Forget-me-not
「あれは確か、一月九日の午前七時半頃だったかな。旧校舎二階にある、文芸部の部室に向かってる途中のことだ。二階の廊下を歩いてると、窓の外からドサッて音が聞こえた気がしたんだ」
「一つ、宜しいでしょうか」
宝生さんが質問を差し挟んだ。
「七時半とおっしゃいましたが、SHRの八時四十五分にはまだ一時間以上ありますね。なぜそんな時間から学校に?」
「朝の静謐な旧校舎の雰囲気が好きでね。学校を自分一人の所有物にしたような気分に浸りながら、本を読んだり駄文を書く習慣があるのさ。寒の入りは迎えてたけど、部室にはストーブもあるし、家は学校の近くだからすぐ来られるしね。……まあ、その日は朝から英単語の小テストがあったから、いつもより三〇分ばかり早めに来たんだけど」
「なるほど。よく分かりました」
宝生さんが納得するのを見て、伊勢さんは再び語り始めた。
「それで、ドサッて音が聞こえた気がしたから、窓の外を見てみたんだよ。最初は何も変わったものが見当たらなくて、単なる空耳かとも思った。だが、昇降口の方に目をやってみると、花壇の上に誰か人が倒れているように見えた」
ここで彼は少しうつむき、憂いを帯びた表情になった。俺もそれにつられてしまう。
友人の死の瞬間を思い出すはめになった彼の心情を慮り、こちらも相応の覚悟でことに臨まなければならないと改めて実感した。
「いや、失敬」
伊勢さんはそう言って顔を上げると、話を再開した。
「よく目を凝らしてみると、倒れているのは松田のようにも見えた。明らかに様子がおかしい。とにかく夢中で階下に走ったよ。頭には嫌な想像が渦巻き続けていた。そして花壇へとたどり着いたとき、あいつの無残な姿を認めたってわけさ」
彼は肩をすくめ、ため息をついた。向かいに座るツインテールの彼女は、いたわるような眼差しでそれを見つめていた。
「一目で首の骨が折れてるのがわかる状態だったよ。でも何も考えず、とりあえずスマートフォンで一一九番に連絡した。そのあと救急車が到着するまでの五分ちょっとの間、立ち尽くしてただ現場を見ていた」
「現場を見て、何か気づいたことはありましたか」
宝生さんが問うた。そこには、数十年間勤め上げた刑事の職業的冷淡さにも似た響きがあった。
伊勢さんはしばらく考えると、
「これは後になって冷静に判断するとそう思えたってのもあるが、自殺だと感じた。見上げたら屋上の金網に綺麗な穴が開いてたし、松田は上履きを履いていなかった。周りに上履きは見当たらなかったから、落ちた弾みで脱げたわけじゃない」
「転落する前に、彼が自分で脱いだと?」
伊勢さんはこくりと頷いた。
「あなたが御覧になったとき、彼は軍手をしていましたか?」
「してたね。なんで軍手なんかしてるんだ、と妙に思った記憶があるから間違いない」
「ふむ……。ならこれが仮に他殺であったとしても、彼が転落する前から上履きを履いておらず、軍手をしていたということは間違いないわけですね」
「まあ、そういうことになるな。俺はドサッという音を聞いてすぐ、二階から降りて花壇に駆けつけてる。犯人がいたとするなら屋上だろうから、先に転落地点へ降りて細工をすることは不可能だった」
伊勢さんは右手で歩の駒をもてあそびながら、宝生さんに同意した。
ただし、ああ言いつつも宝生さんは、彼の証言が虚偽や誤りである可能性もゼロではないと考えているようだ。先輩が転落する前から軍手をしていたことはわかっているのにわざわざ質問した辺り、しっかり証言の信憑性を試している。
「救急隊員が駆けつけてくるまで、ずっと現場にいたんですよね」
