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青鈍行灯、水縹に。

作者: 散篠浦昌

 ――深い、深い、緑と黒と水の色。口の端から気泡が溢れ、鮮やかな水面へと旅立つ。その光景の代償に、私の小さな体は闇が続く水底へと落ちてゆく。

 これは、夢だ。いつも見る悪夢。この夢はいつだって同じだ。光が段々見えなくなると――ほら、やってくる。

 水面から輝きを纏ってこちらに手を伸ばす少年。

 私は恐怖に駆られて彼の手を取る。彼は必死に泳ぐ。沈んでなるものかと、藻掻いて足掻く。

 彼は私を抱えて、水面へ辿り着く。二人で、気管に入る直前の海水を吐く。彼は朽ちた木の板に私を捕まらせた。

 これは夢だ。いつも見る悪夢。だから、結末は知っている。何をしたってそうだ。いつだって彼はふと手を離して――

「っ、兄ちゃん!」

 ――満足そうに笑って、ひとり、青鈍色の海へと呑まれていくんだ。


 ◇


「――、は」

 意識が浮上した。見渡せばいつも通り、私の部屋だ。固くなった布団に薄汚れた卓袱台。幾つかの書架とそこから溢れ出した本達。古びた畳の匂いが鼻腔を擽る。

「……また、あの夢か」

 目を閉じて深く息を吐く。最悪の寝覚めは日常だ。もう十年以上も経つのに、未だにあの日――兄を亡くした日の事を夢に見る何て、未練がましくて厭になる。

 まぁ、それだけでもないか――溜息と共に、机の上に広げたままの便箋を、かさりと手に取る。

 “どうか私と、一目会ってはくださいませんか”

 ――そう書かれた手紙は、何年も文通している女性から。彼女は病気で伏している。曰く、余命は残り一年だという。

 私はそれに半月も返信を出せないでいた。文が浮かばぬ訳ではない。貴方の元へ行く、と、既に手紙はしたためた。

 彼女は繊細でか弱い乙女だ。桜の花がよく似合うのだろう。彼女への想いを綴れば便箋が幾つあっても足りない。病に伏して私に逢いたいと零しているのに行かぬと言える訳がない。


