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好きな人へ(詩集)

作者: 竹下舞

ずいぶん偏屈なことを書きます。もしかしたら中身のないことをぐだぐだと書いているように見えるかもしれませんが、私にとっては重要なことです。


これは詩集です。ページをめくればわかると思います。おそらく多くの人が詩集だと判断するでしょう。


しかし、私は詩集だと言いたくありません。「それなら何か?」と問われれば、答えに困ってしまいます。詩集というより自叙伝といった方がしっくりきますが、自叙伝でもありません。なぜなら自叙伝というものは「自分自身のことを書いたもの」というより「自分の背景を書いたもの」だからです。


これは私自身のことを書いたものです。だからエッセイと言うべきかもしれません。ただ、見た目はエッセイっぽくありません。


読者からすれば、どうでもいいことかもしれません。詩だろうが自叙伝だろうがエッセイだろうが関係ないのかもしれません。しかし私にはそのことが妙に引っかかるのです。


これは世間的には詩集としてカテゴライズされるでしょう。もし図書館の棚に並べられるとしたら、詩集のコーナーに並べられるでしょう(詩集のコーナーがあれば、ですが)。そのことに不満があるわけではありません。世間から詩集だとみなされても、いっこうにかまいません。ただ、作者として「これは詩集ではない」と断っておきたいのです。


パブロ・ピカソがこんなことを言っています。インターネット上で見つけたものなので、出典は定かではありませんが、原文は日本語ではないでしょう。おそらくスペイン語かフランス語か英語あたりを日本語に訳したものでしょう。それで、ピカソの言葉とはこういうものです。


「今はもう感動はない。だから感想が湧くのである。感動には叫びはあるだろうが、言葉はない」


詩とはおそらく、感動であり、感想ではないでしょう。これは詩集ではないと言いたいのは、これらの詩は感想だからです。


これらの詩を書いたのは2008年から2017年にかけてです。そのときの私は一人でした。自分が思ったことを伝える相手は、一人もいませんでした。身近にもいませんでしたし、インターネット上にもいませんでした。それに、頭の中にもいませんでした。そのような生活の中で、世界と対峙(たいじ)して浮かんだ感想、それがこれらの詩なのです。


まわりに誰もいないものだから、しゃべって伝えることはなく、それでも誰かに何かを伝えたいと思ったのでしょう、ただひたすら感想をつづりました。これはそれをまとめたものです。つまり、これは伝達のために書かれたものです。だから詩集だと言いたくはないのかもしれません。


それでも、これは詩集かもしれません。私は詩というものを美化しすぎていて、そのために、このようなややこしい文章を書いているのかもしれません。とは言っても、もう今ではどうでもいいことです。


言葉として表現することにより、気持ちが楽になることがあります。悩みをペットに打ち明けることで気が楽になる、というように。私はこうして文章を書いて、気持ちがずいぶん楽になりました。ついさきほどまでは「これは詩集ではない」ということはとても重要な問題だったのですが、今ではどうでもよくなりました。


※※※


ここには詩以外にも、エッセイのような文章や自己紹介のような文章や日記のような文章も収められています。それから、童話も収められています。

『はじめに』


好きな人の言葉は何度でも読み返せる

詩は作者を好きになることから始まる

詩集をだすなら最初にこれを載せたい




『つれづれ(10円玉)』


自分が生まれる20年以上も前の10円玉。これには何人の手がふれたのだろう? 手から手へ、レジの中へ、サイフの中へ、自動販売機の中へ、また手から手へ、何度も何度も、数えきれないほど何度も。あるいはブタ箱の中で10年以上もひっそりと。


はじめは全部キラキラだった、そんな事実をなつかしく思う。




『物と事』


平凡なことはない

そんな当たり前のことを

忘れてしまうことがある


平凡なことはない

でも瞬間を切りとったら

全ては平凡なものになる


歴史の中の戦争、新聞の上の震災

写真の中の紅葉、物語の後の幸せ

瞬間だけ見れば、どれもみな平凡


同じものはあるけど

同じことはないから

だから続けていこう

そうやってものをことにしよう

そうすれば平凡はなくなるから




『はじまりのとき』


頭の中に置いておくことはひとつだけ

「はじめのうちはうまくはいかない」

あとは前進あるのみ、うまくいくまで




『永遠』


I love you, I love you,

I love you, I love you,

2回目のはないから

3回目と4回目のも

いつも1回目だから


I love you, I love you,

I love you, I love you,

それは4つの1回目

愛は永遠とはきっと

そういうことだろう




『表と裏』


したいことが見当たらないので

できることをできるかぎりする

みんなそうやって生きている

たくさんの妥協を重ねながら


胸の中がざわめいてしまうのは

はて、どうしてでしょう?


表:したいこと

裏:したくないこと

表:できること

裏:できそうにないこと


胸の中がざわめいてしまうのは

まあ、そういうことです




『手をたたく』


パンパンと手をたたいてみて

二つとも同じ音に聴こえる?

また同じようにたたいてみて

今度はどう? 違う音かな?

次は間隔をあけて、パン・パンと

そしてもう一回、さらにもう一回


手の中にはいろんな音がある

それは当たり前のことだけど

たまには、当たり前のことに

気づくのもいいと思うのです




『つれづれ(光合成)』


光合成はすごい。一枚の葉の光合成を思っても「あっ、そう」という感じだけど、森の光合成を思うと「うわあああ」となる。何百億という葉すべてが光合成をしつづけていると思うと、感慨深い。



『こころ』


オレンジジュースは色が鮮やかだから

ガラスのコップに入れないといけない

そういうことを当たり前にできている

そういう日常の中で、死に向かいたい


オレンジジュースを飲むときでさえも

いただきますと口から自然にこぼれる

そういう人はやさしさに包まれていて

オレンジジュースはただ鮮やかにある


美しい光景はいつでも頭の中にあって

その中の私は背景として存在していて

主役はいつもオレンジジュースだから

そういう色彩の中で、呼吸を重ねたい




『世界』


紅葉 雪化粧 満開の桜

物語 曲線美 メロディ

青空 流れ星 おひさま

幽霊 ポルノ 熱愛記事


すべては私からはじまる


視線 鳥の声 まったり

感謝 うわさ クリック

家畜 飼い犬 動物実験

毎朝 はがき はみがき


全ては私から始まり

私の胸の中で終わる

自分でも知らぬまに




『ごらん』


戦争があった

彼らが死んだ

彼ではなく彼らが


彼らのことはわからない

僕らのこともわからない

遠くのことは数字になる


たとえばこういう詩が苦手です

私が一生懸命になればなるほど

「私」は限りなくゼロに近づく


ジョン・レノン『イマジン』

ボブ・ディラン『風に吹かれて』

たとえばそういう歌が苦手です

個人が見えない出来事というか

安易なヒューマニズムというか


ページをめくれば、戦争があり

本を閉じれば、ただちに忘れる

なぜなら死んだのは彼らだから


たとえばこういう詩が苦手です

だから私は彼らの詩は書かない

彼の詩を書くつもりでいるから




『つれづれ(嬉し涙)』


嬉し涙というものがある。その名のとおり、嬉しいときに流れる涙。私は一度も流したことがない。いつか流してみたいけど、無理なような気がする。




『2014年にて』


日本人は思う

「70年前に戦争があった」

アメリカ人は思う

「10年前に戦争があった」

コスモポリタンは思う

「毎年のように戦争がある」

アナーキストは思う

「戦争は幻想にすぎない」


そう考えると

私はたしかに日本人で

でもアナーキストかも


半径5kmの世界の中で

何気なく生きていたい

たまに星みたいな幻に

目をやったりしながら




『明日の昨日』


テレビの中には容姿端麗な人

街には手をつないで歩く男女

いたってありふれた光景でも

心の中にさみしさや切なさが


それはどうしようもない事実

恥ずかしいほど純粋な気持ち

満たされていないものを知り

満たすことを望んでいるけど


今は赤い糸を信じるしかない

出会いも予感も何もないから


ただ赤い糸だけが密かにあり

どこかの誰かとつないでいる


そう信じることができたなら

今の今を受け入れられるから




『ありふれて、あふれて』


干した布団をとりこむだけで

胸の中は、はればれしくなる

心が広ければ


道端にあるゴミを拾うだけで

胸の中は、すがすがしくなる

心が広ければ


ラジオから流れるポップスに

胸の中は、とても明るくなる

心が広ければ


一番星、地面を横切る鳥の影

二階より高く飛ぶつがいの蝶

ふとした瞬間にパンと弾ける


お金がなくても豊かなのです

豊かさは、ほらっ、胸の中に

ただし、心の広さに気づけば




『みんな違って』


星には一つ一つ名前がついていて

虫にも一つ一つ名前がついていて

本屋さんにはたくさんの本があり

それらは誰かにより書かれたもの




『Xのない日々』


鳥には明日があるのだろうか?

明日に思いをはせることもなく

過去の失敗を悩むこともない!

きっと鳥には明日はないのです

けたはずれのバカだから

エサを洗うことも思いつかずに

土つきのミミズを丸飲みにして

どしゃ降りでもずぶ濡れになる

そんな鳥には未来はないのです




『考察1(退屈と窮屈)』


今はインターネットがあるので、お手軽に有名な詩を読むことができます。私も古今東西の有名な詩人の名前を検索して、詩をいくつか読んだことがあります。しかしそれらの詩に感銘を受けることはありませんでした。それは感性のせいか経験のせいかわかりませんが、それらの詩は退屈に思いましたし、あるいは窮屈に思いました。退屈に思うとは「書いている意味はわかるが、手をとめるほどではない」ということです。窮屈に思うとは「書いている意味がわからず、じれったくなってくる」ということです。


多くの場合、私は詩のよき読者にはなれませんし、詩のよき理解者にもなれません。それでもステキだと思える詩もいくつかはあります。


たとえば「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」という松尾芭蕉の俳句です。(とは言っても、松尾芭蕉も基本的には退屈です。「古池や蛙飛びこむ水の音」などは何がいいのかわかりません。それより「古池にちゃぽんと跳ねる水の音」とした方がいいように思います。そう思うのも、私の感性か経験のためでしょう)


「蝉の俳句の何がいいのか?」と問われても、答えに困ってしまいます。俳句は韻律が大切だとされていますが、私は幼い頃からポップソングに親しんできたせいか、音楽的にいいとは思いません。


では、何がいいのでしょうか? 正直に言うと、わかりません。


とにかく、その俳句は私の記憶の中で特別なものとして残っています。しかし、これまでに読んだ詩の大多数は、私の中では響かないものでした。




『私の感覚』


感覚は人それぞれだと思います。ここには私がおもしろいと思うことを書きました。一つは「どっからどう見てもおもしろい」という自画自賛できるものです。残りはそれなりのものです。


※※※


音の速さは秒速340メートル。つまり声は1秒で340メートル進む。そう考えると、小動物くらいなら叫び声で吹き飛ばせる、そんな気がする。


くまのプーさんは服を着ている。紳士だと思う。でも、なぜか下ははいていない。変態だと思う。


ドラえもんは足がものすごく短い。だから、のび太と並んで歩くときには、足をすごく速く動かしている。大変だと思う。


クジラの鼻は上にある。背中の潮をふくところ、あれが鼻。正確には「背中」ではなく「おでこ」なのだけど。とにかく、クジラはおでこに鼻がついていて、そこから鼻水をジェット噴射する。


あき缶を捨てるなら、道端に捨ててください。そんな看板を川辺に立てたい。


ストロベリーキャンディってイチゴの味がするの? よくわからないけど、ストロベリーキャンディはストロベリーキャンディの味がする。


もし蚊に刺されてもカユくないなら、いくらでも血を吸わせてあげるのに、わざわざカユみを残すなんて、蚊も相当のバカ者である。


※※※


そんな感じです。読み返してみると、つまらない気がしました、という言い訳を書きたくなりました。しかし一つだけは自信があります。




『無常』


春になれば、ウグイスが鳴き

チョウチョが舞い、桜が咲く

1000年前からずっとそうだったんだ

そう考えたらなぜだかため息が出た




『エンピツ』


エンピツでノートに書く

一日の終わりに先を削る

朝になってノートに書く

先を削って一日を終える


ある日の夜ふと気づいた

エンピツには表情がある

まるい先は妙に愛らしく

とがった先はどこか清い




『春の風』


テレビの中に、桜吹雪がある

風は見えないけど、花は舞う

あの中に行けたら、と思って

あの中に行けない自分を知る


四月、床に寝ころんでいたら

ふくらむカーテンが目につく

春を知らせる風は目に見えて

肌まで届いたとき世界を知る




『つれづれ(空飛ぶ種)』


二階の窓から外を見ていると、タンポポのタネが飛んでいた。高度を変えずに人が歩くほどの速さでスーと。あれがどこに落ちたのかは知らない。咲いたかどうかはなおさら知らない。でも、心地よい気分になっていた。




『クラムボンはわらったよ』


大人はつまらない

本当につまらない


闇に浮かぶ光たちを指さして

あれは蛍が光っているんだよ

なんて親切にも教えてくれる

ホント、大人はつまらないな


不思議なものを、一瞬にして

当り前なものに変えてしまう

サンタクロースなんていない

お年玉は現金じゃないとダメ


誰にも気づかれない思いやり

愛という立派なものではなく

イノセンスとか儚い何かとか

あるいは、そっとした息の音




『更新』


目をつむると何も見えない

だけど知らない音に気づく

だけど耳をふさいでみても

見える景色は変わらないな

耳より目の方が強いみたい

もしも世界を変えたいなら

そうっと目をつむればいい

次に開いたときにはきっと




『つれづれ(写真)』


春になれば、テレビのニュースで桜見物の模様が放送される。みんなカメラや携帯電話で写真をとっていて、私は少し残念に思っていた。美しさとはそういうものではないと。見とれるものだと。でも、あるときふと気づいた。美しいから写真をとるのではなく、嬉しいから写真をとるのだと。美しさは伝えられないけど、嬉しさは伝えられる。




『幸福論』


エレベーターより

エスカレーターの方が好き

理由はわからない

とにかく好きなものは好き


本物の戦争より

偽物の戦争映画の方が嫌い

理由はわからない

とにかく嫌いなものは嫌い


そんな風に生きていければ

悩みは全てグチになるのに




『人生論』


今日の私を作るのは

これまでの私だから


でも人生というのは

今日の私を作るのは

今日の私


日常はオートマチック

人生はいつでも手描き


人生は前にも後ろにもない

人生はすぐそばにしかない

手描きの今日のそばにしか




『邁進?それとも困惑?』


すべての人を好きでいるのは不可能

愚かな私はそんなことを思っていた

でも、そんなことはないと気づいた


周囲との距離を上手にとっていれば

たぶんすべての人を好きでいられる

居場所を見つけるとはそういうこと


それは難しいこと?