俺は先ほどの憂色をたたえた顔が演技だと思えなかったので、とりあえず、彼のことは信用して話を進めることにした。
「ああ、そうだけど」
「なら、誰か校舎から出てくる人物を目撃していないんですか? 転落地点は昇降口の近くだったみたいですけど」
彼は首を横に振った。
「旧校舎の出口は一つじゃないからね……。あのとき校舎内に誰か居たとしても、見つからずに逃げるのは簡単だと思う」
「う〜ん……なるほど。では、遺体の位置についてはどうですか? 不自然なほど校舎に近い位置に転落していたようですが」
「あぁ……確かにそうだね。遺体は屋上の縁のほぼ真下にあった。首の折れ方からして頭から転落したのは間違いないだろうから、校舎側に遺体が寄り過ぎていたかもしれない」
「そうですか。ありがとうございました」
俺は頭を下げた。
「すみません。ちょっといいですか?」
「なんだい?」
智慧が口を開き、伊勢さんの視線がそちらへ移る。
「伊勢さんは、彼が自殺したこと自体をおかしく感じたりはしてないんですか? 私にはとても、彼が自殺するような人間には思えないっていうか……」
「君たちは松田の昔からの知り合いみたいだが、俺は死の間際――より最近のあいつに、君たちよりもそばで接していた人間だ。少しは理解しているつもりさ。あいつは他人が全て理解できるほど、人間が単純じゃないってことをね」
彼はここで言葉を切った。手では相変わらず歩の駒をもてあそんでいた。
松田先輩は自分の確固とした世界を持っている人間で、何を考えているのかわかりかねるようなところがあるにはあった。だから伊勢さんの言葉には説得力を感じる。けれど、今まで先輩と過ごした時間の全てを否定されたような気がして複雑な心境だった。
智慧が再び何か言いかけたのを宝生さんは手で制し、
「貴重な御意見を賜り恐縮です」
冷静に場をとりなした。
伊勢さんはそんな彼女を見て、自身もクールダウンした様子だった。
「すまない……。俺だって本当は、松田が自殺したなんて思いたくはないんだよ」
「分かっております。貴方は私達よりも現実的に彼の死を受け止め、しっかり悼もうとなさっているだけですから」
そう応じた宝生さんの口調からは、先ほどの職業的冷淡さは消えていた。
「彼の死と云う事実を認められず、ただ気を紛らわせようとしている面があることを私は自覚しています。ですが、軽々しく探偵ごっこに興じているわけではありません。たとえ寸毫の疑問や違和感であろうとも、完全に納得できるまではやれる限りのことを尽くしたい。それが彼の死に対する我々の姿勢です」
伊勢さんは彼女の言葉に最後まで耳を傾けると、右手に持っていた駒を置き、
「そうか……」
穏やかに呟いた。
彼は俺たちに表面上協力しながらも、内心では一〇〇パーセント松田先輩は自殺したと考えていたのだろう。そこからくる俺たちとのすれ違いが、ここで少し柔らいだように見えた。
「君、確か不動くんだったね。将棋が終わってから一言も喋ってないけど、俺に何か聞きたいことはないのかい?」
ずっと窓の外の景色を眺めていた龍樹に向かって伊勢さんが呼びかけた。ちなみに、俺たちがここへ来た経緯を話した際に、宝生さんは全員の名前を彼らに告げている。
龍樹はゆらりと伊勢さんのほうを向くと、しばらく思案する様子を見せ、
「……法水大我って人についてどう思ってます?」
告発文に名前があった彼のことに触れた。
「法水か……。確かにあいつなら、松田を殺す完全犯罪を企てていたとしても驚かないよ。松田よりよっぽど何を考えてるかわからない奴だ」
法水さんが松田先輩と対立していたからか、伊勢さん自身が彼に良い感情を抱いていないのか、心象はすこぶる悪いようだ。
