鉛筆すがり
考えてみれば、特に昔から勇気がある人間ではなかった。
昔から内気な少年だった僕だったから、何か行動を始めるためには願掛けのようなものにすがっていた。
そうして自分の中にある弱い部分を順応させてきた。
あらかさまにおかしなことも色々あった。文句を垂れ流したくなるようなことも色々あった。
でも僕にはそれを陰口として発散するためにもきっかけが必要だった。
そんな自分が周りを苛つかせてしまうの仕方がない話だし、それを誰かかれかのせいにするつもりもない。全ては僕の所為である。
そのためか、僕はあまり人に関わろうと考えたことはなかった。誰かに関わると、その人を例によって嫌な人間にしてしまう。
本当に嫌な人間は僕なのに。
カランカラン、カランカラン。机の上で六角柱の鉛筆を転がす。先端は、少し削られていて、一面ずつ一から六までの数字がポールペンで書かれていた。授業をする教師はそっちのけだ。
僕はこの鉛筆なしには生きられない。僕にとってのきっかけは、このサイコロ鉛筆ぽっちだった。
カランカラン、カランカラン。無意味にそれを転がすだけで安心できる。
そのちっぽけな幸福、どうしようもなく依存しているきらいがあった。
しばらくそれを続けていると、隣の席の江本は僕に小さな紙切れを寄越した。
『うるさい!』
そう書かれた紙切れを眺めたあと、江本を見ると、悲しげに微笑んでくれた。怒っているわけではないらしい。
僕はその紙切れに『ごめん』と書いて江本に返す。それを見た彼はため息をついて破り捨てた。
〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇
亀山さんという女子がいる。
一日一回、六つの数字から番号を予想して鉛筆を転がす日がある。
もしそれで当てることが出来れば、僕は彼女に伝えようと思っていた。
だが、それを決めてから一ヶ月、いまだそれは成功していない。
そんな様子を江本は「構え虎」と言ってけなした。構えたまま、動こうとはしないつまらない虎だと言われたのだ。
「その鉛筆はお前にとってどんなものだ?」
江本は帰り道でそう言った。
「ただきっかけだよ」
僕はそう答えた。江本はその答えに満足していないように顔を曲げ、「そうか」とだけ言って話を打ち切ってしまった。
「そんなんじゃあ、いつまでたっても変わんねぇなあ」
江本は僕を見て笑う。訳のわからないその言葉は、どうしてか僕の心に冷たく突き刺さった。
その冷たい矢の痛みはしばらく続いた。
雨上がりの湿っぽく冷たい風が、その痛みに酷く染みた。その風が憎たらしく、恨めしく思う。
でもその風が、本当はどこから来ているのかを考えたとき、それは的外れだと思った。
次の日の昼休み、僕は鉛筆を無くした。
ものすごい焦った。そのたった一五センチメートルの木の棒に今の僕の全てがあったのだ。
また新しいものを作ればいいだけの話だが、授業で使っているのは鉛筆ではなくシャープペンで、鉛筆はこれ一本しか持っていなかった。
これじゃあ亀山さんに告白するチャンスすら無くなってしまう。
よっぽど焦り顔をしていたのか、江本が心配そうに僕に聞いてきた。
「どうした、何かあったのか」
「サイコロ鉛筆を無くしたんだ」
「ああ」と何かに納得したように頷いた江本は僕を見てへらへらと笑っていた。
僕は気性荒めに「なんなんだ」と問うと、ふっと息を吐いていった。
「鉛筆は俺が燃やした」
一瞬彼が何を言っているのかが分からなかったが、ぐつぐつと胃の水が沸騰していくのがわかった。
だが叫べなかった。きっかけが無かったのだ。きっかけがない僕は、ただの人形だ。江本はそれを見て少し眉を動かした。
「ああ、そうかい」
僕の言葉には邪念がある。自分でしか気が付かないほどのごくごく僅かなちっぽけなもの。僕にとってはとても大きなもの。
衝撃的に緩和され、僕の中に溶け込んでいる。やがてそれは感じ取れなくなる。
江本はその他何も言わずに席についた。文句を言う権利が僕にはあるらしいが、それはどうも苦労するものだ。
鉛筆が無くなったのは事実だし、中々どうして不安定だ。
僕は周りにサイコロの代わりになるようなものが無いか探した。
それがとうとう見つからないと分かると、自然と溶けこんだはずの邪念が復活する。
「江本、燃やしたのなら、代わりの鉛筆をくれよ」
「生憎、そんなものは無い。授業では使わないのなら、今日くらいは無くても構わないだろう」
江本は勝ち誇ったかのように笑ってみせた。僕はその表情を憎たらしく思う。
多分、彼は僕にとって鉛筆がどれほど大切なものかを知っているのだ。知っているからこそ、彼は僕に嫌がらせをするのだ。
「授業で使わなくとも、僕にとっては大事なものだ。昨日言っただろう。僕にとって鉛筆はきっかけだ。あれが無いと僕は何も出来ない」
