10 前手航
「校内にゾンビが侵入しております。
私が目撃したのは外国の少年風のゾンビ1体。
ゾンビに噛まれた今泉先生はゾンビとなりました。
その後2人の男子生徒が襲われました。
彼らがどうなったのは見ていませんが、恐らく今泉先生と同じようにゾンビ化したものと思われます。」
『はい?』
電話の向こうから素っ頓狂な声が聞こえた。
予想通りの返答だ。
明らかに困惑している。
私でも相手が正常な精神状態であるか疑う。
だが、真実であるからどうしようもない。
なので出来るだけ簡潔にかつ客観的に表現した。
イメージが湧きやすいようにゾンビという表現を使用したが些か早計であったかもしれない。
逆に真実味が薄れてしまった感がある。
職員室に掛けた電話に出たのは現代文の薮坂先生だ。
真面目一辺倒で冗談が通じない。
通じないが故に冗談を言うはずがない相手の口から冗談が出た時、思考が停止する。
今まさにそういった反応を見せている。
『なんだお前達。』
『おい!何をする!』
『先生!大丈夫ですか!?』
『うわあぁぁぁ!!!』
『いやぁぁぁぁ!!!』
電話の向こうが俄かに騒がしくなった。
そしてしばらくの喧騒の後静かになった。
今泉先生はあの時死んでいた。
詳しくはないが黒目の部分が広がっていた。
瞳孔が開くという状態だろう。
噛まれてから死ぬまで30秒程度。
そこからゾンビ化して起き上がるまでに10秒程度。
最初の外国の少年風のゾンビはゆっくりとした動きであったが、今泉先生は普通に動き、走ってもいた。
噛まれてからゾンビ化までの時間が恐ろしく速い。
普通に動き回るのは厄介だ。
ドアを開けようとせずに叩いていたところを見ると、知性とか知能とかいったものは失っていまっているのだろう。
今泉先生のゾンビ化に驚いて生徒会室に逃げ込んだのは少々まずかったかもしれない。
既に職員室までゾンビが行き着いている。
予想以上の感染速度だ。
対応を期待して職員室に電話をしたのだが、出たのが薮坂先生であったのが不運であった。
いや、誰であったとしても結果は同じか。
私の話を信じる根拠がないのだから。
信じる根拠を目の当たりにした時には手遅れ。
既にここから出るのは危険な状態となってしまった。
放課後ではあるがそれなりの数の生徒は残っているはず。
あのゾンビと遭遇すれば対処できず高い確率で噛まれ感染するであろう。
そうしてゾンビ化した生徒達が相当数いることが予想される。
私一人ならともかく生徒が五人もいる。
生徒会役員四人とたまたま居合わせた女生徒一人。
この女生徒は名取柚花。
大人しいが成績優秀な生徒だ。
賢い子達で助かった。
パニックになっていないのはありがたい。
彼らはここから脱出するための手駒だ。
先程の男子生徒のように盾か囮に使う。
ただし、感染速度を考慮しながらうまく立ち回らないと窮地に立たされることになる。
そして、脱出後の私の今後を考えると、露骨に囮に使う様を他の生徒に見られるのはまずい。
出来るだけその瞬間を見られないようにするか、見られた場合は消えてもらおう。
教師に有るまじき思考であるとは思うが、緊急避難だ。仕方ない。
取り敢えず警察にも通報しておこう。
半信半疑で来られてもゾンビが増えるだけかもしれない。
それでも治安を守るための国家組織だ。
職員室の無能達よりかは期待できる。
早速警察に通報したが、反応は職員室の薮坂先生と同じであった。
まぁ、そんなものだろう。
取り敢えず警官を寄越すと言っていた。
その警官が事態の深刻さに気付き、機動隊なり何なりが来るまでにどれくらいの時間がかかるだろうか。
助けが来るまで立て籠もるべきだろうか。
悪手であるように思える。
ゾンビ映画などでは助けに来た警官隊がゾンビに押し負けゾンビ化してしまうのはパターンだ。
では脱出を試みるか。
駐車場には私の車がある。
だが鍵はカバンの中にある。
カバンは職員室にある。
取りに行くのはリスクが高すぎる。
生徒達が不安そうな表情で私に視線を向けている事に気付いた。
パニックになられても困る。
冷静さを取り戻させなければ。
「警察に連絡した。
すぐに警官が来るそうだ。」
「良かった。」
僅かではあるが緊張が解れ、安堵したようだ。
「だ!だ!だけど!
警官が来たところでどうにかなるのか!?
時間が経てばゾンビは増える。
警官が太刀打ちできなければ逃げることができなくなるぞ!」
愚か者め!
こいつは副会長の小宮山か。
私が折角不安を和らげてやったのに空気の読めない奴だ。
だが、言っていることは最もだ。
「じゃあどうしろって言うのさ。」
「そ、それは・・・」
代案を示さずに否定だけしても話はそこで止まるだけだ。
しかも皆の不安感を増長させてしまった。
これは悪手だ。
「警察も半信半疑であろうが、通報があった以上確認にくるだろう。
確認に来た警官が戻らなければ異常があったと判断して何かしらの対応をするはずだ。
彼らは治安を守る組織だ。
この状況が伝われば機動隊なり自衛隊なりが助けに来てくれるはずだ。」
希望的観測を多分に含んだ物言いではあると自分もでも思うが、すがるものが著しく欠乏しているこの状況では皆を落ち着かせるには十分であろう。
「だ!だ!だけど!