「そういえば、松田が転落する二、三日前に法水と言い争ってるのを見かけたな」
彼は遠くに浮かぶ文字を読み取ろうとするかのように、宙へ視線をやりながら言った。すると龍樹が、
「……それは普段からのことだと聞きましたが」
と疑問を呈した。
「いや。そのときはいつもと違って、松田の方から法水に突っかかってたみたいだった」
「つかっちゃんの方から?」
智慧が反射的に口を開く。
「何かを問いただしてるような感じに見えたな。まあ、あくまで俺の印象だが」
「転落の二、三日前ですか。少々気になりますね」
そう言って腕を組む宝生さん。
「法水は今どこかに行ってるみたいだけど、直接話したいのなら、放課後に旧校舎三階の『物理準備室』を訪ねるといい。そこがミステリー部の部室だ」
質問を先回りした情報提供に俺たちは感謝の意を述べた。
「大江。お前からはなんかあるか?」
伊勢さんは続けて、向かいに座るツインテールの彼女に言葉を投げかけた。
大江という名字は例の話を聞いておくべき七人の中にはいなかった。松田先輩と特別因縁のある人物ではないようだが。
「一応紹介しとくよ。こいつは『大江千里』。文芸部の副部長でクラス委員なんかもやってる。世話焼きで小姑みたいに口うるさい上に、意固地で短気で粗暴などうしようもないじゃじゃ馬だ」
「なんですってーっ」
半笑いの伊勢さんのスネをぷんすか怒りながら大江さんが蹴った。
「あぁっ!」
彼はスネを押さえながら、将棋盤に顔面を突っ伏してしまった。今のは当たりどころといい、鋭さといい、なかなかに高い技術の蹴りだった。多分、普段から伊勢さんを蹴り慣れてるんだろう。
「大江です。伊勢が部長としての仕事をしないので、実質私が部の仕切り役を務めています」
椅子から立ち上がり、にっこりとして彼女が言った。どうやら結構しっかり者の女性らしい。伊勢さんの女房役とでもいったところか。……こんなこと思ってるのがバレたら俺も蹴られてしまうな。
宝生家のお嬢様は、ツインテールの彼女に改めて丁寧な挨拶をすると、
「転落事件についてのあなたの御意見を伺っても宜しいでしょうか」
伊勢さんに代わって再び尋ねた。
「うーん……。私は特に事件に詳しい立場ってわけじゃないから、意見っていうほどの大層なことは言えないけど、それでもいい?」
大江さんはそう前置きすると、椅子から立ったまま話し始めた。
「松田くんが屋上から転落する三か月前に、もう一人この学校で生徒が亡くなってるのは知ってるわよね?」
「ええ。確か当時三年生の男子生徒が、旧校舎の裏にある桜の木で、首を吊っている状態で発見されたのでしたね」
宝生さんの言葉に彼女は頷いた。
ただでさえ地元なのに加え、進学を考えている高校で死人が出たのだ。もちろん、宝生さん以外のメンバーもこのことについては知っている。俺たちに松田先輩の転落がただの転落ではないというイメージを刷り込んでいる要因の一つだった。
「三か月の間に二件も学校の敷地内で自殺があったら、関連性を疑うのが普通でしょう? その首を吊った生徒は『蔵間真人』っていう名前で、私や伊勢の一年先輩だったんだけど……」
大江さんはこちらに顔を寄せ、声のトーンを心待ち低くした。
「『赤い部屋に殺される』――亡くなる前日に、そう言い残していたみたいなの」
しばらくの沈黙。一瞬、教室全体が静まり返ったかのような錯覚にとらわれた。
「なんなんですか? そのよくわからない不気味な言葉は」
俺はすぐさま質した。だが彼女は首を横に振った。ツインテールの髪がぷらんと揺れる。
「残念ながら、私にも正確な意味はわからないわ。でも、ただの首吊り自殺じゃないかもしれないってことはわかるでしょう?」
