「〇」をなぞる日常
小学以来に書いた作文です。
楽しんでいただけたら幸甚です
彼には変わった習慣がある。
それは気持ちの良い朝、小鳥の囀りに目を覚ます事でなく。
それは寝室を出て朝食を済まし一人分の少ない食器を洗う事でもなく。
それは街行く人に挨拶をする事でもなく。
それは家の一角にあるタペストリーにプリントされている「○」を指でなぞる事である。
彼にはこの習慣への強い思い入れは無く、いっそ止めてしまった方が時間を他に利用できると思い、幾度か悪い癖を直すように止めようと試みたが、その度に言い表せない不安に駆られ、結局「〇」をなぞっていた。そんな彼は弱い意思の持ち主である。
彼は生い立ちは悪くなく平凡な家庭に生まれ。みんなに迷惑を掛けず当たり障りのない穏やかに人生を送ってきた。従順であり親の言われた通り大学まで出て仕事も見つけ今は立派な正式社員として働いている。もっと言うなら業績や評判はもちろん、同僚達に愛されチヤホヤされている。
そんな平凡な人生を送っていた・・・
だが、ある一時を境に彼の人生に異変が起き始めた。
最近、彼の身の回りに不思議に思えることが増えてきて。会社に出勤すると身に覚えのない仕事が回ってきている事が多々あり、仕事のミスで上司に怒鳴り散らかされる日々を過ごすようになった。時に濡れ衣を被される事もあった。溜まりに溜まった鬱憤を晴らすこともできず、ストレスを抱え込み直帰していた。
帰宅途中、いくつもの疑問や抑えきれない怒りを抱え込み自宅の前まで重い足を家まで運んだ。
家の扉まで来て心を落ち着かせる為に深呼吸をした。
ロックを外し、中に入ると電気が付いていて帰ってきたのに気づいたのか、パタパタとスリッパの音を立てておかえりなさいと愛する奥さんと子供が玄関まで迎えに来た――というのは彼の妄想である。そういう愛する家庭には憧れていたが、そもそも彼女を作った事がなかった。
くだらない妄想をした後、彼は大きな溜め息を吐き、電気をつけ、靴を脱ぎ、そのまま部屋に上がってテーブルに付くと黙々とコンビニ弁当を食べ始めた。そんな時彼は立ち上がって愛用のタブレット端末を食卓に持ってきてお気に入りの某動画投稿サイトで寂しさを紛らわし始めた。しばらくすると、満腹になって落ち着いたのか睡魔が襲って来た。今日は寝ようと自分に言い聞かせ、一通りやることを済ました。
一日の終わり――ベッドに向かおうとすると、彼は無意識に、まるで憑りつかれた様に、家の一角にあるタペストリーの前まで歩を進めた。気づくと彼は「〇」をなぞっていた。すると心が落ち着き始め、不安から解き放たれ、その日あった悪い出来事を全て忘れてしまうのであった。
・・・
次の日、鳥の囀りにより彼は目覚め数分してから目を開けるといつもとは違う部屋にいた。
急いで上体を起こして辺りを見回し始めると自分の部屋ではなく明らかに知らない場所にいた。そこは個室で特徴としては大きな窓があり、部屋の隅には扇形の小さな机がありその上に花が飾られた花瓶が置いてあった、他には一畳ぐらいのトイレやキッチンスペースもあった。
しばらくすると、彼は状況を理解したのか一息つき自分に言い聞かせた、随分現実味がある夢だと、暫くすればすぐ目が覚めていつもの日常が始まると。
心を落ち着かせた後、(長い間見てなかった)夢を満喫しようと思いベッドから降りて部屋を探索し始めた。探索してから五分したころに誰かがノックをしてきた。そのまま了承を得ることのないまま無断で誰かが扉を開けて部屋に入ってくるのを確認した。するとその人物は女性で上下ともに白色の服を着ていて上は半袖で下はスカート姿だった。その服装の形状からしてナース服その物だった。
ナースは入ってきてベッドに横になっていなければいけない人物がいないのを目認し、慌てた表情を浮かべて部屋の中を見回した。そんなに広い部屋でもないので、ナースは彼を見つけた途端に速足で彼の傍までやってきて。すぐに横になるよう指示をしてきた。彼はナースを落ち着かせる為、若さのアピールをした――横にならなくても大丈夫ですよ、何せ僕はまだ三十代ですから!だが、彼女は耳を傾けずせっせと彼をベッドまで連れて行き横にさせた後ナースは彼に忠告した。
もう若くないんですから体に気を付けてください。彼はその言葉に少々傷つき、めげずに自分の若さをアピールしつづけた。そうしていると、ナースは呆れ顔をして乱れた髪を直す為にポケットから手鏡を取り出した。まだ懲りずにアピールをしていると、ナースは身だしなみが整ったのかその手鏡を彼に向け――そこまで言うなら自分のお姿をご覧くださいと勧めた。
彼はその鏡の奥の自分を覗き込んだが、そこには見知らぬ七十代のおじいさんがいた。彼はそれが自分だと気づきのに少々時間が掛った、ナースが聞き取れるか分らないような彼は呟いた――なんだこれは?一体どういう夢なんだと。
ナースは少し不思議そうな顔をした後、その問いに答える「おじいちゃん、これは夢ではなく現実ですよ?」
彼はその答えに驚いた。まさか、夢の中にいる人物が現実と言い張るのはおかしい話だと。
するとナースはキッチンスペースに入り鍵がしてある引き出しから、注射器と液体が入った小瓶を取り出し説明を始めた。今から栄養剤を注射するとの事で、落ち着いて横になっててくださいと。
彼は少しずつだが違和感を覚えた。夢にしてはしばし現実味があり、まるで現実そのものではないのかだろうかと。いくつか疑問もあった。現実ならあの鏡越しの自分が本当だとしたら、何故四十年の記憶がないのか、何故彼は今そこにいて、ベッドで横になっていたのか。
気づくとナースは横に立っていて、(注射をするであろう場所に)アルコールを浸した綿を塗った。そして、栄養剤を打たれた瞬間、ようやく彼は気づいた――これは覚めることのない夢なのだと。
そして彼は静かに求めた、今はどこにあるか分からない、あのタペストリーを…