Wish You Were Here
「経年による淘汰で消えていくか否かだとか、再読に耐えうるか否かだとか、実際的な判別法は色々とあるけど、やっぱり〈人間〉が描けてるかどうかが文学とそうじゃない小説の一番の違いなんじゃないかしら。事件とは関係ない話になっちゃうけどね」
二人に触発されたのか、しっかりとした口調で意見を述べる文芸部の副部長。
「『文学は人生が一度きりであることへの反抗』って言葉があるでしょう? 作品を読むことで、一人で何人分もの人生を生きることができるのが純文学よ。でも、本格推理小説には人生が存在しない。面白さを求めれば、どうしてもリアリティが希薄になってしまうから」
「呪いなんか信じてる奴の口からリアリティって単語が出てくるとはね」
「うっさいわね!」
「おおっ!」
大江さんが伊勢さんの足の甲を踏んだ。彼は涙目で猫背になりながらも、
「さ、作品にリアリティさえあればいいんなら、私小説が最も優れた文学だってことになっちまうだろうが。フィクションの要素が強い……例えば、泉鏡花の小説には文学的価値がないのかよ」
「うっ……」
文芸部部長の反論にツインテールの彼女が怯んだ。さらに、
「近松門左衛門は〈虚実皮膜〉を唱え、事実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるとしています。虚構の要素があってこそ、作品世界が現実を超越する可能性が生まれてくるのでしょう。三島由紀夫は能楽や浄瑠璃を下地にした泉鏡花の作品に感銘を受け、その文学的価値を高く評価しています」
と、宝生さんの賛同。大江さんは「ぐぬぬ」と悔しそうな表情をにじませ、押し黙ってしまった。女帝は続けて、
「作品世界のリアリティの有無は根本的な問題ではなく、創作の姿勢こそが重要なのです。安部公房は評論集〈死に急ぐ鯨たち〉の中でこう云った主旨のことを述べています。
『小説家は未だ言葉にならざる世界に言葉で辿り着こうと努力している。つまり、小説は言語では語り得ぬものを言語で表現しようとする悪足掻きである。そして、その努力の裏にあるのは、少し例外的存在ではあるが、作者も所詮は読者の一員であるという自覚なのだ』と」
「作者も読者の一員……」
「安部公房は同著でこうも述べています。
『お前は何を書いたんだ、どういうメッセージを託したつもりなんだと聞かれても、正直言って困るだけだ。自分はあの作品の中を生き抜いたとしか答えようがない』。
この記述にも、作者は読者の一員に過ぎないと云うことが端的に表れています」
「な、なるほど」
「茫邈としたイデアへの道程や、人間感情の混沌のただ中に飛び込み、ひたすらに踠きながら、言葉と云う記号で断片を切り取る。そうして書き進むうちに作中人物が勝手な行動を起こし、物語が自ずから展開発展して行く。そんな創作姿勢が後世に残るような文学作品にはあるのでしょう。作者の用意した人工的な謎の解決が主題となっており、書き始める前から既に筋道が決まっている本格推理小説とは、この点が最も異なるのです」
「じゃあ、そこまで承知していて、あなたはなぜ本格推理小説を読んでいるの?」
首を傾げる大江さん。
「作家の仁賀克雄は〈発端の不可思議性〉〈中途のサスペンス〉〈結末の意外性〉の三つを備えたものを推理小説と定義していますが、私はそれとは別に、もう一つの定義を本格推理小説に当て嵌めています」
人差し指、中指、薬指、そして小指と順番に立てていきながら、宝生さんが述べる。
「本格推理小説は〈将棋〉の要素と〈夜の夢〉の二つを併せ持つものである――それが私の考える本格推理小説の定義です。私はどちらも好きなものですから、本格推理小説とは相性が良いのですよ」
「将棋と夜の夢……それはどういう?」
ツインテールの彼女はもっと首を傾げ、頭の上にハテナマークを浮かべた。
「推理小説は将棋やチェスによく喩えられます。実際、これらには類似した部分がとても多い」
純白のしなやかな指を将棋盤の線に沿わせながら、宝生さんは滔々と語り出した。
「将棋は高度な論理的思考を用いた勝負であり、推理小説も作者が読者を騙し果せるか、読者がその企みに気づくかと云った知恵比べの側面があります。また、将棋の定石が日々進歩を続けているように、推理小説にも先達が積み重ね、発展させてきた戦型がある点で共通しています」
「へ、へえ……」
わかったような表情を繕いながら、必死に話の内容を追っている様子の大江さん。なんだか松田先輩と俺を思い出すな。
「彼の二十則で有名なヴァン・ダインは推理小説を〈小説化されたクロスワードパズル〉だと称していますが、全体が多重性と調和を持ったそのイメージは寧ろ、盤上の駒が織りなす美しい棋譜に近い」
「ああ、なるほど。それ、なんとなく理解できるような気がするな」
いくぶん置いていかれ気味の大江さんの横から、伊勢さんが口を挟んだ。
「駒の利きが同時に複数の役割を果たしていたり、駒の一つひとつがバラバラに存在しているわけじゃなく、全体でひと塊だったり……とかね」
「ええ。そして、駒の塊や調和の中心であり、棋譜の収束点である〈詰み〉を〈謎の解明〉とすれば、探偵の推理は将棋の妙手に当たります。混沌とした世界が一瞬で秩序立った形に転換されるダイナミズム。緻密に積み上げられた論理によって導かれる、如何なる反撃をも寄せ付けぬ不動の解。そこに美を見出せるかどうかが、本格推理小説に対する好悪の分かれ目となるでしょう」
