ったのかな? 今日は単純に二択です。
其の一、喧しかったから。
其の二、曲が嫌いだから。
「其の一じゃねぇ?」
残念! 彼は波蘭土から仏蘭西へ亡命したショパンが大嫌いだったんですよ……あ~痛い、痛いなぁ、もう。隣にいた独逸人が教えてくれたんです。え、僕は独逸語を勉強してきたんですよ、日本にいる時に。
ワルシャワでは波蘭土人も露西亜人に虐められているのかな?
列車は再び動き出して、そこから牛たちが放牧されるのどかな田園風景と緑の多い森や小さな村々を経て、だんだんと産業都市の中枢に近づいて行く。
窓の外の景色に釘付けになっているうちに、列車は巨大な半球状の丸屋根の中に入った。ベルリン中央駅に着いたぞ、僕は踊る気持ちを抑えて革の鞄を持ち、停車場に降り立つ。真っ黒な鉄の機関車の煙突から出る煙と銀色に光る大きな車輪の間から漏れてくる蒸気の中、丸天井の天窓から差し込む光に包まれる……見る物全てが眩しいなあ。
やっと目的地の国、独逸に着いたんだ。だが、ここはまだ終着地ではない。次に乗る列車の出発時刻までの間、ポツダム広場を見に行こうと思うんだけどどうですかね?
「好きにすれば」
革の鞄は重たいから荷物預かり処へ預けました。
駅舎を出るとビックリ! 駅前の大きな通りに何本もの線路が敷設され、二両連結で走る路面電車が走り回ってる。その電車の脇を、すれすれに車や馬車がすり抜けて行く。大通りには両脇に街路樹が一列に並びその奥に真新しい現代的な集合住宅が隙間なく建てられている。えらい勢いで建物を建てているみたいですよ、大都市ベルリンの人口は世界第三位になって三百万人近く住んでいるんだから。
ここ独逸は今ヴィルヘルム二世の皇帝専制政治の中、若者は全く戦争を経験した事が無いんだって、街のあちらこちらで笑い声が聞こえる。珈琲店の前に張り出た、でっかい日避けの洋傘の下に丸い机。若い男女が椅子をくっ付けて楽しそうに話をしている。
ポツダム広場に行く途中ブランデンブルク門がある。巴里広場の真ん中に横に並ぶ六本の支柱に支えられた威厳のある巨大な石の上。四頭馬車に乗る女神ヴィクトリアが鉄十字紋章の杖を持っている。この門は元々平和の象徴として作られたのだが、完成したと思った途端、皇帝ナポレオンがやって来て女神像をかっさらってしまったのだ。これを奪い返したのが独逸のプロイセン軍で、この時女神に鉄十字紋章の杖を持たせた。その時からこの門は、平和の象徴から戦勝の象徴に変わってしまったのだ。鉄十字、恰好いいのかな? 少し怖いのかな?
やっとポツダム広場に着きました。
五階建ての格調高い窓を備えるホテルや近代的な集合住宅が並ぶ交差点だ。
ここは線路の敷設数がものすごい、広い道路の交差点にあっちからもこっちからも路面電車が行き交って、車も馬車も入り乱れ、列をなして走っている。交差点の真ん中に立つ警察官の交通整理に従って整然と交通が流れているのは、真面目な独逸人の気質なのだろう。この場所に最初の地下鉄が作られた訳が判る、ここはベルリンの交通要衝なのだから。
地下鉄の駅構内は夏でもひんやりする。黄色く塗装された三両編成の電車は、箱型の現代的な車両だ。電車の屋根に集電装置も無いので天井は低い。運行の邪魔をする物が無いので地下鉄は大人数の乗客を輸送出来るんだ。地上にも高架式の線路の上を電車が走っている。ベルリンの都市計画は第二次産業革命による人口増加と共に着々と進行中なのだ。
唯、少し気になる事がある。ここで放屁したらかなりの人達に気付かれるかな? 僕はおならを我慢した。「あんた、えらいよ」
そろそろ中央駅に戻らないと次の列車に間に合わない、僕は懐中時計の時刻を確認して地上に出た。また、巴里広場を通って駅に戻ろう。
巴里広場は実に和やかな場所だ、自転車に乗る人、犬を連れて散歩する人、競技襯衣を着て走っている人、木陰で堂々と接吻をする恋人たち……羨ましいなあ。
向こうから夫婦が赤ちゃんを乳母車に乗せ、ゴム風船を持った小さい女の子を連れて歩いて来る。
小さい女の子が僕とすれ違おうとした時、彼女は僕を睨みつけたぞ、東洋人を見るのが珍しいからなの? すると、彼女が持っていたゴム風船が手から離れてしまった!
ゴム風船はゆらゆらと飛んで行き、彼女は泣き出してしまった。だが、ゴム風船は瓦斯灯に引っ掛かったんだ。ここは日本男児として取りに行くしかないだろう。
僕は直ぐさま、瓦斯灯によじ登る。――や、やば~い!
「どうしたのさ?」
瓦斯灯の胴体に釘のような出っ張りがあって、そこに洋袴の帯革が引っ掛かったと思ったら、洋袴が脱げたんですよ。
ワハハハ ヒーヒー ゲラゲラ ヒューヒュー。
皆、僕の褌を見て笑っているではないか……恥ずかしい!
僕はずり落ちた洋袴を戻し、気を取り直してゴム風船を回収して小さい女の子に渡しました。
パチパチパチパチ パチパチパチパチ。
おや? さっき笑っていた人達が皆拍手をしてる?
――チュッ!
小さい女の子が僕のほっぺたに口づけしたんだ。
ベルリンは良い所です、好きになりました。
それでは、今日は気分がいいので諸君らの質問に真面目に答えよう。
「目的地はどこ?」 独逸の中央にあるダルムシュタットだよ。
「何をするの?」 ダルムシュタット工科大学で電気の勉強をするんだ。
「よくそんな金があるな」 僕のお父上様は和紙製造技術を用いて電気部品の紙コンデンサを作る會社を設立したんだ。會社の社長だよ。
それでは諸君、ダルムシュタットでお会いしましょう。
「Schönen Tag noch」良い一日を!