江本は僕の真剣な表情を見ても顔を変えない。僕を見下しているかのように、また、人を見ているような目ではなかった。
「なら何もしなければいい。きっかけを起こすようなことさえなければ、何も困ることはない」
「そんなことはない。僕は今日も、それが必要なんだ」
僕がそう言うと、江本は一層顔の表情をこわばらせた。呆れているような、諦めているような、そういう脱力した顔だ。
「お前にとって、きっかけってなんだ」
江本がそんなことを聞いてきた。僕はそれをそつなく応える。
「行動するためのアシストみたいなものだろ。それがどうした」
江本はやはり、僕の答えに納得が行かないようだった。ぼりぼりと頭を掻いて、彼は僕から目をそらした。
「じゃあブレーキをかけてどうする」
江本はひとりごとを言うようにそう呟いた。
〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇
放課後、とうとう辛抱たまらなくなった。
手元に無い虚無感が、手のひら一杯を満たしていた。
どうにかしたものか、何とかして、鉛筆を探さなければ、そうでないと、亀山さんが帰ってしまう。
手のひらの虚無感を押し殺すかのように手を力いっぱいに握っていると、カランカラン、カランカランと、鉛筆の転がる音がした。
音のした方に目を向けると、両先端が薄く削られた鉛筆が転がっていた。転がってきた方向を見ると、江本が鞄を背負って立っていた。
「鉛筆がなくて不安なら、それを使え。今日のところはそれで我慢しろ。明日には返せ」
そう言って教室から出て帰っていった。
僕はようやっと鉛筆を転がせるという安心感から、なんの躊躇いもなく鉛筆を拾った。
さあ、数字を予想して鉛筆を転がそう。
たったひとりになった教室で、僕は鉛筆を眺めた。数字は既に書かれている。中々気が利いている。
そう思った。
僕はその両端に書かれた数字を一通り見た。その全てが『一』だった。
首から頬の皮膚の内側にかけて、虫唾が走ったのが分かった。
その虫唾が僕の邪念とちょうどいいところで重なり、破裂した。
江本は僕の障害の全てを理解しているのだ。彼は、僕以上に僕を理解していた。彼の言う「構え虎」という僕の評価は、きっと正しい。
そのあどけないもどかしさが、江本を嫌な人間に変えていた。
彼の言いたいことは手に取るように分かった。丁寧にも両端を一で埋め尽くしたその鉛筆が、僕には無駄に重い。
でもここで立ち尽くしていては、亀山さんが帰ってしまう。僕は一日一度の通過儀礼を行った。
残念ながら予想は外れた。
江本の鉛筆は、アクセルそのものだった。
江本の鉛筆が、全てにおいて大正義だとは分かっていた。
でも僕はその全てを否定した。本当に、僕は嫌な人間であった。
〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇
次の日僕が江本に鉛筆を返したとき、「逃げ猫」という新しいあだ名がついた。その理由は言うまでもない。
新しくサイコロ鉛筆を作り直した僕は、江本に燃やされないように、二本用意した。なにがなんでもという気持ちでいた。
彼の作った『一』だけのサイコロ鉛筆は僕にとっては宣戦布告のようなものだったのだ。
「お前はどうしようもない馬鹿野郎だなあ」
「馬鹿野郎? 大体こういうものだろう」
「大体こういうものだったから、お前もそうするのか」
江本に少しだけ怒りの表情が見えた。だが宣戦布告された僕はそれに怯まない。
「そうだ」
「きっかけ、それを言い出したのはお前だぞ」
江本は僕が返した鉛筆をへし折って言った。
「最後だ。今日が最後だ」
「何が」
僕の邪念は、ただの敵意に変わっていた。そのなんとも言えないむかむかという苛立ちは、的はずれだと分かっていたとしても、押さえられるものではない。
「最後、そのままの意味だ。今日お前は、一度死ぬ」
「僕は僕のまんまだ。人になど殺されない」
この争いが、無意味だということは痛いほどに分かっていた。そうだとしても、僕にだって僕なりのプライドというものがあった。
だが、彼が何をするつもりなのかが分からなかった。江本は絶対に僕に何かを仕掛けてくる。僕には予想もつかない何かを。
そう思って、構えて待っていたのだが、それから三日、何もなかった。
僕がただ気がつかなかっただけかもしれないが、少なくとも、僕を変えようとする企みは見えなかった。江本にも変化は見られない。彼が何を思い、何をしようとしているのかが全くわからなかった。
いや、それは江本だけではない。僕自身もまた、何がしたいのかが分からずに瞑想していた。
なにやら本来の目的を失ってしまっているような気がしてならない。
僕は、皮肉にもその間いつも通りの日常を行った。毎日同じような日々を繰り返し、それが僕の安泰へと繋がっていた。まるでゼンマイだ。