あきらめた方が賢明なこと?

いえ、それは毎年の目標です


すべての人を好きでいられる

そんな幸せがどこかにあって

そこへ行くために今日も――




『包装』


明日が楽しみなら

今日も楽しくすごせる

希望とはそういうこと


遺書に書くことが

何ひとつ思いつかない

絶望とはそういうこと


なんて書いてみたけど

疑問を覚えてしまうな


手紙のたたみ方を調べたり

リボンの結び方を調べたり

見た目だけがいとおしくて

昨日はあっというまに――




『ちょっと』


降り続く雨音をちょっと聞いてた

「ちょっと」が日常に色をつける


ちょっと星座占いを信じてみたり

ちょっとカラスを見つめてみたり

ちょっと何もしないでいてみたり


「ちょっと」の中に「もっと」を

見つけることができれば、きっと




『つれづれ(雨)』


雨はステキだと思う。なぜなら大量の雨粒がいっせいに空から降り続いているのだから。「いっせいに」というのが良い。




『ああ、無常』


蚊が飛んでいる

音をたてながら

すばやい速さで

すなわち懸命に


蚊は生きている

確かに生きてる


でもそのことを

忘れているから

パチンで死んで

なぜかすっきり




『3.11』


ドラマとハッピーエンドをくりかえしながら

これからもずっとずっと生きていくのだろう

生きているかぎりバッドエンドは来ないから


いま自分の中に希望が見当たらないとしても

どこかに希望があることを忘れてはならない

まだ出会ってない希望が存在していることを




『つれづれ(分割)』


晴れていると、世界は二つに分割される。光と影。小さい頃は、影の上だけを歩いてみたり、境界線を歩いてみたり、みなかったり。


雨が降ると、世界は多くに分割される。傘をさすと一人の空間ができて、一人と一人と一人と一人と、なんて感じで世界は分割される。いつしか人目が気になって、雨の壁にちょっと安心できたり。




『1/365』


街には多くの人が歩いていて

道路には多くの自動車があり

それぞれに何人か乗っていて

街は本当に人であふれている


その中の誰かは今日が誕生日

数人か数十人か、あるいは?

他人の心の中は見えないけど

誰かの心の中には淡い思いが


今日は私の誕生日ではないから

やさしくあろうと思ったりして

なんだかせつなくなったりした


誰かのために生きられたらとか

そんな感傷の中で色々と考えた

今日は私の誕生日ではないから




『考察2(共鳴と共感)』


おそらく、音楽は理解するものではなく、共鳴することです。


音楽はいたるところで鳴っています。お店に入ると音楽が鳴っていますし、テレビをつけるとやはり音楽が鳴っています。しかし多くの場合、それをBGMとして聞き流しています。そんな中でも、音楽をじっくりと聴くこともあります。それが共鳴です。言いかえるなら、共鳴とは同じ空間を共有することです。(同じ空間に存在することではなく、同じ空間を共有することです)


詩も同じだと思います。私が「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」という俳句をよいと思うのは、同じ空間を共有できるからでしょう。そして多くの詩をよいと思えないのも、そのためでしょう。


共鳴はその場かぎりのことです。音楽が止まれば、共鳴も消えます。本を閉じれば、共鳴も途切れます。しかし、音楽が止まっても、本を閉じても、自分の中で続いていることもあります。それを共感と言うのでしょう。(もしかしたら共感という言葉をふさわしくないかもしれませんが、私は共感という言葉を使いたいです)


大切な音楽や本は、共感しているものです。それに接していなくても、自分の中で続いているものです。


私は、音楽に関して言えば、共感に出会うことが多々あります。しかし、詩や小説に関して言えば、共感に出会うことはまずありません。だから自分で書くのかもしれません。自分で書いたものは、のちのちに頭の中で思いだされることがあるのです。





『ちいさな奇跡|(童話)』


 クリスマスの朝、目をさますと、エリちゃんはマクラもとに万華鏡を見つけました。それは昨夜に兄がクリスマスプレゼントとして置いたものです。

 エリちゃんは万華鏡の使い方がわからなかったので、ふってみました。何か小さな音が聞こえましたが、おもしろくありません。それからいろいろと試していくうちに、穴をのぞいて回すという本来の使い方を発見しました。

 エリちゃんは楽しくなって、さっそく兄の部屋に急ぎました。

「お兄ちゃん、これ、すごいよ」

「なんだい、それは?」

「よくわからないけど、とにかくすごいの。マクラのそばにあったんだけどね、きっとクリスマスだからお父さんかお母さんが置いたんだと思うけど――」

「サンタさんが置いたのかもよ」と兄はさえぎりました。

「残念。サンタさんなんていないよ。あれは子供だましのウソなんだから」とエリちゃんは言いました。「とにかくすごいの」

 エリちゃんは兄に万華鏡の使い方を説明しました。兄は穴をのぞいて、ゆっくりと回しました。そして規則正しく移り変わる模様を楽しみました。

 兄は穴をのぞくのをやめて、万華鏡の帯を指さしました。

「ここに何かが書いてあるよ」

「そうなの。でもわからない漢字があって。お兄ちゃん、読んで」

「うん。〈万華鏡をもらった日には何度も回して楽しくなるが、そのうち飽きてくる。そうなると万華鏡を回すことはなくなる。だから飽きたら、誰かにプレゼントしてあげてね〉だってさ。エリは万華鏡に飽きたら、誰かにプレゼントすればいいんだ。そしたらその人が少しのあいだ楽しい思いができる」

「マンゲキョウって何?」

「これが万華鏡だよ」と兄は万華鏡を妹に返しました。

 その日からエリちゃんは何度も何度も万華鏡をのぞきました。年が明けても飽きることはありませんでしたが、学校が始まると誰かにプレゼントしたくなりました。しかし学校に万華鏡を持っていくのは校則違反だと思ったので、近所の一人暮らしのおばあさんにプレゼントすることにしました。

 エリちゃんは万華鏡をピンク色のリボンで飾りつけてから、おばあさんの家に出かけました。おばあさんは縁側で編み物をしていました。青色と黄色の毛糸の玉は、縁側をすがすがしい雰囲気にしています。

「おや、エリちゃん」とおばあさんはガラス戸をあけました。「こんにちは」

「こんにちは」とエリちゃんはおばあさんのとなりに座りました。「今日はプレゼントがあるんだ。はい、これ、万華鏡。とってもキレイなんだよ」

 エリちゃんはクリスマスの日のことを手短に説明しました。それから二人は世間話を少ししてから別れました。おばあさんと別れたあとも、エリちゃんのいい気分は続いていました。おばあさんも同じでした。

 二週間後におばあさんは万華鏡をメガネ屋の店員さんにプレゼントして、店員さんはそれを通勤途中でよく見かけるハンサムな男にプレゼントして、ハンサムな男は――と万華鏡はいろいろな人の手にわたっていきました。万華鏡をもらった人もあげた人もいちように愉快な気持ちになりました。

 いつのまにか万華鏡の帯には新しいルールが付け加えられていました。それは〈誰からプレゼントされて、誰にプレゼントしたかを、誰にも言ってはならない〉というものです。きっと万華鏡を二人きりの秘密にしたいと思って、誰かが付け加えたのでしょう。

 さて、部長さんは部下から万華鏡をもらいました。そして三日後にそれを妻にあげました。そのとき、部長さんは愉快になりましたが、妻は不愉快になりました。妻は離婚を考えていたのです。

 次の日、妻は万華鏡を捨てようと思い、自転車でスーパーマーケットに行きました。スーパーマーケットの出入口にはゴミ箱があるのですが、妻は気が変わり、となりの自転車のカゴに万華鏡を入れました。万華鏡は捨てられずにすんだのです。

 しかし一難去ってまた一難。カゴの中に万華鏡を見つけた青年は、帯の文章を読み、くだらねえと思い、地面に落しました。それは道路まで転がり、車にひかれて、ぺっちゃんこになりました。


 それから七十年の月日が流れました。

 おばあさんは天国に行き、メガネ屋の店員さんも天国に行き、部長さんもやはり天国に行き(天国はとても広い場所なのですね)、そしてエリちゃんはおばあさんになっていました。だから〈エリちゃん〉ではなく〈エリさん〉としましょうか。

 エリさんは夫に先立たれ、二人の子供は自立しているので、一人で単調な日々と送っています。そんなエリさんには楽しみが三つあります。ごはんを食べることと、庭先の家庭菜園を手入れすることと、近所の女の子とおしゃべりをすることです。

 クリスマスイブのことです。エリさんがコタツで編み物をしていると、インターホンが鳴りました。女の子がたずねてきたのです。

 女の子はコタツに入ると、毛糸の玉を手にとりました。赤色と緑色の毛糸の玉が、部屋の中をクリスマスの雰囲気にしています。

「じつはですね、今日はプレゼントを持ってきました」と女の子はカバンから何かをとりだしました。

 それは真新しい万華鏡で、帯には文章が書いてありました。女の子にうながされて、エリさんは老眼鏡をかけて帯の文章を見ました。しかしそれは涙にかすんでよく見えませんでした。それでもそこに書いてあることはわかっていました。一瞬にして七十年前のクリスマスの記憶がよみがえり、とても新鮮な気持ちになりました。青色と黄色のマフラーみたいな新鮮な気持ちに。

 これまでに万華鏡は世界中を回っていたのです。ときにはどこかに捨てられて、ときには新たなルールが付け加えられて、ときには新たな万華鏡が作られながら、とぎれることなく回り続けていたのです。そしてこれから先も回り続けるでしょう。万華鏡は小さなサンタクロースなのですから。




『ブラックボックス|(童話)』


 夕食のあと、エリちゃんはイチゴのショートケーキを食べました。誕生日だからです。エリちゃんはイチゴを最後までとっておきましたが、甘い生クリームのあとだったためか、イチゴの味はイマイチでした。それでもエリちゃんはそんなことは気にしません。父と母からもイチゴをもらって大満足です。

 父と母からの誕生日プレゼントはタコのぬいぐるみでした。タコの眼は足の付け根の中央にあるものですが、そのタコの眼は体の横についています。それから眼に下には口らしきものがついていますが、それは口ではなく排出口で、食べた物をだすところです。それでもエリちゃんはそんなことは気にしません。かわいければいいのです。

 寝る前には兄からもプレゼントをもらいました。それは黒い箱でした。

「その箱の中にはエリがいま一番ほしいものが入ってるよ。でもフタはあけたらいけないよ」

 エリちゃんは耳もとで箱をふって中身を確かめました。しかし何も音もなく、重さもほとんどありません。エリちゃんはいぶかしげな表情を兄に向けました。

「何が入ってるの?」

「エリがいま一番ほしいものが入ってる。でもフタをあけたらいけない」

 エリちゃんはさっそくフタをあけました。気になってしかたなかったのです。しかし中身はからっぽでした。

「何もないよ」とエリちゃんは兄に箱の中を見せました。

「エリはいま何が一番ほしい?」

 エリちゃんは考えました。

 イチゴのショートケーキ、ソフトクリーム、チョコレートのかかったドーナツ、新しい洋服、新しいカバン、キラキラ輝くブレスレット、実物大のカバのぬいぐるみ――とエリちゃんのほしいものは数えきれないほどありました。しかしどれが一番なのかわかりません。

「エリは一番ほしいものが何なのかわかってないんじゃないか?」

「そうかも。でもこの中には一番ほしいものが入ってるんでしょ? 一番ほしいものが何もないわけじゃないよ」

「もう一度フタを閉めて」と兄が言うと、エリちゃんはそうしました。「いまその中にはエリが一番ほしいものが入ってるよ。でも一番ほしいものが何なのかわかるまでは、フタはあけない方がいいよ」