「要するに、本格推理小説に美を感じるか否かは、将棋に美を感じるか否かと性質が同じってことね。将棋の要素に関してはわかったけど、もう一つの〈夜の夢〉っていうのはなんなの?」
大江さんが宝生さんに問いかける。すると――
「『うつし世はゆめよるの夢こそまこと』だろ?」
伊勢さんが女帝よりも先に口を開いた。
「御存知でしたか」
二人は目顔で何やらわかり合った空気を醸している。
「なによ、それ」
ちょっとふくれながら伊勢さんに突っかかる大江さん。
「江戸川乱歩が残した、彼の作品を端的に表現した言葉さ。周囲を取り巻くこの現実はただの仮初めに過ぎず、裏側に際限無く広がる濃密な闇こそが本物であるってね。松田に江戸川乱歩を勧められてから、俺もそっち側のことが少しわかるようになっちまった」
「私も生前の彼に江戸川乱歩を勧められ、その怪しい程に耽美で、艶めかしい程グロテスクで、現実より尚迫真性を放つ程幻想的な、夜の夢の世界に魅了された一人です」
「よくわからないけど、一言でいえばホラー小説みたいな要素が夜の夢ってこと?」
ツインテールの彼女が二人に質すと、宝生さんが、
「概ね仰る通りですが、そこには加えて、人間の奥底に抑圧された欲望の発露や、探偵小説独特の浪漫と云ったものも包含されています。『本格推理小説とは雰囲気である』と綾辻行人は語っていますが、その〈雰囲気〉と夜の夢には共通する部分が多い」
「そういう感覚的なものと、論理的な将棋の要素がお互いにせめぎ合ってるのが、君の考える本格推理小説ってことか」
と伊勢さん。
「その通りです。将棋の妙手が美しいのは互いにルールに従って戦うからであり、駒が決められた範囲にしか動かせないからこそ価値が生まれます。逆に、夢は曖昧で論理で割り切れないからこそ読者を幻惑し酔わせます。全ての本格推理小説は〈右端が将棋、左端が夜の夢の線分上〉の何処かに位置していると想像していただければ分かりやすいかもしれません」
「作品全体が将棋の要素に傾けば夜の夢は弱まり、夜の夢に傾けば将棋の要素が弱まるってわけだな。右端と左端にいるのは具体的に言えば誰なんだい?」
「右端に位置しているのはフェアプレイを極めたエラリー・クイーンや有栖川有栖。左端に位置しているのは四大奇書の夢野久作・小栗虫太郎・中井英夫・竹本健治らです」
「ふーん。なるほど、これは結構わかりやすい整理の仕方かもしれないな」
「飽くまでも、私個人が勝手に決めた尺度ですが」
文芸部の部長はにやりと笑い、
「君、やっぱり推理小説マニアじゃないか」
「本当の推理小説マニアとは、松田主のような人間を云うのですよ」
宝生さんは腕を広げ、やれやれといった感じで頭を左右に振った。
「観月先生が我が文芸部に入部してくれれば、部のレベルが格段に向上するんだけどな」
「これからも我々に協力していただけるのであれば、前向きに検討いたしましょう」
「ははは、流石に海千山千でらっしゃる。君たちなら、松田の死に関して本当に何かを見つけ出してくれるような気がしてきたよ」
彼はうんうんと頷くと俺たちを見回し、
「一つ、いいことを教えてあげよう。君たち、現場になった屋上を見てみたくないか?」
きらりと目を光らせ、驚くべきことを切り出した。
「いきなり何を……? あんなことがあったんですから、屋上は封鎖されているでしょう」
俺が指摘すると、彼は得々とした笑みを浮かべ、
「今日の放課後、旧校舎が断水するんだよ。業者の都合だか学校の都合だかでその時間になったのか、六時半頃から七時半頃まで、屋上の水道タンクの点検があるらしい」
「まさか、点検に乗じて屋上へ潜り込めってことですか?」
「屋上へ出るドアは校舎の中からしか施錠できない。恐らく点検の間は鍵が開けっ放しになってるだろう。それに水道タンクの近くからじゃ、現場の辺りは塔屋の陰になって見えないはずだからね。上手くやればバレずに済むかもしれない」
「なるほど……」
「でも、もし発覚すれば生徒指導室に呼び出されて反省文を書かされるわよ。内申点にも影響するかも」
大江さんが俺たちに現実的な忠告をする。
「肝に銘じておきます」
俺がそう答えたところで、高らかに予鈴が響いた。もうそんな時間か。
「ギリギリになっちゃって悪かったわね。授業に遅れないように気をつけてね」
「君らみたいな後輩がいて、松田の奴は幸せ者だ。俺も応援するから頑張れよ」
「は、はい。ベストは尽くします」
俺たちは二人に情報提供に対するお礼を述べた後、3年C組の教室を辞した。
――捜査を終えて、自分たちの教室へと帰る途中。
「急げいそげー!」
「こら智慧! 廊下を走るな」
俺たちは早足で、例の告発文が貼られていた掲示板へと再び近づいていた。
なんとなくそれを意識しながら、掲示板の前まで来たそのとき、
「ん……?」
ぞくりと妙な感覚が走った。俺はぴたりと立ち止まり、周囲を見回す。
「どしたの? しょうちゃん」
智慧が振り返り、不思議そうに尋ねてきた。
「いや……今、変な気配っていうか、視線を感じたような気がしたんだけど」
「さっすが達人だね。そんなのがわかるんだ」
格闘技ファンらしい反応をする彼女。と、
「どうした。遅れるぞ」
宝生さんが俺と智慧を追い越した。
「あ、うん」
多分、何かの勘違いだろう。俺はそう思い、五時間目の日本史の授業へと頭の中をシフトし、また歩き始めた。