-5 『教養は大事』
学園の授業は私でも十分ついていけるような内容だった。国語や数学、それに歴史まで。家庭教師にしっかりと教えられていた地盤があったおかげで、最初の授業から問題なく溶け込めた。
その家庭教師が執事のアルなのだが、悔しいが彼の指導は完璧だったわけだ。
それをもし彼に言えばたちまち「お嬢様のためになれてなによりでございます!」とうるさく飛びついてくるだろうと思い、感謝は胸の内だけで秘めておくことにした。
「……うーん」
私はともかく、フェロはどうやら勉強があまり得意ではないらしい。教鞭に立つ先生の話を聞きながら板書をしては、困った風に度々うねっていた。
今は生物学の授業だが、年老いた女性教諭が野獣の写真を拡大して見せながら解説をしている最中も、泡を吹きそうな顔で必死だった。
「グランアイン。この四つ足の獣の名前は?」
女性教諭が黒板に張られた獣の写真を見せ、最前列のイケメン貴族――ライゼに尋ねる。
ライゼは立ち上がり、「北の渓谷に多く見られるランドポルクスです」と雄弁に答えた。
「正解よ。よくわかっているわね」
「ありがとうございます」
涼しい顔でまた座ったライゼに、教室中から賞賛の声があがっていた。
「さすがライゼだな」
「ライゼ様は博識ね」
そんな身の詰まっているのかもわからないような言葉が飛び交う。
「じゃあ次はグランドライ。この野獣の名前を答えなさい」
「ひゃ、ひゃいっ!」
別の写真を持ち出した女性教諭に名指しされ、フェロは素っ頓狂な声を上げて立ち上がった。
「あ、あの……」
「なんですか」
「その……わかりません」
声を詰まらせながらも細々と答えたフェロに、女性教諭は深くため息をついて呆れていた。
「これは先日も言ったばかりですよ。いい加減に覚えなさい」
「ご、ごめんなさい」
叱られ顔をしぼませて座るフェロに、前方の席の生徒たちはくすくすと笑い声を漏らしていた。私にこの教室のルールをわざわざ教えてくれた緑髪の生徒もだ。
ライゼの時とまるで反応が違う。これが地位の差か。
まったくこちらを向く素振りすら見せず真面目に前を見ているライゼ以外、ここぞとばかりにこぞってフェロを笑っていた。
気にくわない。
私のフェロを笑い物にするなんて。
「それではアンベリー。貴女が答えてみてちょうだい」
ふと私に振られる。
フェロを笑っていた生徒たちの視線が、新しい獲物を見つけたかのように集まってくる。
期待しているのだろう。今度は私を笑うのを。
落ちこぼれの婚約者に解けるのか、なんて思っている言葉が彼らの顔から漏れ聞こえてくる。
けれど残念。
溺愛執事のおかげでその野獣の名前を私は知っていた。
グリーズだ。
やや毛深い熊のような生き物である。
そもそも私の住んでいたプルネイの周辺の森でもたまに見かけるくらいだ。知っていて当然くらいである。
しかしこの王都に缶詰になっている彼らの中で、実際に見たことのある人はいったいどれくらいだろう。
そんなことを考えながら私は立ち上がる。
「ハイメニート・ランドグルーズです」
私は端的にそう答えた。
「ハイメニート?」
「なんだよそれ」
「グリーズですらないじゃん」
「もしかして知らなくて適当に答えた?」
そんな風に生徒たちは私を見て陰口をたたいて笑い出した。
「所詮田舎ものだな」と。
せせら笑う声がさむさむと漏れ聞こえる中、
「グリーズは庶民的に呼ばれている略称だ」
そう、ライゼが私を見向きもせず言った。それを期に笑い声がぴしゃりと止まる。
「かつてハイメニートという博士が発見し、その地名をとって名付けられたと言われている。今では名前が長く、熊という意味のグリーズという名称で広く知られているんだ」
「え、ええ……その通りよ」
女性教諭が驚いた風に頷くと、教室の生徒たちは口々に「すげえ物知りだ」やら「ライゼ様詳しいのね」やらと、私はそっちのけでライゼばかりを褒め称える声が充満した。
ついさっきまで私を侮蔑することに必死だったくせに、随分な変わりようだ。今ではすっかり私のことを忘れている。よほど眼中にないということか。
けれどこれではっきりした。
どれだけ偉くぶっていても、彼らは大したことない連中だ。ただただ浅ましいだけの、階級社会に囚われた傀儡だ。
そんな連中の言葉や挙動に気を下げる必要はない。
何事もなかったように私は席に座った。
――まあ、もともと気にもしてなかったけれど。
眼中になかったといえば私も同じだ。
そもそも私は可愛い女の子にしか興味がない。もしそんな子に「きらい」なんて言われたら三日三晩寝込むかもしれないが。
「す、すごいね、ユフィ! ユフィって完璧なんだね!」
ふと、隣でフェロが自分のことのように喜んでいた。破顔させ、可愛らしく笑窪を作っている。
そんな笑顔越しに、教科書で顔を隠した独り言少女も私を見ていた。表情はよく見えないが、彼女はふとノートを取りだす。そこには「すごーい!」と可愛らしい筆跡で書かれていた。
その奥のズボン少女も、相変わらず腕にズボンを通したまま、私を見てぐっと親指を立てていた。
――なに貴女たち、可愛すぎ。この女の子三人をみんな持ち帰りたいくらいだわ。一人は男の娘だけど。
「ねえフェロ」
「え、なにかな」
「貴女たちっていくらで買えるの?」
「え、どういう意味?」
純朴な顔で小首を傾げられ、はっと我に返った私は気を取り直して顔を引き締めた。
「いいえ、なんでもないわ」
「そ、そう」
あぶない。
もしフェロに変人であると思われたら、私が悲願としている『フェロを女装させて完璧な男の娘化させ、婚約は維持しながらも私専用の愛でられる美少女』とする計画が危ぶまれかねない。
『え……ユフィってそんなこと考えてたんだ。もう僕に近寄らないで』
そんなことを言われた日には一ヶ月は寝込みそうだ。
なんとしてでもフェロを、私好みの男の娘にさせてみせる。
そう決意しながら、私は授業へと意識を戻らせていった。