「じゃあ、その蔵間さんは自殺したんじゃなくて、誰かに殺されたかもしれないってことですか?」
「それは……」
「考えにくいだろう」
口ごもった大江さんの横から、伊勢さんの声が飛んだ。
「よく知らないが、首を吊って死んだのと誰かに絞め殺されたのとじゃ、遺体の首に残る跡が違うんだろ? なら、警察が自殺と判断した以上、彼が首を吊ったのは間違いないんだろう」
この指摘にツインテールの彼女は黙り込んでしまった。確かに、概ねその通りだが――
「首吊りに見せかけて殺害する方法が全くないわけではありません」
俺はまたしても、刑事ドラマの受け売りを述べることにした。
「へえ。そりゃどんな方法だい」
伊勢さんがなぞなぞの答えでも聞くように言う。
「いったん蔵間さんの首を手で絞めて気絶させた後、そのまま彼の体を持ち上げて、あらかじめ木に結んでおいたロープの輪に首を通すんです。睡眠薬で眠らせたりすれば、遺体に痕跡が残ってしまいますからね」
「手で首を絞めても痕跡が残りそうだが」
「両手で首をつかむようにして絞める方法――正式には扼頸というみたいですが――だと、首に内出血などの跡が残ります。でも、柔道には相手の襟を持って効率的に頸動脈を圧迫する絞め技がありますし、プロレスには背後から腕を相手の首に回して頸動脈を圧迫する絞め技があります。そのような手段を使って短時間で絞め落とせば、遺体に痕跡は残りません」
「十字絞めとスリーパーホールドだね」
智慧は両腕を交差させて襟をつかむ動作をした後、片手を曲げて胸の前でV字を作り、もう片方の手で手首を抱き寄せるようにロックした。それぞれの技の大まかな形だ。
「縊死――首吊りと同じロープの跡が首に残る絞殺方法も存在します」
宝生さんが口を開き、さらに俺の主張につけ加えた。
「まず背後からロープを相手の首にかけ、ロープを持ったまま自分の背中と相手の背中を密着させます。その形で上体を倒しながらロープを引き、相手を背負うようにして絞め上げる絞殺方法です。地蔵背負いと呼称されており、推理小説にはしばしば登場します」
「ほう。流石に松田の弟子たちってわけだ」
伊勢さんはしばらく感心したような素振りを見せていた。しかし、
「確かに、他殺の可能性が理論上ゼロパーセントじゃないってことはわかった。ただ彼の死については、考慮しておかなければならない点が一つある」
そう言って、俺や宝生さんの顔を見回した。
「蔵間さんは当時、自殺してもおかしくない精神状態なのが、誰の目にも明らかだった」
「そうね……。彼はそのとき、色々と追い詰められていたみたいだから」
生前の蔵間さんと親交があったのだろうか。大江さんが目を伏せた。
「追い詰められていた、といいますと?」
「全ての引き金になったのは、彼の両親の離婚だ」
離婚という単語に智慧の表情が微かに曇った。
「何が原因なのかまではわからないが、父親が母親に手をあげたりするのは日常茶飯事だったようだ」
伊勢さんは重苦しい口調で説明を始める。
曰く、ちょうど今から一年前の四月に蔵間さんの両親は離婚したという。彼を引き取った母親は、法律上再婚が可能となる半年後にすぐ別の男性と再婚。再婚相手の男性には連れ子がいて、再婚相手も母親も、その連れ子の方だけに目をかけていたらしい。蔵間さんは再婚相手や連れ子とうまく馴染めないばかりか、実の母親からまでも疎外され、家庭内には居場所がなかったとのことだった。
「去年の十月に彼は家を出て一人暮らしを始めた。親権者には扶養義務があるから生活費の心配はなかったようだが、その頃からガクンと学校の成績が落ちたみたいでね。三年生の十月ともなれば、嫌でも受験を意識しなきゃならない時期だ」
