意中の彼の胸のなか
前回のあらすじ:ちょっとしたことから雰囲気最悪に。心を落ち着かせるために抱きしめてもらうことになりました。
「優華……」
「何?」
「もういいかな?」
「だーめっ。まだ帰りたい気分が抜けない」
「その、わかってるよね?」
「気にしなくていいのに。私でシてるって知ってるんだから。そんな風に腰を引いてると周りにバレちゃうよ」
「こんな往来で泣いて叫んで抱き合っているのに周りがどうこうっていうのは今さらって感じがするけどね」
「それもそうだね」
と言いつつ引き寄せる。
「言ってることとやってることが違う気がするんだけど」
弱々しく抵抗する虹村くんを押さえつけると、下腹部に固い感触が伝わってきた。
「へぇ、これが博樹くんか……」
「その……こんなときにごめん……」
「いや、いいよ。落ち着くために密着度を上げたかっただけだから」
今夜のオカズくらいにはなるかもしれないけど今は到底そんな気分じゃないし、虹村くんの腕の中で心を落ち着けたいという気持ちがいちばん強い。
お互い静かになったことによって時が止まったかのように錯覚するが、研ぎ澄まされていく聴覚から得られる雑踏やBGM、そしてなにより微妙にズレている二人の鼓動が流れる時間を感じさせる。ゆっくりと息を吸い、静かに吐く。
虹村くんは今、何を思っているのだろう?不本意な挙動を示す股間に意識を持っていかれている可能性はあるけれど、だとすれば本意とは何だろう。ハグをしてほしいという私の欲求に対し、虹村くんは即座に応えてくれた。よほど帰ってほしくなかったのだろう。発言から考えればさらに言えばその先、部活に行きづらくなった私が虹村くんとの関係を絶ってしまうというところまで見据えていたのかもしれない。あの言葉がなければたしかにそうなっていた可能性は否定できない。あってもここからどう転ぶか自分自身あまりよくわかっていないくらいだ。ただ、あの言葉がない状態で彼の優しさに甘えることをやめるという方向で考えていれば、やはりおとなしく諦めるべきだという結論に至っていた可能性は大いにある。そうなれば気まずい空気感の中で関係が自然消滅したとしてもおかしくはない。同じようなシナリオを想定していたかどうかはわからないけれど、彼のすがるような発言にはそれと似たような結末を回避したい感情がこもっていたような節がある。
虹村くんは孤独を恐れている。あるいは誰かが自分のもとを去っていくことを。そして現在、虹村くんの交友関係の一切を私一人が担っている。虹村くんはそんな私との関係を維持するため、私の想いに応えられないことに苦しみながらも私に都合よく見えるよう優しく振る舞っている。今こうして抱きしめてくれているのもその一環だろう。
「ねぇ……博樹くんはどれだけ、どこまで優しく振る舞えるの?」
「そうだね。付き合ってくれなきゃ絶交って言われたら付き合ってしまうくらいには、かな」
「そこまでなりふり構わないんだ」
「もちろん人は選ぶよ。ハグしてでも関わりたいと思わなかったらやらないかな」
「そっか」
虹村くんの回答は一見私がハグするに値する、付き合うに値する相手であると言っているかのように思えるが、たぶんそれは違う。虹村くんにとっての私のプラスな部分がそれを補って余りあるというだけの話なのだ。それはたとえば趣味を合わせようとしていたり、イラストに取り組む姿勢とかそんなところだろう。あくまでも一人の人として、友人としてのみ私は求められているのだ。その代償として私は現在進行形で虹村くんに我慢を強いている。それが彼の受け入れたものであってもその事実に変わりはない。
それを受けて私はどうするべきか。あるいはどうしたいか。ある意味で彼の犠牲のもとに成り立っている現状。あまり心地のいいものではない。ただ、お互いの望みは対立している。一方はただの友人であることを求め、もう一方は恋人同士になることを求めている。虹村くんの望みをありのままに受け入れ、我慢から解放するには私が我慢をすることになるだろう。告白に失敗した時点で私は身を引き、虹村くんの望む形に移行すべきだったろうし、その覚悟をもって想いを伝えた。しかし、それを強要しなかったのは虹村くんであり、私は他でもない虹村くんの提案により我慢をすることなくここまでアプローチを続けてきた。
これは自分本意な解釈かもしれないけど、たぶん虹村くんを気遣って身を引くというのは虹村くんの望むところではない。あくまでも自然に私が諦めるのを待っているのだろう。私も私で、理性的には諦めるべきだと考えはしても本能的にはそんなことを望まない。であれば、やはりアプローチを続けるという方向で考えるほうがいいだろう。
ただ、今のやり方では虹村くんへの負担が大きく、我慢を強いる形となる。何かしらは変えるべきだろう。その変化に伴って虹村くんが気を遣わない程度の何かを。何せ極論をいえば私は虹村くんを今すぐ彼氏にすることが可能なのだから、それをしないということは私の思いのままに押し通すことよりも虹村くんの負担をある程度優先するということなのだ。
好きって言ってもらってるのに応えられなくてつらい、常に申し訳ないと思っている……虹村くんはたしかそのようなことを言っていた。たくさん好意を伝えて意識させようという魂胆で積極的に伝えてきた言葉も虹村くんにとっては重荷だったようだ。言われるまで気がつかなかったのがおかしいと思えるくらい当たり前のことだ。たしかに好きだと言ってもらえる側はうれしいけど、それに応えられないというのもそれ相応の苦しみを伴う。……これに関してはやめるべきだろう。虹村くんの気持ちを推し量ってもそうだし、申し訳なさが先立つ言葉は逆効果な気がする。さりげなく、それとなく。好意というよりは魅力が伝わるようにアプローチする。そういう方向でいくのがいい気がする。これからは好意が透けて見えるような行動を慎んでいこう。できる限り。ある意味原点回帰だ。最初の、あの初デートのときと何ら変わらない。まあ、あのときも結局態度に出てしまってバレたわけだけど。そう、だからできる限り。あくまでも自粛ってやつだ。
あとはいいよと言われたら素直にそれを聞き入れる。過剰なリアクションは面倒がられてしまうからその辺を改善しよう。
なんとなく考えはまとまった。最後にもう一度深呼吸して離れるとしよう。
「ありがとう。おかげでだいぶ落ち着いた」
不思議と名残惜しさはなかった。