そのゼンマイを、江本は無理やり止めようとしているのだ。僕は必死にそれに反抗しているようなものだ。
江本の行動に異変を感じたのは一ヶ月経った朝のことだった。
僕はいつもの様に鉛筆を触りながら学校に来て、自分の机に座った。鞄から教科書やらノートやらを取り出し、机の中に入れていたところで、中にある手紙に気がついた。
『今日の放課後の六時半、この教室に残っててください。待ってます。――亀山』
僕には焦りと興奮があった。無論喜んでいる。だが、その戸惑いのほうが優っていた。
でも期待値は高い。僕は単純なのだ。亀山さんから手紙を貰ったということだけでも上機嫌なのに、その上こんな内容では、分からないものも分かってしまう。
授業にはなかなか手につかなかった。
僕はただただ鉛筆を転がす。七日経って、江本への警戒も薄れていた。優先順位が江本から亀山と入れ替わり、僕が感じた邪念も、忘れていた。
放課後に、生徒がぞろぞろと教室から出ていき、部活やら帰宅やらで騒々しくなる。僕は出来るだけ目立たないように教室の隅で残る。隅の僕から距離を取るように、生徒達は教室から立ち去った。
六時半まではまだまだ時間があるが、緊張した僕は、その場から少しも離れることが出来なかった。
この教室の鎖は異様に強く重い。ただ錆びているわけでもなく、綺麗な金属光沢を見せていた。
しばらく動けないでその鎖の空気に拘束されていると、いつの間にか約束の時間になった。もう何も考えられなくなっていた。眼の焦点も合わないほどの余裕の無さが情けない。
戸が開いた。いよいよやってきた。だが、そこにいたのは亀山さんではない。
江本だった。
状況は一瞬で掴んだ。僕は江本に強気で言う。
「やってはいけないことがあるんだぞ」
江本はそれを無視して僕が握る手紙を奪い取った。そしてその中の便箋を取り出し、読み上げる。
「今日の放課後の六時半、この教室に残っててください。待ってます。ねえ。筆跡も全く変えていない。俺の汚い字でよく疑わなかったな」
「何が言いたい」
僕は邪念などという心のわだかまりを忘れ、相当憤慨していた。
「ここで待っているとき、告白されることを期待したんだろうが、そんな可能性は少しもない。亀山はお前のことをそんな風に認知していないことをお前だった重々理解していたはずだ」
「うるさい、黙れ」
「ここで待つとき、お前は鉛筆を持たなかったな」
江本は僕の手元を見た。僕の手に握られていたのは手紙だけだった。今その手紙さえ持っていないのだから、手ぶらである。
「おいおい、きっかけとやらはどうしたんだ。おいおい、アクセルってなんだったんだ」
江本は従来の僕を完全に殺していた。僕は知らぬ間に殺されていたのだ。
「結局、お前は言い訳が欲しいだけだったんだな。待っていれば告白されるとでも思ってたのか?」
僕は何も言えなかった。死人に口なしとは正にこのことで、僕はもうどうしようもないほど屍と化していた。
「お前が鉛筆を転がしている時、少し考えてからもう一度転がし直すときがあったよな。あれ、どうせ亀山に告白するか否かを考えて転がしてたんだろ。察するに、一つ数字を予想して、その数字が当たっていればって感じか。でもお前、予想が当たったら転がし直してただろ」
彼の言うことは全てあっていた。やはり僕の全てを理解していたのだ。
「もう一度聞こうか、その鉛筆はお前にとってどんなものだ」
「きっ、かけ、だっ、て」
僕は無理やり声を出した。体中が震える中、僕はもう壊れた機械のようだった。
江本は『一』しか書かれていない折れたサイコロ鉛筆をポケットから取り出し、僕の前に投げつけた。
「今のお前はこれみたいなものだ。選択肢が『一』つしかないのに、必死で他の道を探そうとする。いい加減に観念すべきだろう」
息が切れたように呼吸が早いが、一度大きな深呼吸をして呼吸を戻した。そしてもう、諦めた。
「それなら、頼むよ。僕のリハビリに付き合ってくれよ」
鉛筆にすがることが僕にとっては全てだった。それを見捨てた僕に残るものは、何一つなかった。
そんな廃人のような僕を見つけてくれた江本には、溢れんばかりの感謝と、無念があった。
「いいだろう」
〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇×〇
それから三ヶ月ほどが経った。鉛筆は今でもお守りとして持っている。僕は、ゲン担ぎに鉛筆の数字を予想して転がしてみることにした。予想の数字は『一』。
短くなった鉛筆を、転がす。
カランカラン、カランカラン。
出た数字は『四』だった。
僕はふっと笑って、亀山さんに、まずは話すところから初めてみようと、そう思った。
中学校の頃によくなろうに投稿していたのですが、最近はめっきり投稿しなくなり、ログインすらしていなかったので、久々に投稿してみようと思った次第です。
友達にラノベじゃないと言われました。ラノベです。