「家庭の問題のストレスに受験のプレッシャーが重なってしまったわけですか」
俺は今は居ない母さんのことや、受験前の何をしても楽しくない暗鬱な気分を思い出した。
「ああ……。死の数日前から彼の様子がおかしかったことは、複数の人間が証言している」
「授業中、急に何かから逃げるように走って教室を出ていったり、休み時間に誰もいないところにぶつぶつと話しかけたりしてたみたい」
伏し目がちのまま大江さんが言った。
「赤い部屋に殺されるという言葉はむしろ、彼の切羽詰まった精神状態を示しているといえるだろう。やはり自殺であることは疑いようがない」
伊勢さんはちらりと向かいの彼女へ視線をやる。
「た、確かにそうだけど……」
大江さんは意見を認めつつも、もどかしげな表情を浮かべていた。
「他殺の可能性に拘っていらっしゃるようですね」
と宝生さん。松田先輩の自殺に疑問を持っている俺たちの境遇と似たようなものを感じたのかもしれない。すると――
「いや。こいつのはそれともちょっと違うんだ」
扇子の彼が曰くありげに否定の言葉を述べた。
「どう云う意味でしょうか?」
「この件は事情が特殊でね」
椅子を前に引き、やおら座り直す伊勢さん。
「まあ、ちょっとした与太話だよ。眉に唾でもつけて聞いてくれ」
彼は机の上に肘を立てて両手を組み合わせると、その上に顎を乗せた。この動作でなぜか、纏っている雰囲気が今までとは異質なものになったような気がした。
「そもそも、こうして蔵間さんの自殺に話題が移ったのはなぜだった?」
「彼の死と松田主転落事件との間に、何らかの繋がりがあるやもしれないからでしょう」
女帝が鹿爪らしく返答した。
「実は、二人の死には妙な共通点があってね。大江が蔵間さんの死をただの自殺じゃないと言い出したのも、その点に関連してるんだよ」
彼は勿体つけるように一旦言葉を切ると、間を置いてからゆっくりと口を開いた。
「――君たちは須弥山高校に伝わる旧校舎の七不思議を知っているかい?」
話が急に予想外の方向へ飛んだので、俺たちは顔を見合わせた。
「出願の前に調べていると思うが、須弥山高校の歴史は明治時代にまで遡る。今現在も使われている旧校舎は、何度か校舎の建て替えがあったとはいえ、かなり古い建物だ」
伊勢さんは同じ姿勢のまま、目だけでこちらを見た。
「その由来も、いつから広まったのかも謎に包まれているが、旧校舎には昔からそこにまつわる七不思議があってね。……その一つに『旧校舎裏の首吊り彼岸桜』というものが存在する」
「えっ……?」
俺や智慧は思わず声を漏らした。
「内容はこうだ。放課後、夜に一人だけで旧校舎の裏に行くと、古木の彼岸桜にロープの輪がぶら下がっている。それを見た者は、まるで引き寄せられるようにして自ら首を吊ってしまうという」
「その彼岸桜って、まさか……」
「ああ。……蔵間さんが首を吊った桜の木のことだよ」
「ひっ……!」
薬師さんは怯えた声を出し、その場にしゃがみ込んでしまった。そばにいた智慧が、それを見て背中をさすってあげている。
「蔵間さんは幼少時代から自分は霊感が強いと周囲に言っていたらしいの。呪術やオカルティズム、幽霊や妖怪、超常現象や都市伝説なんかに異様なまでの知識があったわ。当然、この学校の七不思議にも興味を持って、その由来について独自に調べていたみたい」
と、大江さん。
「じゃあ、大江さんが彼の首吊りをただの自殺ではないかもしれないと言ったのは……」
「ええ……。報道によれば、蔵間さんが亡くなったのは夜の七時頃みたいだから、恐らく一人で彼岸桜のところへ行ったんだと思うの。それに亡くなる数日前から、七不思議に関係した場所で何度も彼が目撃されてるし……」