「でも、からっぽじゃん」

「いま一番ほしいものが何なのかわかったら、きっとからっぽではなくなるよ」

 エリちゃんはつまらないと思いました。しかし兄のことが好きだったので、黒い箱は大切にとっておくことにしました。

 その日からエリちゃんは黒い箱を見るたびに〈いま一番ほしいものは何か?〉を考えました。しかしいっこうに答えは出ませんでした。いつもほしいものは数えきれないほどあり、一番を決めることはできなかったのです。

 黒い箱はフタがあけられることなく、エリちゃんのそばにあり続けました。だからエリちゃんは事あるごとに一番ほしいものについて考えました。兄の思惑は成功したといってもいいでしょう。兄は〈生きる上で最も大切なことは、いま一番ほしいものが何かを知ることだ。それを知っていれば努力をする〉と思っていたので、妹に黒い箱をプレゼントしたのです。


 十年後、両親からもらったタコのぬいぐるみは、色あせてしまい、足が一本とれかかっていました。エリちゃんはタコの足をぬいあわせて、フリーマーケットに持っていきました。タコは缶ジュース一本分の値段で、ある男の子のものになりました。男の子に抱かれてタコはイキイキしているように見えました。

 黒い箱は売られることはありませんでした。エリちゃんは黒い箱に愛着を持っていたのです。このころのエリちゃんの一番ほしいものは、恋が叶うことでした。箱の中には〈理想の自分〉が入っていたのですが、エリちゃんはそのことに気づくことはありませんでした。

 それから長い月日が流れました。

 エリちゃんが赤ちゃんを産んだころには、箱の中には〈自由な時間〉が入っていました。子供に手がかからなくなったころには、箱の中には〈喫茶店を開きたいという夢〉が入っていました。そのときにはエリちゃんは貫禄が出てきて、おばさんになっていました。子供が自立すると、エリちゃんは時間をもてあますようになり、そのうち品格が出てきました。おばあさんになったのです。そのころには、箱の中には〈小さいころの思い出〉が入っていました。

 そのようにエリちゃんは黒い箱とともに生きてきました。

 エリちゃんは老年になって、ようやく兄の意図がわかった気になりました。

 動物は目に見えないものを信じることはありませんが、人間は目に見えないものを信じることがあります。たとえば、夜のお墓に恐怖を感じるのは、暗闇という危険のためというより、オバケがいるかもしれないという疑念のためです。〈オバケなんているはずがない。もしいたとしてもお墓に居座りはしない〉と頭でわかっていても、心ではオバケを信じているのです。人間はそういう性質を持っているのです。

 神様はいつも黒い箱(ブラックボックス)の中にいるのです。




『大切なこと』


大切なものは変わっていくけど

大切なことは変わらない

それは胸の奥底にそっとあって

心という名がついている


大切なことを大切にできる人は

自分を大切にできる人

大切なことがたくさんある私は

きっと自己中心的な人

だから大切なものを大切にして

大切なものに囲まれて


草花をゆらす風をさえぎる壁を

彩る絵画を見る人を照らす光を


そうやって世界を繋げていって

大切なものだけが増えていって




『悲しいこと』


誰にも負けないことはないけど

誰にも負けたくないことはある

それは恋という名前がついていて

いつでも私の中心で支配している


Love is a losing game

そんな歌を聴きながら

未来をじっと見つめて

戦うことさえできない

そんな今を憂いている


負けないことは一つもないけど

負けたくないことは確かにある

私の中心に確かにある

どうにもできないもの




『世界の見方』


ケチャップはトマト

これ、普通にわかる


マヨネーズはタマゴ

これも、まあわかる


しょうゆは大豆

これはちょっと


みりんはお酒?

それは、つまり


だけど、結局は

みりんはみりん


みんなそうなのだから




『優雅』


夏のチョコレート

柔らかくて濃くて

香りは沈んでいて

暑さに負けている

だけど、だけどね




『つれづれ(スキップ)』


夜、いつのまにか寝る。朝、いつのまにか目が覚める。すると、光の量がまったく変わっている。一般的にそれは「起床」と呼ばれるが、私はそれに「タイム・スキップ」という名前をつけた。そして、いつしかそのことを忘れていた。




『世界のしくみ』


世界には

ニンジンが好きな人は何人いるだろう?

ニンジンが嫌いな人は何人いるだろう?

おそらくニンジンが嫌いな人の方が多い


世界のしくみというものを考えてみると

ぼんやりだけど、そういうことを思った


世界というものはこんなにも優しいのに

それに気づかない人たちであふれている


私はニンジンが嫌いなわけではないけど

ニンジンが嫌いでも、それは普通なのに

そのことを理解していない人ばかりいる

世界には




『例外的人権の損害』


基本的人権の尊重があるのに

なんでホームレスがいるの?


以前そんなことを思っていた

基本に入れない例外の存在を

知らなかったから


だけど今ではちゃんと知っている

世の中には例外ばかりあることを

そこから偏見が生じていることを




『つれづれ(自由)』


真夏、真昼、うだる。窓から外を見ていると、子供が一人で走っていた。ふと、自由という言葉が思い浮かんだ。完全に受け入れているんだね。




『暑さのせい』


今日は夏だ。そして次の日も夏だった

というか、一週間まるごと晴れマーク

お天気お姉さんの予言はいつも当たる

そんな夏の中でいつも横たわっている




『つれづれ(部屋)』


セミはお腹に共鳴室を持っている。鳴き声を増幅させるためのお部屋。誰が「共鳴室」と名付けたのか知らないけど、ステキな名前だと思う。


マルセル・デュシャンという芸術家がいる。20世紀の天才である。彼は便器に「泉」という題名をつけたことにより名声を得た。でもそんなことより、セミのお腹の空洞に「共鳴室」という名前をつける方がよっぽど気がきいている。




渡月橋(とげつきょう)


昔のエッセイを読んでいて

「木の橋を渡る下駄の音」

そんな言葉を見つけたけど

古き良き日本はなくなった


木の橋も下駄も観光になり

でもなぜかノスタルジーが

心をふるわせる懐かしさが

耳の奥で高らかに鳴り響く


花火の帰り道、水面に満月

そこを渡るは、浴衣の少女

闇夜に響くは、高いリズム

あとに残るは、はかなき幻

目をつむれば、色彩は映え

打ち上げ花火、余韻は続く




『見栄と素直』


「真面目に生きていれば、いつかいいことがある」


そんなことを言われる

だけどそれは少し違う

正しくはこうだと思う


「素直に生きていれば、いつかいいことがある」


私にいいことがなかったのは

素直に生きてこなかったから?


もしも世界を好きでいるなら

素直になることはとても簡単

だけど世界を嫌いでいるから

世界との間に壁を作るために

見栄をはって偽ってしまうな


素直ほど完全なものはないが

人間は不完全に作られている




『つれづれ(運命)』


便座に座っていると、目の前に小さな虫が飛んでいた。イライラしていたせいか、何気なしにそいつをにぎりつぶした。手のひらを開くと、そいつは生きていて、視界の外に飛び去った。ふと、運命という言葉が浮かんだ。


知能の発達は、運命という根拠のない信仰を作りだした。運命なんてないけど、運命と呼びたい現象はある。運命と呼んでみたい出会いはある。運命と投げやりたい仕方のないことはある。


しかたない。しかたない。しかたない。運命だから。それは最も原始的な問題解決法。




『Pity』


同情と愛は似てる

でも少しだけ違う

目線が上からか

目線が横からか


子供のまわりには

同情が溢れている

愛ではなく同情が


だから幼い頃から

ずっと悔しかった


みんな優しかった

でもそれだけでは

何かたりなかった




無償の愛(アガペー)


物を大切にするという

きわめて人間的なこと

物と交流できるという

物と対等であるという


百円で買ったときには

ただの道具だったのに

このハサミはいつから

道具以上になっていて


役割を超えた関係

切るという役割を


仕事をするという

家事をするという

父や母や子という

役割を超えた関係




『ね』


ねえねえと呼びかけたら

なにと振り向いてくれて

きっとそこに愛があって

そのくりかえしが関係を


ねえねえと呼びかけても

なにも返ってこないなら

冷えきった心はいつでも

一つ一つのものを冷やす


共感なんだ、大切なのは

それが呼吸になっていき

ねえねえの()()()

輝くものをやどしている


普通のくりかえしの中で

ずっと続く境界線の上で




『私欲』


愛とは許すこと

愛とは祈ること

愛とは与えること

愛とはなじむこと

愛とは思いやること

愛とは分け合うこと


もしそうだとするのなら

愛なんて安っぽいものは

別にほしいとは思わない


愛とは認めること


それが本当に必要なこと

私が私でいられるのなら

そこからすべてが始まる




『愛について』


おそらく愛とは人間にとって最も尊いことでしょうが、さまざまな解釈ができるでしょう。ここには私の考えを書きますが、それぞれ「愛とはこういうものかもしれない」と考えていればいいと思います。


愛を「やさしさ」「包容力」「親近感」「依存」などと考えている人がいますが、私はそうは思いません。


愛とはありのままの相手を認め合うことです。つまり、愛するとはありのままの相手を認めることで、愛されるとはありのままの自分を認められることです。


ありのままの相手を認めるためには、相手が素直になる必要があります。ありのままの自分を認められるためには、自分が素直になる必要があります。それはとても難しいことです。相手に素直になってもらうことも難しいですが、自分が素直になることも難しいです。ただ、めざすところはそこだと思います。


人間関係は「どれだけ向き合ったか」で深くなると思います。「どれだけやさしくしたか」はそれほど重要ではありません。もちろん表面的な信用なら、やさしくすることで得られます。詐欺師がそうです。詐欺師はやさしいものです。しかし芯の部分で信頼し合うためには、向き合うことが不可欠です。そして、向き合うことで、ありのままの相手を認めることができ、信頼が生まれるのです。私はそう思っています。


ただ、ありのままの相手を認め合うことは必要なのかと言うと、そうではないかもしれません。嘘も方便ということもあります。「バレなければ不倫をしてもいい」と思う人もいれば、「不倫をするならバレないようにしてほしい」と思う人もいます。それはある意味やさしさです。


愛よりもやさしさの方がよっぽど役に立ちます。それでも私は愛を求めてしまいます。自我(エゴ)が強すぎるのでしょう。




『考察3(数学と美学)』


もしかしたら「絶対的な美しさ」もあるのかもしれません。ある見解によれば、自然界にはいたるところに黄金比やフィボナッチ数列がひそんでいるそうです。


それでも、黄金比やフィボナッチ数列などの数学的な規則性が絶対的に美しいかと考えると、どうもそうではない気がします。黄金比の図形を見て、誰もが美しいと思うとは限りません。


個人的には、美しいものがあるのではなく、美的感覚があるだけだと思っています。言いかえれば、美しさに見とれる人がいるだけです。だからこそ美しさは尊いのです。


ところで、歌舞伎という伝統芸能があります。私は見たことはないので、なんとも言えませんが、歌舞伎を見ても、感動することはない気がします。観光や学問としての価値を認めることはできても、美としての価値は認めることができないと思います。


もう少し身近なことについて言えば、演歌がそうです。演歌なら聴いたことがありますが、良さが少しもわかりません。また、クラシック音楽は、良さが少しはわかりますが、積極的に聴こうとはしません。


歌舞伎や演歌やクラシック音楽の良さがわからないのは、それらに関する美的感覚がとぼしいからでしょう。これは詩にも言えることです。私が多くの詩を退屈に思うのは、美的感覚の欠如のためでしょう。(共通認識の欠如というより、美的感覚の欠如です)


だからと言って、私に美的感覚が備わっていないわけではありません。私にも「見とれる」という体験をしたことはあります。それは他人と共有したいと思える体験ではなく、もっと内向的な体験です。




誕生日(スタートライン)


水たまりを見つけると

ほんの少し嬉しくなる

こんなことを思うから


世界には特別な場所が

いたるところにあって

そして雨が降るたびに

特別な場所に気づける


うまくいかない人生で

流れに流されていても

流れ着いたところには

きっと愛が待っている


水たまりの中でそっと

自分の愛を見つければ

きっと過去は報われる




『ハートとアート』


はあ、それはため息

ああ、それもやはりため息

はあ、それは残っているものを想うこと

ああ、それは消えてしまったものを想うこと


はあと想う

ああと零れる




『つれづれ(大地)』


ふと見ると、へその下にちょろっと毛が生えていて、毛抜きでとって、それから長い歳月が流れて、またちょろっを見つけて、また毛抜きで、それでもやっぱり生えてくるから、どうしても抜いて、そうしていると、ふと気づいた、小さな大地は生きているのだ、と。




『uとn』


「うん」

「ううん」

「うーん?」


日本語はとても曖昧

イエス・ノー・保留

口を動かさなくても

伝えられるのだから


小さくてつつましい

ひそやかで投げやり

宙ぶらりんのままで

日和(ひより)に任せてしまう

それでちゃんと回る

以心伝心の国だから


とっぴんぱらりのぷ




『just because』


リンゴよりミカンが好き

ミカンよりブドウが好き

ブドウよりリンゴが好き

そんな均衡で生きている

そんな私の素直はどこ?