 しかし、私は――


 とんとん、と、思考を遮る音が、戸からした。

「先生、ご朝食が出来ました」

「……あぁ、今行くよ」

 便箋を置き、女中の声に返事をする。支度を始めなければ。幾ら想いを馳せても日常は続く。それに、想いは無駄だ。


 私は、出る事が出来ないのだから。

 水の檻に囲まれた、この島から。


 ◇


「先生、ありがとうございました!」

「あぁ、気をつけて帰りなさい」

 島で唯一の私塾で、私は授業を終えた。子供は良い。無邪気で素直で、この古びた建物にも新しい風が吹くようだった。

 微笑みの中、帰り支度をしていると、教卓の前に一人の少年がやって来た。

「あの、せんせい」

「……ん、どうした? わからない所でもあったかい」

 顔に見覚えがない。島外の子だろうか。しかし、随分と端正な顔立ちをしている。

「違うんだ。これ」

 少年は鈴の鳴るような声で呟いて、持っていた人形を差し出す。薄汚れているが、どうやら水兵服を着た熊のぬいぐるみらしい。

 ――ふと、子供の頃は私も人形が好きだったなと思いだした。

「これが、どうかしたのかな」

 努めて優しく聞けば少年は静かに頷く。落ち着いた子だ。

「拾ったんだ。落とした子に返したいから、せんせい、手伝ってよ」

 落とした子、きっと大変なんだ、と少年は気遣わしげに人形を見つめた。

 私は考える。確かに彼では持ち主を探すのも難しいだろう。。これも教え子のためか。一つ頷くと私は口を開いた。

「いいよ。私も丁度、暇になった所だ」

「本当? ありがとう、せんせい」

 少年は、歳相応にぱっと笑顔を咲かせた。思わずこちらも笑顔になる。

「拾った所に案内してくれるかい。何かわかるかもしれない」

 うん、と頷いた少年は、私の手を取ると、走りだした。


 ◇


 心地よい風を感じる。この島には、いつだって潮風が吹いている。磯の香りが、街に充満していた。

 私塾を出ると私は少年の勢いに連れられるように街を歩いた。少年はやはり街に慣れていないのか、ふらふらと寄り道をする。

「こっちで合ってるのかい?」

「あってるよ、せんせい。絶対あってる」

 真剣な顔で言うが、ここは裏路地だ。何処に行くにしても、態々入り組んだ道を選ぶ必要はない。思わず笑いが漏れる。

「本当かい。何処へ行くか教えてくれれば、案内するよ?」

「だから、本当にあってるって。絶対あってる」

 そうか、と呟いて、また笑いを零す。少年は少しむすっとして、歩調を速めた。

 このぐらいの年頃は、何でも自分でやりたくなるものだ。私もそうだった。好奇心が強い癖に根が臆病で、知らない所へ行っては泣いていた。

 そうして蹲っている時に助けてくれるのは兄だった。お前はばかだな、と、手を差し伸べてくれるのだ。

 そういえば、この路地でも迷ったな。兄も抜けている所があった。二人共帰り道がわからず、確か今と似た遣り取りをした覚えが――。

「――わ、と」

 ぐらり、視界が揺れる。次いで、衝撃。考え事のせいで転んだらしい。打った鼻を擦って身を起こすと、少年が手を差し伸べていた。

「せんせい、ばかだなぁ。立てる?」

「……あぁ、すまない。格好悪い所を見せてしまったな。大丈夫だよ」

 数瞬呆けて、慌てて立ち上がる。砂埃を払って手を取ると、少年は満足気に口角を上げる。

「せんせい。ほら、行くよ」

「……あ、あぁ」

 私は、はっとして頭を振る。どうも感傷的になっていけない。

 今度は転ばないように気をつけて、私は少年の後を追いかけて行った。


 ◇


 路地を抜けて暫く行くと、磯の香りが強くなった。思わず足が止まる。

 目の前には緑が見える。海の公園。ここには子供の頃よく来た。もう少し進めば、眼下に港が見える。だが、足を進められなかった。

「せんせい、どうしたの」

 少年が不思議そうに、こちらを覗き込む。私は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

「……その人形、海の近くで、拾ったのかい」

「うん。もう少し」

「……そうか」

「ほら、行こう」

 手を引かれて静かに頷く。呼吸が浅くなっている。半歩足を前に出すと――吐き気を感じて蹲った。


 ――怖い。全て呑む水面が。暗く深い底が。

 兄は私のせいで死んだ。青鈍が視界を遮る。海へ行けない。船に乗れない、島からは出れない。出るべきじゃない。

 たとえ、手紙の彼女にどんなに逢いたくても、想いを告げたくとも。行く事は、出来ない。


 眩む視界の端で、少年が仕方無さそうに溜息を吐いたのが見えた。

「やっぱり、だめかぁ……昔は、大好きだったのにね」

「――は」

 朦朧とした意識に声が滑りこむ。鈴が鳴る。少年は屈んで、私の瞳を覗き込んでいる。

「忘れた? よく眺めたよね。ほら、あっち」

 指差す方向には、柵がある。そこに登ると海が見えると私は知っている。

 少年とは今日が初対面の筈だ。それに、私はあの日から――

「――ねぇ、泣き虫だったのに、立派になったね」

 頭に、ノイズが走る。少年が人形を差し出す。この少年の笑い方を、この人形を、私は知っている。

「ほら、お気に入りの、持ってさ。昔みたいに、来なよ」

 人形を押し付けられて、息が楽になる。笑顔で手を取られ、身体が滑らかに動いた。

 この頼もしさを、私は、知っている。

「……ね」

 柵を覗きこめば、眼下。船の汽笛の音がする。磯の香りが、反射する光が、私を包み込んでいる。少年が笑う。


 ――海が、今、輝いている。


「船には乗れそう?」

 問いに瞬きをする。濡れた頬で、自分の涙に気づいた。少年が誂うように声を上げた。

「なんだ、泣き虫は変わってないんだ」

 ぐい、と袖で頬を拭い、私は少年に――いいや。

「……兄さんこそ、化けて出るなんて、心配性は変わってない」

 兄に向かって、そう言うと、兄はけらけらと笑った。

その光は遠く、遠く、水縹色に輝いて。きっと、未来へ向かっていった。


一年ほど前に書いたものなので、構成は甘いのですが、登場人物が好きなので載せました。


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