助けがくるまでどれだけ時間がかかるのかわからないじゃないか。
それまで持ちこたえることができるのか?
おそらく外ではゾンビが増えていってるんだぞ!」
愚か者め!
小宮山はそれなりに成績が良かったと記憶しているが、こいつは馬鹿だ。
折角の私のフォローを無駄にするとは。
こいつにはキングオブ馬鹿の称号を与えよう。
「この部屋に入った時、ゾンビはドアを叩いていた。
ドアを開けようと思うならばドアノブに手を掛けるはずだ。
だが、それをせずにドアを叩いていた。
つまりゾンビ化する以前の記憶や知能がないと推察できる。
知能がなく、本能に準じた行動をするのであれば野生の獣のようなものだ。
人間の力では突破できないようなバリケードを作ってしまえば助けが来るまで持ちこたえることができるだろう。」
先程は他の獲物を見つけどこかへ行ってしまったが、あのままドアを叩かれていたら突破されていたかもしれない。バリケードは早急に作るべきだ。
「だ!だ!だけど!
ドアを塞いだら袋小路になってしまうじゃないか!」
愚か者め!
なぜ一々私の意見に反論するのか。
いや待て。袋小路?
「ここにあるものでドアは塞げるけど、窓は塞げないじゃないか!」
この部屋のドアと反対側は一面窓になっている。
窓の向こうはテニスコートがあったはずである。
今はカーテンが閉まっており様子をうかがうことはできない。
皆の視線が窓側の面に集中する。
ドアならまだしもガラスであれば思い切り叩けば割れてしまう。
仮にドアを封鎖していたならば文字通り袋小路である。
正常な精神状態であれば早々に誰かが指摘していたことであろうが、誰もそのことに気が回っていなかった。
今回は小宮山のお手柄というべきか。
窓のことを考慮せずにドアにバリケードを敷いていれば非常に危険な状況を作り出すところであった。
「この部屋のロッカーを窓の前に並べましょう。
全て並べればこの面を覆うだけの幅があります。
バリケードというには心もとないですが、知能が低いのであればこちらに人がいることを視認できなければ襲ってこないのではないでしょうか。」
雲井が提案した。
冷静になりつつあるようだ。
他に選択肢もないと思われる。
早速ロッカーを移動しよう。
この時私は安堵してしまったのであろう。
小宮山の言葉で危険な状況に気付き、雲井の言葉でそれをとりあえずとは言え、その状況を回避できそうであるという希望。
ほんの少し気が緩んでしまった。
安全が確約できるまでは気を張っていなければならなかったのに。
私はカーテンの隙間から何気なく外を見てしまった。
今この時、外を確認する必要性があったかどうか。
そんなことは問題ではない。
確認するにしても細心の注意を払わなければならなかった。
気の緩みから生じた失態。
私はカーテンの端をそっと手でどけて外を見てしまった。
そこにいる可能性は十分にあった。
それはテニスコートの向こうにいた。
カーテンの僅かな揺れに気付きそれはこちらを見た。
灰色に濁った眼が私を視界に捉えた。
私がしまったと思った時には、それは既に走り出していた。
「早く!ロッカーを!」
私が叫び終わるのとほぼ同時にガラスは派手な破壊音を伴って辺りに飛び散った。
そしてガラスの破片とともにそれは室内へと転がり込んできた。
転がり込んできたのは男子生徒であった。
灰色の眼球、顔面に突き刺さる無数のガラス片。
どう見てもゾンビ化している。
ここにいる誰もが恐怖で思考が停止しかけた。
「くそっ!」
私は起き上がりかけているゾンビに飛び掛かり、取り押さえた。
背中に伸し掛かり、頭を押さえつけることに成功した。
咄嗟に飛び掛かったが、教師としての使命感であるとか正義感などで動いたわけではなかった。
たまたま私が最も近くにいて、盾にできそうな位置に誰もいなかったからだ。
仮に誰かを盾にしたとしても脅威が増えてしまう。
瞬時に自分の身を守るために最善の手段を選択したにすぎない。
噛まれるのだけはまずい。
筋力は元の人間のままのようで助かった。
どうにか押さえつけることができそうだ。
とりあえず、窓を塞がないと。
大きな音がしたからゾンビどもが集まってくるかもしれない。
「こいつは押さえておくから窓をロッカーで塞いでくれ。」
指示を出したが誰も動かない。
皆の表情を見ると蒼白になっている。
全員が私の後ろ、割れた窓を見ている。
私も皆の視線を追うようにゆっくりと後ろを振り返った。
そこには窓枠に手を掛けこちらに入ってこようとしている灰色に濁った眼の女生徒がいた。