それは「ただ」の中です




『長くなる影』


昔は特別だったのにな

本当に特別だったのに

時の流れが変えたのは

色だけではなく輪郭も




『我慢比べ』


空の太陽は常に動いている

時計の短い針よりゆっくり

だから影も動いているはず


窓辺にて光と影の境界線に

爪の先で目印をつけてみる

そして動くまでじっと待つ




『つれづれ(涙)』


ネット上の記事やYouTubeのコメント欄などに「涙が出てきた」とか「涙がとまらない」というような書き込みがある。そういうものを不快に感じるのはどうしてだろう、そう疑問に思っていた。ある日、ふと解けた。宇多田ヒカルが「流した涙は ぼくの自由」と歌っていて、「ああ、そういうことだったのか」とわかった。




『I was music』


桜を見るのも、雲を見るのも

海や紅葉や雪化粧を見るのも

特に好きなわけではないけど

トンビを見るのはなぜか好き


空をゆったりと旋回している

二羽のトンビが目にとまると

ついつい見とれてしまうのは

言葉では説明できない何かが

そこにあるからで


他人に伝えることができない

何かがあることを思いだした




『Beautiful World』


お気に入りの歌が頭の中でぐるぐると

私の日常はそういうことが当たり前で

食後や夕方や浴室で脳内再生される歌

ときどきお気に入りの歌は入れ替わる




『みどりの日』


PTAが喜びそうな歌ばかり

愛と感謝と夢と勇気と友達と

平和の中のお気楽な歌ばかり

それはそれですばらしいけど


すべてのことには意味がある

そういう不毛な考えを嫌って

平和の中でお気楽にすごして

なんでだかイライラが残った




『ブロック・パーティ』


ロックに熱中してたのは

いつかの夢の話のことで

自由は自由ゆえに自由で

何かに守られていたけど


おとぎ話はもう終わった

だから大人にならないと

実用的で、調和を第一に

ロックの代わりにお酒を


昔はロックが好きだった

全てのことを賭けている

そんな彼らが好きだった

そこにはたしかに何かが


だから切なくなるんだ

とめどなくひたすらに




『ヘビーローテーション』


アイドルポップスは

なんてロックなんだ

軽すぎてスピーカー

ぶん投げたくなった


「楽しんだ者勝ち」

もうどこもかしこも

そんな思想が蔓延し

エンドレスリピート

とにかくひたすらに

エンドレスリピート


ただ楽しければいい

そんな風潮のために

ロックは死んだのだ

とっぴんぱらりのぷ




『完璧な世界』


何も起こることのない平凡な日々で

ヘッドフォンの中に世界を見つけた

そこにはちょっぴり狂った人がいた

だから安心して、その世界に浸った


距離も空気感もない、音だけの世界

せまい中でテンションが無限な感じ

それはどこかに似てると思ってたら

それは子宮の中みたいだと気づいた




『つれづれ(相対)』


嘘みたいに小さなクモが、髪の毛の先についていた。本当に小さかった。クモは細い糸をだして、ぶらさがっていた。ゆらゆらと。でも一気に上にあがって、ふと自分の大きさは他人が決めるのかなと思った。




『ジャポニカ』


日本人が英語で歌を作ると

どうしてだか知らないけど

ぎこちない感じに聞こえる

ジャポニカイングリッシュ


昔はあれをダサいと思って

できるかぎり避けてたけど

あれはあれで、なんとなく

ジャポニカイングリッシュ




『つれづれ(愉快)』


部屋で一人でいるとき、たまに回ることがある。もちろん縦ではなく横に。くるりと。どうして回るのかはわからないが、おそらく楽しいからだと思われる。喜びの表現のために回る。くるっているのか?




『ナンセンス、ハイセンス』


ハナちゃんは鼻くそをほじって

遠く遠くへ飛ばして、遊んでた

楽しくて楽しくてルンルンだった

彼らはいい歳してみっともないと言った

ハナちゃんは彼らをぽかぽかと殴った

ぽかぽか、ぽかぱか、こてんぱん

彼らは尻尾をまいて逃げてった

そう、まさに尻尾をまいて

楽しくて楽しくてルンルンだったな


意味はないし、メタファーもいらない。

「彼ら」とは誰のことか?

最後の一行の主語は何か?

そんなことはどうでもいい。




『考察4(作品と情報)』


創作物は、作品として受けとられる場合と、情報として受けとられる場合があります。


音楽でいうと、BGMなどの聞き流されるものは情報です。あるいは、ラジオから音楽が流れていて、それをちゃんと聴いていても、途中で「ただいまお送りしている曲は――」と声が入って、音楽のボリュームが落とされることがあります。ラジオから流れる音楽も、たいていは情報です。(フルでかける番組もありますから一概には言えません)


文章の創作物でいうと、書籍になっているものは作品で、雑誌や新聞は情報です。それから、古典小説をつまらないのに無理して読む人がいますが、それは作品として読んでいるというより、資料として読んでいると言った方が適切だと思います。資料とは情報です。


別に「情報より作品を推奨すべき」と言っているわけではありません。本を読むより雑誌を読む方が好きな人もいますし、人それぞれ好みがあるので、自分の思うようにすればいいと思います。


作品は創作物と読者のあいだには何もありません。それに対して、情報は創作物と読者のあいだに何かがあります。何かがあるために、創作物は目的ではなく手段になるのです。


そういう意味で言えば、詩とは常に作品であるものです。もし詩が情報になってしまえば、それは詩ではなくなります。(もちろんそれが悪いわけではありません。詩がコミュニケーションの手段になっても、それはそれでいいと思います)




『めいっこ』


赤ちゃんの手は驚くほど小さい

そこに爪が生えているのだから

驚きだけではなく神秘を感じる

息をして動くという生ではなく

生命の根源にある何かを感じる


赤ちゃんの足は驚くほど小さい

それはプニプニはりつめていて

柔らかそうで、あたたかそうで

息をして動くという生ではなく

生命の根源にある何かを感じる




『発光』


ビニール袋に入れたホタルは

翌朝になったら、死んでいて

かわいそうで、かわいそうで

単なる虫の死骸に心がゆれて

光はなんて偉大なのだろう!




『つれづれ(自意識)』


「何もしゃべらないでいて。そしたら世界は完璧なままだから」


いつかそんなことを言ってみたい。恋人でも友達でもいいから。喜びの中でも悲しみの中でもいいから。そんなキザなことを平気で言える、そんな空気に包まれてみたい。




『無垢と意識』


幼い子供は手がべたべたで

ケチャップがついても平気

きっと汚れを知らないんだ

いつも笑って、すぐに泣く

今という瞬間を生きている


私の手や服はいつも清潔で

ケチャップがついたら不快

汚れを知ってしまったから

だから人目のつくところで

一人でニヤニヤしていたら


私はいつも

未来に期待して

そしてまた

想像力に負ける




『考えすぎる人たち』


ちいさな子供はかわいい

それはどうしてだろう?

答えはいたってカンタン

なにも考えていないから




『Willpower』


アテンションをプリーズしたら

世界はきっと開けるものだから

何度も何度も、さらに何度でも

自分の心が開けるまで何度でも


理想は何になる?

理想は勇気になる

あるいは原動力に

ただ理想だけでは




『小さき者へ』


こぼれおちる涙は

なくなりはしない

乾いてしまっても

空気の中にとけて

雲の一部になって

海にたどりついて

地球上をまわって

雨から水になって

誰かの体に入って

いつかは涙になる


こぼれおちた涙は

今もどこかを巡り

回り回り舞い降り

きっとそっと戻る




『つれづれ(異常)』


他人からやさしくされるのが好きです。本当に好きです。でも、もしかしたら好きではないかもしれない。ふと、自分の異常に気づく。




『つれづれ(先入観)』


秋の朝。ベッドに寝ころんでいる。目をつむり、ここは宇宙だと想像する。すると、窓の外の音がSFっぽく聞こえる。鳥の鳴き声はレーザーガンに聞こえるし、自動車の走る音は惑星の地鳴りに聞こえるし、風の音はSF的な乗り物の音に聞こえる。たとえば、この音を録音して、SF的な映像のもとで流すと、違和感なく聞こえると思う。でも、風に乗ってきた小学校のチャイムの音だけはSFっぽく聞こえなくて、一瞬にして地球に戻された。




『倦怠』


カラスは風情がない

一年中鳴いているから風情がない


私のイメージとして

ニワトリは朝に鳴き、朝を告げる

私のイメージとして

カラスは夕方に鳴き、暮れを嗤う


ここのカラスは朝から鳴いている

だからほんのすこしも風情がない

それでも一日中鳴くカラスが好き

日々の退屈さを教えてくれるから




『インディペンデント』


私の自由(スケール)が周囲の自由(スペース)

収まりきらないのだから

居心地が悪くなって――


私の自由(ペース)と周囲の空気(ペース)

大きく外れてしまったら

素直に生きることは――


常識(ルーツ)はいつも正しいけど

空気(ルール)は、まとこしやかに

居場所を決定してしまう


その世界(ルール)印象(シルエット)で決まり

白黒で分けられてしまう


そういうことを考えても

うれしいことは毎日ある

能天気(フリーダム)なのかもしれない




『ふふーん』


暇だから昔の小説を読んだ

ただ「ふふーん」と思った

作者は自殺したらしいけど


暇だから新聞を開いてみた

ただ「ふふーん」と思った

中学生が死んだらしいけど


暇だからネットを閲覧した

また「ふふーん」と思った

それ以上でも以下でもない

私は健全な読者なのだから


いつも上から目線で見守り

ずっと退屈から逃れられず

熱心な読者にはなれなくて

おそらく雲の上にいるのだ




『平均化』


自分の好きなものくらいは

自分一人で判断したいけど

流行に導かれたりするのも

とりわけ嫌なわけじゃない


でも流行に置いてけぼりで

どこかさみしさを感じてて

本当に好きなものがないと

自分が不確かになるのかな




『つれづれ(所有物)』


腰痛があると、つくづく自分の体は自分の所有物だと思う。頭痛ではそう思わないのに、腰痛だとなせかそう思える。




『宝くじ』


夢の中でならなんでもできる

ふだんしてはいけないことも

夢の中でなら誰にでも会える

遠くの人とも、死んだ人とも

そう考えたら、ほんの少しは




『ブルース』


「たぶん」と「絶対」を行ったり来たり

でも結局は時間が解決してくれるもので

それはわかってるけど、行ったり来たり

この中には合理性なんてものはないのだ




『プラトニック』


ひとつひとつを整理していっても

片づかないものがいくつかあって

いつもそのことばかり気になって

「ああ、これがあれなのだな」と


憧れと妬みの境界線にあるものを

頭の中で描いては、すぐに消して

心の中で見つけて、いやになって

まだラブソングには距離を感じて


恋はたいへん不便なものに思える

性欲さえあればそれで十分なのに


ただ「最初で最後」と思えること

それが何より世界を輝かせるから

ただ形のないものに思いをよせて

「ああ、これはあれなのかな」と




『魔法』


恋は人類史上最高のファンタジー

それ以上に悲しい言葉はあるの?

ファンタジーだとわかっていても

逃れられないのだから、それなら

はずかしいはずかしいはずかしい




『思うこと』


みんな五月会をするんだなと思うとき

自分が一人でいることを肌身に感じて

でも自分磨きや保身で日常から離れて

あてのない未来を信じられたらなんて




『死生観』


生の反対は死ではない


生の反対は過去

死の反対は人生


過去を大切にしないと

生きてはいけない


人生を充実させないと

死にきれないから


きっと夢の中でさえも

カラフルを望んで


ひとつひとつの時間は

いつも待っている




『考察5(聴覚と視覚)』


私は詩を書くときには、聴覚より視覚を大切にしています。つまり、響きやリズムより文字の並びを大切にしています。


それは、音読することはなく、いつも黙読するからかもしれません。(ただ、黙読しても、頭の中では音読しているのですが)


視覚を大切にすると言えば、私はひらがなの「ふ」が好きです。機械的な「ふ」ではなく、手書きの「ふ」が好きです。「ふ」は、どれだけ上手に書いても、どれだけ下手に書いても、満面の笑みのような雰囲気があります。満面の笑みは、不完全な世界において最も完全に近いもので、それが「ふ」なのです。


ひらがなの「ゆ」も好きです。「ゆ」はシャネルのような高級ブランド品のロゴにできるだけの可能性を秘めている、というのが大げさですが、とにかく好きです。


また、カタカナの「モ」も好きです。一時期「モ」を見るだけで、嬉しくてたまらなくなっていました。ひどくかわいいのです。ただ「も」はなんとなく卑猥な感じがあります。


 モモ

 もも


わかりますか? わからないでしょうね。じつのところ、私もわかりません。ただ私の中にはそういう感覚があります。だから今これを書いていて、嬉しくてしかたありません。(数日後。読み返してみても、まだ少し嬉しさがあります)




『私の好きなもの』


新緑が好きです。満開の桜を見ても、綺麗だなと思うだけで、とりわけ惹かれることはありませんが、新緑のまぶしさに出会うと、胸の中で喜びが弾けます。


「胸の中で喜びが弾ける」という表現が好きです。私にとって喜びは、あふれるものではなく、弾けるものなのです。


鳥やカメが好きです。「犬派か猫派か?」という質問がありますが、犬にも猫にも特別に惹かれることはありません。鳥やカメには大いに魅力を感じます。あとオオサンショウウオも好きです。


