マスクと黒サングラス
マスクに黒いサングラスをした人が、ゆっくりとリビングに侵入してきた。
驚きと恐怖で、両足が膝から崩れ落ちる。
床にぺたっと、へたり込んでしまった。
抑えきれない大きな鼓動が、体を小刻みに揺らし続ける。
リビングの扉を頭すれすれで入って来たとても背が高い人。
広い肩幅にがっちりした肩回り。
見た所、明らかに男の人だ。マスクとサングラスで顔は見えないけど。
その男がリビングの中へ歩みを進める。
怖い、怖い、怖い……‼
体の震えが大きくなる。
こんな事一度もなかった。
頭の中で、恐ろしい事件の予想図が展開される。
いつも来てくれる家政婦さんが、この大男に拉致された、又は……殺された。
家の鍵を奪って、侵入してきた。金目の物を盗むため。
だから顔がばれないように、マスクとサングラス。
もしかして……強盗犯。
背筋が凍りつく。
その大男は辺りをぐるりと見渡す。するとリビングのテーブルに目を止めた。
一瞬なぜと思ったがメモ書きを置いていた事を思い出した。と同時に、大男が寝室のドアの隙間を見つめる。
鈍い光沢を放つ黒サングラス。その不気味さに私の両肩が跳ね上がる。じっとこちらを見続けている。
怖い……‼ どうしよう、どうしよう……‼
助けを呼ぶ事はできない。誰も来てくれなんかしない。この家には、家政婦さんが来る時は誰もいない、という事になっているのだから。そもそも、誰の目にも見えない私が、透明人間の私が誰かに助けを求めても、皆怯えた顔で逃げていくだけ。
自分で、自分で何とかするしかないんだ。一人で。
急に目頭が熱くなり、涙がこぼれ落ちた。
ただ泣いて、男から視線を外さない事しか出来なかった。
男が寝室からサッと視線をそらした。リビングの机のメモ書きに目を落としている。そのメモ書きを手に取った。またゆっくりと、こちらに振り向いた。しばらく私を見つめている。……見つめている? 私を?
男が、小さく頭を下げた。
頷く様な仕草に、体の強ばりが少しだけ緩んだ気がした。
男はリビングの机に、黒のボストンバッグをトンっと置いた。ジッパーを開ける。
取り出したのは、紺色のエプロンだった。
え、エプロン?
黒皮の手袋とか、ロープとか、強盗犯っぽい物を取り出すと思っていたから拍子抜けした。って私は何を期待しているんだ。
思い直すように、少し頭をフルフルと左右に振る。
彼はその後も、雑巾、洗剤と明らかに掃除するための物をテーブルに並べていく。
この人、もしかして……、家政婦さん?
彼はバサッとエプロンを軽く広げ、手際よくキュッと腰のひもを締めた。スタスタとベランダに向かい、窓を開け放った。
外から運ばれてくる微かなざわめきが耳に届く。
彼が電源に繋いだ掃除機を手にした。
家政婦さんが来た時にいつも耳にしていた音が、慌ただしく私の鼓膜を揺らし始めた。
強ばった体の震えは次第に収まっていき、私の瞳は彼の事をずっと夢中で追いかけていた。
彼は家政婦としての仕事を一通り終えると、私が書いたメモ書きに何やら書き加えた。
彼が帰った後、寝室から出てリビングの机の方に向かう。
寝室は掃除しないでください。
わかった、これからもよろしく。
メモ書きにはそう書かれていた。
思わず笑みがこぼれた。嬉しかった。今まで、家政婦さんと会話したことがなかったから。ん? 会話じゃないか、えーっと、やりとり? だよね。小さな笑い声が出る。
ぽふっとソファーに座り、メモ書きを眺めては、彼のマスクに黒サングラス顔が思い浮かぶ。
「これからもよろしく、か」
一人ぼっちのこの広い家で、私は楽しそうに呟いた。