プロローグ
「人生が変わるきっかけ」ていうのは人それぞれだと思うけれど、俺にとっての「それ」は引きこもりを始めたことだと思う。ただし引きこもりは「それ」の第一段階。
先の見えない人生、型にはまって生きることに俺は違和感を覚えた。周りの人間は明日があることを信じて疑わず、明日のために勉強をしたり甲子園を目指したり、時には大切な用事を後回しにしている。そんな形のないものを妄信できる人たちを俺は理解できなかった。また見下したりもした。するとどうだろう、俺は見事にボッチになった。
休み時間には何度も読んだ本のページを意味もなく捲り、変わらない結末を見届け、昼休みには一人弁当をつつく。俺を気にかけていた教師も、夏休みがあけてしばらくたったころにはそれも個性と考えることにしたようだ。そうしていつしか俺は学校に行くのをやめた。
親や担任に何度か理由を尋ねられた。そのたびに「学校に行く理由が見当たらないから」と答えた。これは本心であるし半分正解。じゃあもう半分は? これは誰にも教えることは無かった。もちろん俺自身にも。
どんな職業も働いてみると大変だというが、引きこもりもその例外ではない。母親は生類を憐れむような目をこちらに向け、父親は俺を存在しないかのように扱った。尊大なことを言っているように見せかけて結局は俺もただの高校生だ……いや、元高校生か?……、そんな態度を見るたびに心に棘が刺さり、蓄積され、重みになっていった。
引きこもりだって時に休息を求めたくなる時がある。引きこもることが職業で、労働だと仮定するならば、俺の家庭は労働基準法に抵触してしまう。もっとも多くの「正常」な人たちは今言ったことを戯言だと笑い飛ばすだろう。しかし人間は一つのことをやり続けるには集中力の限界がある。したがって俺は外に出ることを所望した。
一度昼間にコンビニへ行こうとしたことがある。平日、昼間、専業主婦の母、目が合う、逃げる。出来事をただ羅列することは余りにも容易い。だが、この一語一動には身が引き裂かれてしまうような現実が重くのしかかってくる。特に母と目が合うところなどどうだろうか、喜びとも心配とも憐憫とも取れないその眼差し。あれと十秒間も目を合わせなければならない状況にあったら、俺はあらゆる手段を用いてそれを拒否し、そして無視し続けた現実と向き合うことを選ぶだろう。たとえそれが一時間でも、一日でも。
故に俺は、昼にわずかばかりの休息を求めることはやめにした。夜は実に良い。特に二十三時を回ったあたりなどは特に良い。暗い電灯の下と淡い月光の中では人は相手の顔など注視しない。ほとんどの人が帰るべき場所へと何の疑いもなく直行するからだ。俺はただその流れとは逆の方向へ、何も考えずに流されればいい。
そんな生活が数か月続いたある日。「それ」の第二段階が起こった。
その日は特に寒かった。歩いても歩いても温まらない体、吐く息は無意味に染められていき、これがヤカンの沸騰だったらどんなに有難いことかと悪態をつきたくなるような日のこと。俺はトラックに轢かれた。
空中に吹き飛ぶ体、これが自由飛行だったらどんなによかったことだろうか。現実逃避する頭はすぐに不時着をすることとなる。全身からあふれ出る血液、電灯の下でぬめりと艶めかしく光る。鼻につく鉄のにおい、遠くで鳴ったドアの開閉音。こんなことになっているのに不思議と痛みは感じない。これが無意味な生を与えた神なりの贖罪なのだろうか。次第に歪む視界、誰かが呼ぶ声が遠く小さくなっていく。手にぽつりぽつりと冷たい何かが落ちてきた。これは……雪? それが正しいかどうか認識する視力も頭をすでに持ち合わせていなかった。ただ視界が白一色になっていく様は、あまり悪い気分はしなかった。
白い視界、白い世界。どこを見ても白一色。無機質とも手抜きとも取れないような空間がそこには広がっていた。こんな中にいると色という概念を忘れてしまいそうだ。もしかして自分の体も……? そう思い視線を胴体へと向けるがそんなことは無かった。どちらかというと赤一色だった。非現実的な世界の中で非現実的なほどの出血を見届けたことで何故かかえって安心した。マイナス×マイナス=プラスだからなのだろうか。いや、そんなのはどうでもいい。ここはどこだ? どこかの部屋の中? だとすると趣味が悪い。実用的でないし、奇妙なほど人間味が感じられない。これを人が作ったとするならば、作成者は極度の潔癖症か極度の面倒くさがりであることが推測できる。
第一白というのは目に悪い。こんなにも煌びやかな白をふんだんに使うやつは、最近のブルーライトだとかにも疎いやつなのだろう。そう思い立ち上がる。何の疑問もなく体は動いた。
足元にも目をやる。やはり代わり映えの無い白い床をしていた。
「血はついていないのか」
そんなボヤキは一切の反響も無く虚空へと消えていった。いったいここはどれだけ広いのだろうか。
「やっと目が覚めたんだ」
反響!? 振り返るとそこには、部屋に負けないくらい白いワンピースを着た女の子がいた。その笑顔も漂白剤に浸されたと錯覚するほど純白だった。
「……君は?」
尋ねる。至極当然な疑問だ。
「私?」
そういうと彼女はわざとらしく顎に右手をあて、首を傾げ、無意味にくるりと振り返り二、三歩歩き始めた。歩くたびに柔らかく揺れる金髪は、この白い世界ではまるで不釣り合いだった。
彼女はあるところでピタッと足を止め、くるりと振り返る。その動作は今までの人生の中で最もゆっくりと時が動いた。まるで号令に合わせて「回れ右」をしたかのように芯がぶれない。髪の動きは一本一本静止画のように見て取れる。一瞬まとまったり、かと思ったら離れたりと複雑な動きの集合体のように見える金のうねり。何の法則性も無いように見えて、実はすべてが計算しつくされていると言われても驚かない。そんな量子の揺らぎすらも超越しているあざとさ。振り向きざまに右手は下がり始める。しかし視線はすぐに他の場所へと向かう。横顔? そう彼女の横顔。あれはきっと美の概念なのだろう。長いまつ毛に主張しすぎることはない鼻――あの鼻は自身の役割を完全に認識しているのか?――、色素の薄い肌と調和のとれた唇。頭の中にはイデアという単語がこびりついて離れない。いままでに生まれたすべての芸術品は彼女を偶像を求めできたのだろうか。彼女という存在を全て数字で表すことができれば、きっとそれは物理学で言う統一理論が出来上がったに等しい。過去、現在、未来の調度品は全て無意味と化す。彼女の体が回転するにつれて全貌を表していく顔。その顔は横顔と何ら遜色がない。やはり美しかった。いや、これは正しくない。美しいという形容詞ではあまりにも足りない。地球上すべての言語でありとあらゆる賛美の形容詞を用いてようやく比較対象になり得るのではないのだろうか。回り始めたものは直ぐに止まる。こちらを真っ直ぐと見つめる碧い目。その純度は純水よりも澄んでいる。海の水があの瞳と同じ成分であるのならば、マリアナ海溝の底にも太陽の光が届くだろう。
「私は……神様かな?」
そう言って後ろで手を組む彼女はやはり黄金比そのものだった。