歩いている鳥が好きです。あの、ひょこひょこした感じというか、ぴこぴこしている感じというか、とにかくたまりません。


鳥がフンをぽとりと落とすのが好きです。貴重な瞬間に立ち会えて満足するのでしょう。


寒くなると、ふくれる鳥が好きです。ぷくっ、というあの感じが、もう、あれですね。


くしゃみをするのが好きです。体内のいろいろなものが完全に一致して大きなエネルギーを発する、というか、バッティングセンターでカキーンとなった(実際に経験したことはありませんが)、というか、とにかく好きです。してやったり、という感じですかね。


鼻をかんだときに、大きいのがスポッと出ることがありますが、それも気持ちよくて好きです。(まさに今、それがありました)


プラスティックの容器が好きです。小さい頃から花に惹かれることはなく、ゼリーの容器やペットボトルに惹かれていました。(特にファンタの形状が好きでした)


ハサミが好きです。一時期100円ショップに行くたびにハサミを買っていました。あの形状がなんとも言えずいいのです。たしか中学生のとき、同級生が「オタクは同じ商品を三つ買う。観賞用と保存用と友達に貸す用の三つ」と言っていました。私のハサミは観賞用でも保存用でも友達に貸す用でもありません。それでも、とにかく好きです。


麦チョコが好きです。いまだに高級チョコレートのよさがわかりません。お菓子に関しては、子供っぽいものが好きな傾向にあると思います。ケーキよりシュークリーム、ようかんよりプリン。ただ、コーヒーゼリーも好きなので、子供っぽいとは限りません。


果物が好きです。バナナやカキは熟している方が甘くなりますが、熟しすぎているのはあまり好きではありません。甘さより食感を求めます。


古い本の匂いが好きです。古本屋さんの本は、いろいろな人の手垢が染みこんでいて不潔なのかもしれませんが、ついつい匂ってしまいます。もちろん一人のときに。


枯れ葉の匂いが好きです。枯れ葉を拾うと、どうしても鼻にあててしまいます。あの、ほのかな香りが、ひそやかに好きです。


最も好きな小説は、江國香織の『きらきらひかる』です。いくつかの欠点は見受けられるものの、微笑ましいエピソードがたくさんあって楽しくなります。小説を読むときには、本筋とは関係のないささやかなエピソードに注目します。ストーリーを楽しみたいなら映画の方がいいと思いますし、小説の良さはささやかなエピソードにあると思っています。


※※※


好きなものをいくつか挙げてみましたが、本当に好きなのかどうか、自分でもよくわかりません。今この瞬間には好きだと思えても、来年には興味をなくしているかもしれません。ただ、好きなものが思い浮かぶことは、ステキなことですね。




『水かけ論』


水かけ論ってなんかかわいい

「今度、水かけ論しようよ」

そんな不思議ちゃん的な冗談

でも私には少し似合わないし


人は自分に見合った言葉を

使わないといけないのか?

似合わない言葉を使っても

滑稽に見えるだけなのか?


アイドルは「みんなで頑張ろう」と

スポーツ選手は「夢は必ず叶う」と

カリスマは「自分らしくいよう」と

パンクスは「No future for you!」と

政治家は「大変遺憾に思います」と

そしてかわいい女の子は言う

「今度、水かけ論しようよ」

さて、私はなんて言おうか?




『プラタナス』


最も多い名字は佐藤

次に多い名字は鈴木


鈴木

よく見ると

素敵な名前


鈴の木

メリークリスマス!




『つれづれ(信じる)』


サンタクロースはいない。でもサンタクロースになることは誰にでもできる。




『夢』


バケツいっぱいのコーヒーを

早朝の遊歩道にぶちまけたい

できれば晴れた秋の日がいい


バケツいっぱいのトマトを

真っ白な壁に投げつけたい

できれば新緑のそばがいい


床いっぱいのねずみ花火を

ほぼいっせいに着火したい

できればせまい室内がいい


数えきれないほどの風船を

ビルの屋上から落としたい

できればくもりの昼がいい


決して難しくないはずなのに

なぜか難しくて、むずかしい




『ポ』


うなかれポ、さみなろポ、みにさきはてポ、しすぺこポ、くるはみポ、あるポ、はなポ、かなばむポ、ふまらみポ、かめこいポ……(ポにアクセントをつける。つまりポを高音で。それからけっこう早口で)


そんな言葉を喋ってみたい

でもそんな人はいないので

自室で一人で喋っていたら

ほんのすこし愉快になった


はっきり言って

私は幼稚である

ふたをあけると

そこには羞恥が




『差異』


アラビア文字は

ミミズくらいに

じつに意味不明

だけど日本語も


あめぬねわれ

さちらろる

けはほま

みおむず

意味不明です


しかも

カタカナと漢字もあるし

オカ才力エロ工口である




『ポテトチップス』


本当は家庭の味より

ジャンクフードとか

インスタント食品が

好きだったりしたり

でも劣ってるようで

自分の生理的好意を

否定してしまうのは

どうしてなのかな?




『つれづれ(趣味)』


三つ入りコーヒーゼリー。容器の底にピンがあるやつ。それをグラスに移す。お皿ではなく、グラスに。別に美しいわけではないけど、なんかいい。




『天使にふれたよ』


外には数えきれないほどの粉雪

彼らはゆれながら、落ちていく

そして積もることなく、消える

いつも思う、彼らは天使だと


空にあるただの雲

積もればただの雪

降っている間だけ

彼らは天使になる


生や死とは全く関係のない存在

空からやってきて、地面に還る

そしていつのまにか、また空へ

だから思う、彼らは天使だと


億単位の天使たち

一人の軌道を追う

みんな同じだけど

出会いは一人ずつ




『風のこと』


粉雪が舞っている

さまざまな速さで

さまざまな角度で

舞い落ちていって

風は一つではない




『つれづれ(雪隠)』


もし雪国に行ったら、雪の上に小便をしてみたい。やわらかい雪にあたたかい尿がささる様は、さぞかし爽快だろう。でも実際に雪国に行っても、そんなことはしない。きっと物悲しくなるから。




『zzz...』


アザラシ、シカ、カピバラ、ラクダ、モグラ

ウサギ、カバ、ペンギン、イノシシ、ゴリラ

フクロウ、ヒヨコ、クラゲ、ホッキョクグマ

ハムスター、カワウソ、カタツムリ、クジラ

カンガルー、カッパ、リス、ヤギ、ダチョウ

サンショウウオ、キリン、イルカ、ニワトリ

ラッコ、コアラ、ライオン、ゾウガメ、ハト

タヌキ、レッサーパンダ、カワセミ、アヒル

ゾウ、プレーリードック、カワハギ、ヒツジ

イタチ、ウーパールーパー、ペリカン、キジ

ハリネズミ、フラミンゴ、ウミウシ、ヒツジ

ワニ、キツネ、メジロ、オットセイ


メモ帳の表紙の裏にそう書いていた

ときどき動物たちを想像するために


たとえばカワハギは寝るとき

流されないようにするために

()をくっと口でつかんで寝る


実際には見たことはないけど

寝てるカワハギを想像すると

ちょっとだけ愉快になれたり


怒ると凶暴なキリンやシカも

人間を襲い殺すカバやゾウも

想像の中ではかわいらしくて


頭の中に秘密の動物園がある

私は異常なほど幼稚なのか?

他の人も似たようなものか?




『顔文字』


( ̄△ ̄)←ペンギン

こいつはすごくかわいい。みんなで集まってるとホントにかわいい。足が短いので、歩く姿は愛くるしい。


( ̄‥ ̄)←カピバラ

こいつもかわいい。もふもふ。それ以上のふさわしい形容は思いつかない。もふもふ。こてんと転んで眠ったりする。走ったりもする。


( ̄^ ̄)←オオサンショウウオ

こいつもやっぱりかわいい。のっそりしてるし、泳いでるし、なんか偉大な生物で、生きる化石とも言われてるらしい。


( ̄◇ ̄)←カッパ

こいつもかわいい、たぶん。でも一説によると、かなり異臭を放つらしい。おそらくカエルと同じ両生類で、だから卵を産んで、おへそがない。




『ヘルター・スケルター』


ひぃ

ふぅ

みぃ

よぉ

いつ

むぅ

なな

はち

きゅう

じゅう


どうでもいいのだが

数字を数えるだけで

なんだか楽しくなる

リズムの作用なのか




『考察6(風情と娯楽)』


私は「風情」という言葉からは日本的なものを連想します。満開の桜、風鈴、紅葉、雪化粧した庭園、あるいは伝統工芸品などです。ただ、そういうものに風情を感じるかというと、少なからず感じるようにも思いますが、積極的にそうは言えません。


個人的には、風情とは習慣の中に心地よい変化が訪れることだと思います。具体的に言えば、見慣れた景色が色づくことです。


自分の部屋から窓の外を見ると、いつも同じ景色です。何度も何度も見ているので、もう見慣れています。それでも変化はあります。春になれば、山には緑が戻り、山桜がほんのりと色をつけます。秋になれば、山が赤や黄に彩られ、寒くなれば、山はわびしくなります。あるいは、朝方に(もや)がかかれば、幻想的になります。私はそういうときに風情を感じます。ふだんから見慣れているからこそ、情緒を深く感じるのです。


目に見えるもの以外にも風情はあります。鳥や虫やカエルの鳴き声がそうです。あるいは食べ物もそうです。


そのように風情は身近にあるものです。観光名所で得られるものではありません。


別に桜や紅葉の名所に行くことが悪いとは思いませんが、それらは遊園地に行くことと大差ありませんし、風情というより娯楽です。娯楽とは日常からはずれることです。あるいは日常を忘れることです。それに対して、風情は日常に寄りそっているものです。私はそう思っています。


もちろん娯楽より風情の方が優れているわけではありません。優劣をつけるためには基準が必要ですし、それらを比べるのは難しいと思います。ビーナスとピーナッツではどちらが優れているかの答えが出ないのと同じです。




『明窓浄机』


これは、自分の部屋にいて気づいたことを書き留めたものです。私の家は田舎にあるので、窓から外を見たときには、数件の家と山が見えます。あとは庭の木々も見えます。そんな中で感慨にふれたことをメモしたものです。2016年のものです。


※※※


1月、夜中、寒さのためか、猫が悲哀に満ちた声で鳴いている。外を見ても、姿は見当たらなかった。


冬、朝露のためか、電線から水がぽたぽたと落ちている。道路には何かの足跡みたいに水の跡が線を作っていた。


1月、窓に結露がついて、それが太陽で光っていて、自分が動くとキラキラ輝いて、これなのだと思った。星や夜景は自分とは関係なく光っているが、窓の結露は自分の立っている位置がほんの少し変わるたびにキラキラ光る。


1月、ダンゴムシみたいなクモがいた。ふれると、脚を折りたたみ、丸くなるクモ。


2月8日、昼前、トンビが「ピー、ピー」と何度も鳴いていた。空から地上をまんべんなく探したが、姿は見当たらなかった。それでも外を見続けると、東の空に旋回している鳥を見つけて、それを眺めていると、大きな雲が流れているのが目についた。日差しは明るくて、雲は壮大な感じで、夏みたいな空だった。


2月中旬、朝、日差しが暖かい。白くて太った猫がとぼとぼ歩いていて、建物の影をさけることなく向こうに行った。猫は寒くても日差しを選ぶことはない? でも日向ぼっこはする。


2月20日、雨、庭のサンシュユ、いくつもある枝の先端にそれぞれ黄色い点がついている。


2月22日、晴れているためか、庭の木の黄色い点はくすんで見える。


2月29日、朝の7時前、いろいろな鳥の鳴き声があり、ふとウグイスが鳴く。空耳かと思い、耳をすませていると、もう三つ鳴く。下手な鳴き声だった。「ピー、ポケキョ」のピーが短く、ポではなくケにアクセントを置いていた。


3月1日、庭の木の黄色い花はまだ点のままだが、どことなく華やかさが増したように見える。


3月5日、昼、あたたかい。庭に黄色いチョウチョを見かける。網戸にカメムシを見かける。


3月6日、昼、庭の木の黄色い花は、点ではないほどに大きくなった。くもり空のために華やかに見える。


3月7日、朝、ウグイスが何度も鳴いている。(ウグイスの初鳴日、3月10日)


3月、昼、竹が気持ちよさそうにゆれていて、ふとオバケは風なのだと思った。


4月初め、黄色いチョウチョが2羽、追いかけっこをするみたいに舞っている。


4月、朝10時、屋根にスズメが2羽とまった。レースのカーテン越しに見た。これほど近くで見たのは初めてかもしれない。


4月、昼前、カラスがひょこひょこ歩いていた。道のはしまで来ると立ち止まり、あたりを観察する。「カー、カー、カー」と鳴く。それに合わせて、尻尾が上下する。とっとこと駆けだして、またひょこひょこ歩く。


4月、朝、風が強いためか、雲が勢いよく流れていく。窓をゆらすほどの風が吹くと、葉が舞う。


4月24日、朝の5時、昨夜の雨のためか、モヤがかかっている。さまざまな鳥が鳴いている。


4月30日、朝、窓に結露。


日曜日、夜8時、南の空、飛行機が赤色と黄色の光を点滅させながら進んでいる。あれに100人以上の人が乗っていると思うと、不思議な気持ちになる。あの小さな光の中に大勢の人がいて、空をゆったりと進んでいる、そう思うと――

30分のあいだに11機を見かける。2機は北へ、あとは西へ。こんなにも飛んでいたことに驚く。西の1機は山から山まで4分以上かかった。


5月、朝、空に飛行機雲がある。風で流されたのか、くねくねしたハリガネをまっすぐ伸ばしたみたいに、ところどころ曲がっている。


5月、昼、山の新緑。古い笹の黄色が目だって明るく見える。


5月7日、19時2分、向こうの外灯がパッとつく。こちらの外灯はまだついていない。19時4分、こちらもつく。


5月8日、裏の窓。皮をかぶった竹が、ほかの竹とほとんど同じくらいに伸びている。10メートルくらいか。タケノコの成長の早さに驚く。


5月11日、葉が開いたのか、皮をかぶった竹は見当たらない。皮つきのときには、ほかの竹より太く見えていたが、皮がとれたら、ほかの竹にまぎれてしまって見分けがつかない。


5月、窓ガラスにあざやかな赤色の虫を見つける。大きさは1ミリほど。8本脚なのでクモか? それとも前の2本は触覚か?


5月13日、夕方、トンボを見かける。猛スピードで向こうに去った。


5月、夕方、ほんのりと赤みがかった白い雲があり、ほんのりと青みがかった灰色の雲がある。


5月16日、激しい雨音。地面を打ちつける雨が、強い風にあおられて、向こうに走っているように見える。


5月24日、朝の4時、カラスが鳴いている。もう1羽別の鳥も鳴いている。4時30分、さわがしいほど小鳥が鳴いている。


5月27日、遠くから小学校のチャイムが聞こえる。とっさにパソコンの時計を見ると、9:59。


5月29日、雨、笹が黄緑色になっている。たしか5月初めにはくすんだ黄色だったのに、いつのまにか柔らかい黄緑色になっている。そのため、山には冬の名残はなくなった。


5月31日、朝の3時40分、三日月がにじんでいる。寝起きのためかと思い、目をこするが、そうではなく、どうやら輝きが強すぎるためか。にじみは、わずかばかり大きくなったり小さくなったり形を変える。

3時57分、小鳥が鳴き始める。西と東では空の深みがぜんぜん違う。4時18分、カラスが鳴く。


6月1日、夜の11時、ホタルが1匹飛んでいる。暗闇の中に黄色い光が浮かび、すぐに消え、また浮かび、すぐに消える。


6月23日、瓦の上に笹の枯れ葉があった。


6月29日、朝、雨、網戸にクワガタがいた。体長2cmほどのメス。2時間後、50cmほど動いていたが、まだいた。夜行性。


雨、小鳥が3羽、電線に並んでいる。ほとんど動かないが、たまに羽ばたいて、羽の雨をはらう。1羽はどこかへ行く。


深夜1時、犬が何度も吠えている。


7月2日、今年一番の暑さ、朝から汗ばむほど暑い。昼の4時、セミが鳴きだす。ジーととぎれることなく鳴く。1匹だけ。5分後、鳴き声はなくなっていた。10分後、今度は少し遠くから聞こえてきた。


7月8日、昼、小雨、気温は高くない。セミは鳴かないが、小鳥はよく鳴く。電線に小鳥が6羽、飛んでいるのが5羽か6羽か7羽か、とにかくたくさんいる。


7月13日、夕方、トンボを見かける。


7月14日、昼の1時30分、突然の豪雨。窓ガラスに大きな雨粒がつく。強い風で木々が大きくゆれる。葉の緑が涼やかな色合いに見える。15分ほどで雨はあがり、東には青空が見える。


7月18日、暑い、とにかく暑い。緑色の笹は、風でゆれて、涼やかに見える。竹林はこの時期が最も美しいのかもしれない。


7月20日、朝9時30分、ツクツクボウシが鳴く。


8月、裏の窓、軒と瓦のあしだに大きなクモの巣がある。日差しをさけるためか、クモは日中は軒に避難していて、夜になると巣の中央に戻る。


8月8日、昼、入道雲がつらなっている。微妙に形を変えながら、かすかに右に移動している。たった3分間で雲の形は違うものになった。


8月19日、夕方、ビルの3階くらいの高さに、トンボが飛んでいる。


8月24日、夜の11時前、雷なのか、南の遠い空がピカピカと光り、雲の凹凸が一瞬だけ見える。10秒から30秒ほどの間隔で。音は聞こえない。


9月5日、朝、雨の中、黄色いチュウチョが飛んでいる。


9月8日、夕方、北の窓、赤トンボがたくさん飛んでいる。10匹以上、いや、20匹以上か。夕日があたり、羽がチカチカと見える。


9月9日、4時30分、赤トンボがいない。5時、天気も気温も同じくらいなのに、まだ1匹も見当たらない。きのうはあれほど飛んでいたのに。翌日の翌々日も、赤トンボの姿は見当たらない。数日前の赤トンボを頭の中に思い描くと、幻想的に見える。


9月20日、朝、台風、大雨。昼の3時、日差しがさす。奥の雲は止まっているのに、手前の雲はすごい勢いで南西に流れている。地上には風はほとんどない。


9月23日、朝、雨、真っ赤な彼岸花が咲いている。きのうは咲いていなかったような気がする。


10月10日、10時、晴れ、飛行機の音がして、部屋の中が「カチッ」と光った。飛行機が太陽光を一瞬さえぎり、「カチッ」と光ったように感じたのだろう。実際には「光った」のではなく「陰った」のだが。


10月12日、昼すぎ、黄色とレモン色のチョウチョが追いかけっこをしている。レモン色の方が美しい。上品な色だからか?


10月18日、昼の3時、窓にカメムシ、この秋、初。


11月12日、モミジが半分くらい赤色になっている。たしか10日ほど前までは、すべて濃い紫色だった。


11月15日、ここ数日で一気に紅葉が進んだ気がする。モミジはすべて赤色になった。


11月18日、昼すぎ、2階の瓦の上にカマキリ。10センチほど。じっとしている。10分後、まだ同じ位置にいる。1時間後、20センチほど移動。2時間後、いつのまにかいなくなっている。


空から黒い羽根が落ちてきた。空を見てもカラスはいない。上の屋根から落ちたのか?


コブシの木。風により、葉がパラパラと落ちる。木の上の方の葉は茶色で、そこから下は枯れた黄色。


庭の木、クモの巣に引っかかっているのか、空中で葉がくるくると回っている。ほとんど動きがない中、その葉だけは勢いよく回っている。


11月19日、胸が淡い朱色の鳥、寒さのために、ふくれている。呼吸に合わせてか、胸がひこひこと動いている。


11月20日、コブシの木、葉はほとんど落ちた。枝が丸見えになるほど落ちた。


11月23日、寒い、くもり、強い風が吹き、ときおり枯れ葉が空から落ちる。


12月2日、朝、晴天、飛行機雲が帯になっている。


12月31日、夕方、道路で姉と弟と思われる子供がバトミントンをしている。2人の子供は石段に座って観戦している。ラリーは多くでも3回しか続かない。弟の空振りでとぎれてしまう。10分たってもまだ続けている。たしか昨年の年末にもしていた。あのときは男女混合のダブルスだった。大きい子に交代したようで、ラリーは10回近く続くようになった。ただ10回を超えることはない。




『神様がつないだもの』


今年も暗いニュースばかりあった

年末にはそんな声が聞こえてくる

なら見なきゃいいのにと思うけど

世の中にはグチが好きな人がいる


ブログを見て、知らない人を知り

そのうち知らない人を好きになる

メールを送って、返信に嬉しくて

知らない人のグチが心まで届いた


大きな声ほど野蛮で短絡的だから

小さな声に耳をすませてみては?

たとえそこのニュースが暗くても

それにはちゃんと温度があるから


「ところで君は神様を信じてる?

私はGoogle並みには信じてるよ」




『明るいニュース』


雲ひとつない快晴

360度まわっても、澄んだ青だけ

そんな空を最後に見たのはいつ?

今日も空には雲がぽつりぽつりと


雲ひとつない空の

360度の光景は写真では写せない

今という臨場感は写真に写らない

今日も空には雲がぽつりぽつりと


雲ひとつない空は

想像の中では、ウソみたいだから

だからホントの世界で見てみたい

今日も青い空には雲がちらほらと


  年 月 日( ) 時 分

雲ひとつない空を見た。




『食卓、教室、ネット上』


からかったり、ちゃかしたり

そんなことが好きな人がいる

そしてその人のとなりの人も

からかいやちゃかしが好きで

私はその人たちの近くにいた


三人いれば、空気感ができる

からかったり、ちゃかしたり

そんなことを嫌煙(けんえん)したくても

空気が支配している世界では

汚い空気の換気さえできない


でも、きっと

世界はとてつもなく広いから

自分に合った空気がどこかに




『時計を見るとき』


人間は強い

とても強い

前に進んでいるときには


人間は弱い

すこし弱い

後ろを振り返るときには

でもそこには強さがある

それを確かめて少しだけ




『つれづれ(忘れ物)』


唇のはしに何かがついている気がして、なめてみると甘かった。少しだけ考えて、それは2時間ほど前に食べたラスクの砂糖だと気づいた。2時間も唇についていたなんて!




『amazarashi』


おはようを「お早う」と書くのは何か違う

おやすみを「お休み」と書くのは何か違う


「頂きます」「御馳走様」「失礼します」

「お疲れ様」「有り難う」「御免なさい」


それらの言葉を使うときは

誰もが子供になるのだろう


ひらがなで書かれる挨拶は

意味のない音で世界を繋ぐ


(以下引用)

ごめんなさい ちゃんといえるかな?

ごめんなさい ちゃんといえるかな?

 御免なさい ちゃんと言わなくちゃ




『ことばのこころ』


「どうせ私なんか」と思うことと

「どうせ私なんか」と言うことは

どうしてだか、ぜんぜん違う


「努力は報われる」と思うことと

「努力は報われる」と言うことは

どうしてだか、ぜんぜん違う


「ありがとう」「しかたがない」

「愛している」「なんとかなる」

「だって」「でも」「それなら」

「自己責任だろ?」「死にたい」

それは伝達? それとも共感?

言葉の心もゆらいでいるのです


「ウザイ」と思うことと

「ウザイ」と言うことは似てる

「ウザイ」はきっと純粋な言葉




『心から』


世界に向けてなら

人類に向けてなら

全生命に向けてなら

心から「ありがとう」と言える、簡単に


でも

まだ

えっと

そう

きっと「ありがとう」は

幸せな人しか使えない言葉


そして「ごめんなさい」は

幸せに戻るための言葉?




『一番鳥』


深夜に目が覚めて

眠れないときには

一番鳥の声を待つ

でもいつのまにか

聞き逃してしまう




『つれづれ(ヒト)』


「ナメクジ→カタツムリ」と進化したのではなく

「カタツムリ→ナメクジ」と進化した


サルから進化した人間に体毛がないように、カタツムリから進化したナメクジには殻がない。なぜだかワクワクしてくる。




『なんだかとっても』


「なんか好き」はゆらぎがある曲線で

「とても好き」はゆらぎのない直線で

「なんか」の中から何かを見つければ

「なんか」は「とても」になるのかな


それは愛の成り立ちとか呼ばれていて

「なんか」を「とても」にする何かは

世の中では愛の本質とか呼ばれている

でも本当はそんな理屈はどうでもいい


曲線を微分したら直線になる

だから

理屈を積分したら現象になる

それで?


ほらっ、どうでもいい

でもね、何かあるから




『知らないこと』


自分の生年月日は

みんな知っている


だけど何曜日かは

たいてい知らない


その日の出来事も

その日のお天気も

その日のお月様も

何もかも知らない


誰が知ってるの?

ねえ、誰がそれを




『風とか光とか』


あたまがいたいな

つかれてるのかな

じーんとつづいて

しーんとなってる


わがままなのかな

よくばりなのかな


おわりはくるから

でもまたはじまり

じーんとつづいて

しーんとなったら




『笑い声』


遠くの笑い声にイライラするな

中心の何かが歪んでいるのかな

エレベーターの運転手みたいに

透明な存在でありたいのだけど

自分の役割を見つけられなくて

近くの笑い声が遠くに聞こえる




『つれづれ(欺瞞)』


客観的に優れた詩なんてないはずなのに、なぜか客観的に優れた詩人がいる。いつの時代にもどんな場所にも英雄が求められている。




『連動』


左手を左胸にあて

右手を首筋にあて

ライムラグを知る


私の知らない所で

世界は続いている

ゆったりと的確に


爪はいつ伸びる?

今も伸びている?

じっと見つめても


私の知らない間に

再生はくりかえす

のんびりと正確に




『謙虚』


ティッシュペーパーで鼻をかんで

それをまるめて、ゴミ箱に投げる

結果は運次第で、実力は関係ない

物事はたいていそんな感じだろう




『つれづれ(一夜限り)』


お風呂あがり、お尻に違和感があり、触ってみると、イボを見つけた。ああ、これはまさかあれか? なんて心配になった。とても心配になった。本当に心配になった。でも、翌朝にはイボはなくなっていた。きれいさっぱり消えていた。昨夜にはたしかにあったのに、どこに消えたのだろう?




『考察7(疑問と色彩)』


感性が強い子供は、さまざまな疑問を持つと思います。たとえば「魚はどうやって寝るのか?」や「どうして電車はガタンゴトンという音をたてるのか?」などです。


私はそういう子供ではありませんでした。子供の頃の私は、当たり前のことをただ当たり前なこととして受けとっていました。


20歳頃から日常的に文章を書くことようになりました。すると、だんだん色々なことが見えてくるようになりました。当たり前の中に潜んでいる不思議に気づけるようになりました。魚の睡眠や電車の音にも疑問を持つようになりました。


私は小さい頃から尾頭付(おかしらつ)きの魚を何度も食べてきましたが、長いあいだ魚に注目することはありませんでした。ただ食べていただけです。文章を書くようになって、よくやく気づきました。魚には鼻があるのです。まぶたはないのです。(魚の鼻に注目すると、なぜだか愛嬌が出てきます)


そのように、文章を書くことを心掛けて生きていると、世界が鮮明になる瞬間に出会えるようになりました。こまかいところまで目にいくようになりました。


そういう経験から、私は詩を読むことよりも詩を書くことの方が有意義だと思います(絵を描くことでもいいのですが)。何かを書こうと思って生活していると、見えてくるものがあります。日常の色に気づけることがあります。おそらく詩は読むものではなく書くものなのです。




『私の記憶力』


私は記憶力が悪いです。異常なほど悪いわけではありませんが、それなりに悪いです。


学生時代は暗記がとにかく苦手でした。そして、あのころ覚えていたことも、今では抜け落ちています。恥ずかしながら、今では都道府県さえ覚えていません。何度か数えてみましたが、頭の中には47もないです。44しかなかったり、45に増えたりします。(都道府県を言えない大人は、2割くらいはいる気がするのですが、どうでしょうね)


小学1年生と2年生のときの担任の先生の名前も覚えていません。顔も覚えていません。幼稚園の頃になると、何人の先生がいたのかも覚えていません。


人によっては過去のことをありありと思い浮かべられるそうです。印象的な出来事については、心境まで思い起こせるそうです。どの程度の人にそういう能力があるのがわかりませんが、私はぼんやりとしか思い浮かべられません。心境となると、まったく思い起こせられません。


ただ、これは記憶力というより想像力の問題かもしれません。きのう見たものでも、明確に思い浮かべることはできないのですから。


とにかく私の記憶力は悪いです。


記憶力が悪いだけならいいのですが、記憶を別のものにしたこともあります。それは無意識的にです。


小学3年生か4年生のとき、母方の祖父が亡くなりました。一緒に住んではいませんでしたし、夏休みと正月に会うほどの間柄で、しかも会ったときも淡白な関係だったので、悲しみはありませんでした。(覚えてないだけで、少しは悲しんだかもしれませんが)


その人のお葬式に出席しました。私にとって初めてのお葬式でした。お葬式の記憶はありませんが、火葬場の記憶は少しあります。焼き終えた骨を箸で骨壺に入れるとき、係の人が「これは銀歯です」と教えてくれました。私の記憶では、そうなのです。


だから長いあいだ、火葬しても銀歯は残るものだと思っていました。そして、私は銀歯が多くあるのですが(10代の頃に自暴自棄になっていたのか、歯みがきをあまりしなかったのです)、火葬されたあとに銀歯が残るのは恥ずかしいなと思っていました。


25歳頃だったと思いますが、インターネットで調べたときに「火葬されると銀歯はとけてしまう」と知りました。よく考えてみれば、当たり前ですね。ものすごい高温で焼くのですから、金属はとけるはずです。


では、あの記憶はなんだったのでしょう? どうしてあのような思い違いをしたのでしょうか? 不思議でなりません。(それとも火葬されても銀歯が残ることもあるのか?)


もしかしたら、ほかにも思い違いしていることがあるかもしれません。そういうことを考えると、過去はとてもはかないものに思えてきます。


※※※


それからついでに書いておきますが、私は犬や猫をさわったことがありません。もしかしたらあるかもしれませんが、覚えているかぎりではありません。


犬や猫をさわったことがないということは、おかしなことでしょうか? でもウサギとニワトリならさわったことがあります。小学校にウサギ小屋とニトワリ小屋があったのです。


それがどうしたってことですが、別にどうもしません。ふと、そんなことを思いました。


それから、もう一つ思ったことですが、小学校に裏山があり、そこにリンドウの花がありました。水辺にですね。小学校の裏山と言えば、栗の木があり、秋になれば、地面の落ちた栗を拾っていました。足で栗のイガを開いて、火箸で実をつまんで、ビニール袋に入れる、という風に。ふと思ったことを書きましたが、特に意味はありません。




『未来がなかった時代』


タンポポのタネを吹いた

幼いころの景色は忘れた

川でとった魚をつかんだ

幼いころの感触は忘れた


すでに幼いころの感覚は

何もかも忘れてしまった

だけど不鮮明な記憶でも

なぜだか胸には切なさが


懐かしいではなく切ない

柔らかいというより淡い

そんな夢のような記憶が

心の底でただ待っている


過去はどうしてこうまで

遠く遠くになるのだろう




『見えない光』


小さな小さな一歩をふみだすことで

何かが変わるんじゃないかと思った

でも変わったものはガラクタだけで

いらない荷物だけが増えていったな


それでもまた小さな一歩をふみだし

それしか世界を変えることはできず

小さな小さな一歩だけで生きている

誰にも知られない小さな一歩だけで




『つれづれ(感性)』


感性が強いとはどういうことか? 何気ない景色にうっとりする。絵画に感銘を受ける。映画で号泣する。旅行先で写真をとりまくる。洋服屋で何着も試着する。お友達と何時間もおしゃべりする。よく笑う。豊かな感性とは?




『現状』


頭の中には栄光があり

目の前には不安がある


きっとうまくいくはず

何度も失望したけれど

きっとうまくいくはず

そう言い聞かせるしか


光に向かって進むなら

影は必ず後ろにある!

それしかないのだから

できることはそれしか


ただ決意を言葉にして

まだ何かを怖れていて

影はいつも後ろにある

信じるしかないのだ!




『毎日』


カーテンをあければ

新しい一日が始まる

光はみんなのもので

影は自分だけのもの




『つくねんと』


幸せ:収まりたいところに収まること

平和:収まるべきところに収まること


収まりたいところと

収まるべきところが

一致したならきっと

祈る必要なんてない

神なんて必要ない!




『現象』


風はどこにあるのだろう?

虹はどこであるのだろう?

心はどこにあるのだろう?

神はどこにいるのだろう?

サンタクロースはどこに?

そして自分というものは?




『つれづれ(私の世代)』


10歳くらいのこと、クラスメイトがポケモンの話をしていた。私はポケモンをしたことがなかったので、ヒトカゲを人影と勘違いしたまま(ヒトカゲは人影ではなく火トカゲ)、話を聞いていた。そのうち私もゲームボーイを手に入れた。そして、ほんの小さなディスプレイに映しだされる、とてつもなく広い世界に魅了された。一人で何百時間も遊んだ。




『居場所』


常識的でいれば

常識的な人から好かれる


打算的でいれば

打算的な人から好かれる


狡猾でいれば

狡猾な人から好かれる


正直でいれば

正直な人から好かれる


みんな違ってみんな正しい

だから自分の好きなように


だけど卑屈でいたら

誰からも好かれない




『野望』


したいこと、と、

なしとげたいこと

その二つの違いが

重要なのだと思う

本気であるときは




『つれづれ(自己分析)』


別に自分が嫌いではない。自己嫌悪におちいることはあるが、つまり自分に嫌気がさすことはあるが、自分のことはおおかた好きである。




『教訓と反省』


強い人は正しさを決め

弱い人は正しさに従う

だから強い人を探そう

頼りにできる強い人を


傲慢な人は正しさをかため

優しい人は正しさを広げる

だからこの正しさを疑おう

あの正しさを否定する前に


決意だけは立派な私は

正しさに押し潰された

自分が信じてきた正しさに


でも結果を出さないと

言い訳になってしまう

もう発言することすら怖い




『美食家』


みんながいいと言うものを選んで

それで安心できていたあのころを

今では少し恥ずかしく思っていて


流れはいつか変わってしまうから

本当に好きなものなんてないから

だから今さえ満足していればいい


好きなものを好きなだけ食べたり

好きな時間に好きなだけ眠ったり

そうやって今さえ満足していれば


それでも将来のことを心配したり

甘いものをむだに我慢してみたり

やっぱり今だけでは安心できない




『砂漠』


「気にするな」と言われても

空をあやつることはできない

なんだかすごくイライラする

でもこの空もいつかは晴れる


心を空にたとえたのは誰か?

一番初めに思いついたのは?

おそらくエジプト人ではない

雨が恵みになる人々ではない




『つれづれ(日本的)』


どこかで聞いた話。フランス人とアメリカ人と日本人で旅行をした。雨が降っていた。フランス人は「いい景色だね」と言い、アメリカ人は「晴れていればよかったのに」と言い、日本人は何も言わなかった。




拘泥(こうでい)


自分は全く正しい

そう思いこめたら

いつもグチだけを

言ってられるのに


結局はみんな同じ

そう考えられたら

いつもテキトーに

悩んでられるのに


彼らは狂っている

そう割り切れたら

いつでも前だけを

向いてられるのに


そうはいかないし

音だけ聞いている




『私の精神安定剤』


胸に手のひらをあてても

鼓動はただただ打つだけ


だけど

首を指先で軽くつまむと

鼓動は動いているようで

別の生物みたいに思える


だから

首には何かがいるようで

私とは関係のない何かが

人的器官ではない生物が


どうしようもないときは

首を指先で軽くつまんで

その生物の命を確かめて

なぜか、いとおしく思う




『私のこと』


私の半生を書いてみます。あるいは、私の反省を書いてみます。


※※※


幼い頃は、サッカーが好きでした。川で遊ぶのが好きでした。レゴブロックが好きでした。よくペンギンを作っていました。ペンギンも好きだったのです。あとは、テレビゲームやテレビアニメや少年漫画も好きでした。


昔のことを思い返してみると、他人の存在が薄いように思います。私とサッカーがあり、私と魚があり、私とレゴブロックがあり、しかしそこには他人が出てきません。もちろん一人でサッカーをしていたのではないので、他人はいるのですが、思い返してみたところでは、他人が薄いのです。


うーん、どう説明すればいいのでしょうか?


昔は友達という存在もいましたが、それは「友達」というより「仲間」と言った方が適切かと思います。友達は一対一の関係から成り立っていますが、仲間は同じ集団に入っていて仲よくしている存在で、そこには一対一の関係はありません。要するに「みんながいて、自分がいる」という関係です。


他人の存在が薄いとは、そういうことです。「みんな」より「遊び」の方が大事だった、ということです。


ただ、一つ例外があり、兄とは仲がよかったです。まあ、一緒によく遊んでいた、ということで、兄とは友達のような関係でした。


※※※


私は見栄をはる子供でした。打算的な子供でした。どんなときでも、素直ではありませんでした。「誰もが子供の頃は純粋無垢で、いつしか汚れてしまう」と言われることがありますが、私は幼稚園にかよっていた頃には、すでにウソをついていました。自己保身や自己誇示のためのウソです。失敗を隠し、ありもしない自慢をしました。


私の最も古い記憶はこういうものです。その日はお昼前に幼稚園が終わりました。母はすでに迎えに来ていました。私は便意をもよおしていてすぐに家に帰りたかったのですが、母はほかの子の母親たちと話しこんでいて、なかなか帰ることができませんでした。我慢できなかったのでしょう、もらしてしまいました。大きい方です。私はそれをどうにか隠そうとしました。まあ、無理でした。結局、幼稚園のトイレであたふたしていたところを先生に見つかり、先生に処理してもらいました。水洗いされた下着はビニール袋に入れられ、先生はそれを私の母に「おみやげです」とわたしました。その冗談は記憶にあります。


これが最も古い記憶で、それ以前の記憶はありません。純粋無垢だった頃のことは覚えていないのです。


見栄をはることは自然なことかもしれません。自己保身や自己誇示のために自分を覆い隠すことは、ありふれた本能かもしれません。ただ、自分の問題を考えると、そういうことに注目します。


※※※


私の周囲には「嫌いなものも食べなさい」や「泣いてはいけない」という価値観がありました。私はその価値観にうまく適応できませんでした。


私は小さい頃には嫌いなものが多くありました。主に野菜が嫌いでした。夕食のとき、父親から「社会人になって上司と食事をするときに困るから、嫌いでも食べなさい。食べていると、そのうち慣れてくるから」と言われ、ぜんぶ食べるまで座っているように命じられました。私は食べたくなかったので、黙って座っていました。退屈だったので、箸を噛んでいました。だからあの頃の私の箸はよく欠けました。結局、私は食べることなく、お皿は下げられました。そういうことが何度もありました。毎日ではなかったと思いますが、多くありました。


そのうち野菜も少しずつ食べられるようになりました。それは十歳くらいのことです。家で食べる練習をしなくても、食べられるようになってきました。しかし家での食事のときには、積極的には食べませんでした。野菜を食べると家族から褒められます。私はそれが嫌でした。子供扱いされるのが嫌だったのか、上から目線な感じが嫌だったのか、それとも家族のことが好きではなかったのか、よくわかりませんが、とにかく嫌でした。だから野菜が嫌いなフリをしていました。それも一種の見栄でしょう。


私には家庭が窮屈でした。昔から家庭の空気に束縛されていました。嫌なことでも「嫌だ」と言えなかったり、したいことでも「したい」と言えなかったりしました。それでも家庭自体に問題があったわけではありません。兄も妹も家族とうまくやっているようですし、客観的に見て家族は正しい人たちだと思います。


一人暮らしをしたときに、一般的には「あらためて家族の大切さがわかった」と思うようですが、私はそうではありませんでした。まあ、とにかく家庭との相性が悪かったのです。


※※※


学校のことを書きましょう。


小学生の頃、集団登校していたのですが、その中に気にくわない子がいました。たしか二つ下の子です。私はその子に嫌味を何度か言ったことがあります。その子が嫌味をどのように受けとり、その後の人生でどのように響いたのかわかりませんが、私はその子に申し訳なく思います。もしかしたらその子は嫌味を言われたことを思いだすことはないかもしれませんが、私はこれまでの人生で何度かその子のことを思いだしました。苦い思い出として、ですね。


「いじめられた方はいつまでも覚えているが、いじめた方はすぐに忘れる」と言われることがありますが、私は例外なのでしょうか、嫌がらせをされたことより、嫌がらせをしたことをよく思いだします。程度としては「私がした嫌がらせ」より「私がされた嫌がらせ」の方がはるかに大きいのですが、よく思いだすのは嫌がらせをしたことです。(私がされた嫌がらせは集団によるものなので、いじめと言った方がいいかもしれません。ただ、そのことを根に持ってはいません)


中学生のとき、私は軽いいじめを受けていたのかもしれません。なにか曖昧な言い方ですが、じつのところ私はいじめられたと思ってはいません。人の心理として「弱い者をいじめるのはいけないが、悪い者をいじめるのはいい」というものがあると思います。私は調和を乱して、彼らをイライラさせたので、彼らは私を悪い者とみなし、私をからかったのでしょう。それはある意味では自然なことです。あるいは妥当なことです。


あれらは「いじめ」というより「からかい」といった方が適切かもしれません。とにかく、軽いものでしたし、私はいじめに悩むことはありませんでした。


※※※


私の悩みの源にあったものは、吃音だと思います。だからそのことについて書きます。


吃音はいくつかのタイプに分けられます。簡単に言うと、連発型と難発型があり、それぞれに程度があります。連発型とは第一音が連発されて出されるもので、たとえば「そそそそれは」というものです。難発型とは第一音が出にくいものです。つまり最初の「そ」が出ないので、何も言えないのです。無理に「そ」の音を出しても、にごった音になります。


私は物心ついたときから難発型の吃音でした。ただ問題は吃音だったことではありません。吃音というものを知らなかったことです。


私は「どうしてスムーズにしゃべれないのか?」と疑問に思うことはありませんでした。スムーズにしゃべれないことは知っていましたが、その理由を詮索(せんさく)することはありませんでしたし、対策を打つこともありませんでした。それが問題だったのです。


私はスムーズにしゃべれないことを不当なことだと思い、隠さなければならないと思っていました。そこには見栄もあったでしょうが、不当だと思いこんでいたことが問題なのです。もし「吃音」や「どもり」という言葉を知っていれば、不当だと思うことはなかったでしょうが、私は知らなかったのです。


このことを説明するのは難しいですが、なんとかしてみます。


説明のために、聴覚障害者を引き合いに出せてもらいます。聴覚障害者は周囲からの理解がそれなりに簡単に得られると思います。もちろん理解が得られないこともあるでしょうが、少なからず理解者が一人はいて、その人が環境を整えてくれるでしょう。子供の場合は、なおさらにそうでしょう。しかし、私の吃音はそうではありませんでした。周囲から理解されているとは思えませんでしたし、吃音に関して味方になってくれる人はいませんでした。


そもそも自分が吃音だと知りませんでした。「どうしてかはわからないが、スムーズにしゃべれない」と思っていただけです。そして、そのことを不当だと思い、隠そうとしていました。言いかえれば、理解者が一人もいなかった、ということです。


当時の私のあったのは、完全な孤立でした。ただ、理解者を求めることもなかったので、孤独ではありませんでした。あきらめていたのです。おかしなことですが、高校生の頃には、就職や結婚という選択肢がまったくありませんでした。自分は就職や結婚ができるとは思いませんでしたし、就職や結婚をしたいとも思いませんでした。将来をあきらめていました。人生をあきらめていた、と言ってもいいかもしれません。


私が通っていた小学校は、一学年十数人の小さな学校でした。だから吃音でもそれほど不便に感じたことはありません。本読みのテストや学芸会では困り、恥ずかしい思いもしましたが、学校に行くのが嫌になるほどではありませんでした。


中学生になると、一学年五クラスになりました。それに、自意識過剰という時期も重なり、学校に行くのが嫌になりました。国語や英語や社会科などの朗読がある授業は、嫌で嫌でしかたありませんでした。それでも不登校になるほどではありませんでした。


日本で学生として生活する上では、しゃべらなければならない機会はそれほど多くありません。会話は十秒以内で足りますし、十秒以上しゃべる機会は授業の朗読と発表会と受験の面接くらいです。だからスムーズにしゃべれなくても普通に生活を送ることができました。


中学生の頃からは人を避ける傾向にありましたが、家に帰ればテレビゲームがありましたし、それなりに楽しく生きていました。逃避の中にも喜びはあるのです。


※※※


高校を卒業したあとは、大学に行き、結局ひきこもりになりました。どのような経緯でそうなったのか、自分でもよくわかりません。おそらく自然の成り行きでそうなったのでしょう。


当時の私が思っていたことは「小説家になる」ということで、実際に小説を書いていました。ただ、小説家になるために、ひきこもりになったのではありません。ほかの仕事をしたくなかったので、ひきこもりになったのです。


友達がいたり、熱中できる趣味があれば、お金を稼ぐためだけに働くこともできたかもしれません。ただ、私にはそれらはありませんでした。私の生きる意味は、小説家になることだけでした。それ以外には、将来に価値を見出せなかったのです。それでも「仕事をしたくない」という気持ちが強かったのも確かです。


※※※


とつぜん終わりましたが、まあ、私の半生はこういうものです。中学校に入るくらいまでは平凡な子供で、それからは人と距離を置くようになり、ひきこもりになりました。いい思い出はありません。なつかしい思い出もありません。思い出を共有したい人もいません。何もない人生でした。


いつからか、私は自分に正直でいたいと思うようになりました。子供の頃はそんなことを思うことはありませんでした。自分の欲求に忠実でした。ウソをつくことが平気でした。正直さなんて大人の戯言(たわごと)だと思っていました。ただ、今では自分に正直でいたいと思っています。正確には「自分に正直でいたい」という欲求があります。だからウソをつくことに引け目を感じてしまいます。ここにはウソは書かなかったつもりです。少なからず意識的にはそうです。


私は自分の過去はそれほど重要ではないと思っています。ある人のことを知るためには、その人の過去より、その人の考え方や感じ方に注目すべきだと思っています。だから具体的なエピソードはほとんど書きませんでした。




『同じ情』


集中していたら

痛いのも忘れて

一息ついたとき

そっと思いだす


頭痛はたいてい

頭の左にあって

じっとしていて

休息さえ難しい




『もったいない』


同情をどうにかして売りたい

お金がほしいわけじゃないし

名誉が得られるわけでもない

だけどなぜだか売りたくなる




『We must be happy』


どこか未知の場所に行きたいけど

どこにも行けないからここにいる

世界はいつでもすぐそばにあって

ため息がでるほど完璧すぎるけど


私は幸せにならなければならない

そんな当たり前なことを確かめる

不確かな理想なんていらないから

確かなビジョンだけを頼りにして


未来のことを見すえ

今日のことを今する

明日のことは明日に

昨日のことは忘れて


そんな当たり前なことを思い描く

幸せにならなければならないから




『追憶』


これまでに何人の人と会って

何人の人と名前を呼び合って

何人の人と目を見つめ合って

何人の人と喧嘩しただろう?


再会したいと思えない人でも

どこかでふと巡り合えたなら

それはそれでステキなことで

もしもいま幸せでいるのなら




『つれづれ(ネガティブ)』


「やらずに後悔するより、やって後悔する方がいい」というネガティブな言葉。後悔するかなんて考えなくていいのに。




『年相応』


今年もまた一つ年をとりました

つねに老化しているはずなのに

この一日で一つ年をとるなんて

たいへんおかしゅうございます


大切なのはあきらめることです

踊らずに遠くから見ることです

年齢に見合った自分を見つけて

いつも同じ場所に戻ることです


食事と睡眠と笑顔と空気と今が

当たり前にあればいいのですが

そうもいかないので一生懸命に

ひたむきに呼吸を続けるのです


昨日と今日と明日の共通事項を

重ねていって当たり前にします




『わだち』


昔から雨が好きだった

部活が休みになったり

おかしなことだけれど

大きなものに支配され

選ぶことを拒んでいた




『つれづれ(やさしさ)』


小さい頃は世界は一つだったのに、いつからか世界は増えていった。でも、それがやさしさだから。


いくつもある世界。いくつもある視点。色々な私。それに気づいたら「独善」は「善」に近づくから。白黒以外の色も見つけられるから。




『Somebody Loves You』


自分らしいものを書きたい

私はいつもそう思っていた

夏のある日、ふと見つけた


自分らしいものを書きたい

夏目漱石がそう書いていた

夏のある日、愉快になった


偉大であることはすばらしいことだね

ありふれた言葉でも輝いてしまうから

夏目漱石の平凡さは普遍性と呼ばれて

ありふれた私はそれにすがってしまう


私の自分らしさが個性から脱するとき

私は世界と確かな繋がりを持つだろう

その繋がりの先には「あなた」がいて

たぶん誰もがやさしさを持ちたいんだ




『世界の中心』


いくら容姿が悪い人でも

瞳を見つめてくれる人が

そばにいたら、それだけでいい

瞳はどんな人のでも美しいから


いくら性格が悪い人でも

ひそかにささやく言葉が

そばにあれば、それだけでいい

ささやきはいつでも優しいから


「瞳をとじて」という歌

「愛を叫ぶ」という映画

悲しささえ表せない現実


見つめ合ってるときには

あなたと私だけの世界で

愛は瞳の中にあるんだね




『恋とは違う想い』


好きな季節は生まれた季節だとしたら

私とあの人の好きな季節は同じだから


そうやって共通項を増やして

そうやって世界とつながって

それでもまだ何かたりないな


「あの人」はずっと「あの人」のまま

「あの人」は「あなた」にはならない


私も誰かの「あの人」になったことが

ただ一度でも一瞬でもあったのかな?

恥ずかしながらそんなことも思ったり




『表現者の憂鬱』


わかる人だけがわかってくれればいい

そんな傲慢な態度ではいられないから

「みんな」にわかってもらいたいから

だから精神的に不安定になってしまう


愛することに意味はないが

愛することで意味が生じる

そして意味がついたのなら

「みんな」は「あなた」に


わかる人だけがわかってくれればいい

そしてわかってくれた人を愛してたい

でも誰もわかってくれそうにないから

でも誰かはわかってくれるはずだから


誰もが表現者として生きて

誰もが「あなた」を求める

「あなた」に伝わるのなら

精神は安定するはずなのに




『純粋』


純粋とは何か?

それはあなたと私の世界

自由の中で共鳴すること

好きな本を何度も何度も開くこと


あなたがいれば

私は「あなた」になれて

「あなた」になれたとき

狭い世界で小さな輝きを見つける


不純とは何か?

それはみんなと私の世界

平等の中で競争すること

好きな本の初版を欲しくなること


間違いはいつも不純の中にあるから

正しさもやはり不純の中にあるから

だからたまには純粋を手に入れたい

正しさも間違いもない世界で純粋を




『無題|(仮)』


あなたの嫌いなものをおしえて

あなたとフェアでありたいから

あなたをちゃんと知りたいから

あなたらしさを見てみたいから


私は同じことを何度も言う人が嫌いです。つまらないことを言って、一人で笑う人が嫌いです。カレーを食べるとき、スプーンで皿を鳴らす人が嫌いです。強い香水をつけている人が嫌いです。常識からはずれた人を無意識的に非難する人が嫌いです。電車で化粧する女性を陰で非難する人が嫌いです。あちらの欠点を引き合いにあげて、こちらを肯定する人が嫌いです。中国人や韓国人はマナーが悪くて、日本人はマナーが良い、そういうことを言う人が嫌いです。偽物の歌手が多くいる中で誰々だけは本物だ、そういうことを言う人が嫌いです。ニュースが報じる悲劇を気の毒だと言う人が嫌いです。老婆心が嫌いです。贈り物をわたすときに謙遜する人が嫌いです。贈り物をもらうときに謙遜する人が嫌いです。被害者意識が強い人が嫌いです。なんもかんでも他人のせいにする人が嫌いです。そういう出来事に出会うと不快に思うのです。


嫌いなものがわかれば私のことがわかるかな

この中にあなたに当てはまることがあっても

あなたはそれを隠すことなくそのままでいて

あなたを通して嫌いを克服できると思うから


いつもあなたが見当たらない

いつかはあなたを見つけたい

そのときこれに題名をつける

『私のことを好きな人へ』と




『つれづれ(希望)』


ハッピーエンドという言葉があるように、最後は幸せになれるはずだから、だから、だから前を向こう。人生は一度切り、その奇跡を信じて。




『ごゆるりと』


それでもやっぱり

今は絶望している

見えないものとか

見てみたいものを

思ってしまうから

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