「そんな……」
蔵間さんが死ぬ前に残した、赤い部屋に殺されるという言葉。急に何かから逃げるように走って教室を出ていったり、誰もいないところにぶつぶつと話しかけたりしていたこと。それらが俄かに別の意味を持ち始める。
「松田も旧校舎の七不思議にかなり興味を持っていてね。生前、小説のネタにするために色々と調べていたようなんだ」
「ま、まさか……先輩の死も七不思議に関係してるっていうんじゃ……」
恐る恐る伊勢さんに尋ねた。
「七不思議の一つに『旧校舎に増える四階』っていうのがある。その内容はこうだ。
深夜か早朝、旧校舎の屋上に一人で上がろうとすると、三階建てであるはずの旧校舎になぜか四階が増えている。そこに迷い込むと二度と生きては戻れない」
「先輩は増えた四階に閉じ込められて、さまよった挙句に帰らぬ人になった……と?」
俺は必死に話の流れへ脳を追いつかせる。
「迷い込んでいた四階が急に消えて落ちてしまったとか、四階を歩いている幻覚を見させられていて、そのまま気づかずに転落した――なんて噂されているようだ」
「気づかぬまま転落して、扉や柵が工具で破られるでしょうか」
刃物のように鋭い声で宝生さんが切り込んだ。
「七不思議の呪いを信じている人や、信じたい人からすれば、そういうのは瑣末なことなんでしょう」
大江さんは少しばつが悪そうに応じた。
「その七不思議の呪いとやらが、二人の死の共通点だと仰るのですか?」
「松田くんの死をだしにしてこんな面白半分の噂を流されたら、当然不快に思うでしょう。でも厄介なのは、七不思議通りに人が死ぬことを生前に蔵間さんがほのめかしていたことよ」
再びしばらくの沈黙。女帝を始めこの場の全員が彼女の目をじっと見据えている。
「具体的に彼がどう言っていたかまではわからないけど、事実その通りに蔵間さん自身は亡くなって、松田くんも旧校舎で命を落としているわ」
「も、もし蔵間さんの言葉を信じるなら、これからも誰かが七不思議通りに……?」
智慧に介抱されるような格好で、薬師さんが不安げにつぶやいた。
「彼、亡くなる人数までは言及してなかったみたいだから……」
大江さんは右手で髪を落ち着きなく触りながら、肯定と受け取れる答えを返す。
「ちなみにお聞きしますが、七不思議の残り五つはどんなものなんでしょうか?」
気になっていたことを話の流れで質問すると、彼女は「特定の順番がそれぞれにあるわけじゃないけど」と前置きし、
「三つ目が『美術室の血を流す石膏像』。
四つ目が『音楽室から聞こえるピアノソナタ月光』。
五つ目が『生物室の這い回るホルマリン標本』。
六つ目が『トイレから伸びる無数の手』。
そして最後が『四十九番目の部活』よ」
と七不思議の残り全てを列挙した。
「他のはなんとなくわかりますけど、最後の『四十九番目の部活』っていうのは?」
彼女はこう問い返されるのがわかっていたのだろう。スムーズに語り始めた。
「須弥山高校は部活動が盛んで、今現在、運動部と文化部合わせて四十八種類のクラブがあるわ。表向きはね。……実はこの学校にはもう一つ、秘密結社ともいうべき謎のクラブが存在するらしいの」
「ひ、秘密結社……ですか」
「もちろん、正式な部活として書類上認知されているわけじゃないわ。そのメンバーも活動の内容も一切が不明。わかっているのはメンバーが合計七人であるということと、入部の条件が現メンバーからスカウトされることだというだけ。でも大昔……それこそ校友会の時代から、水面下で今も活動を続けてるといわれているの。噂じゃ夜な夜な旧校舎のどこかの部屋で、怪しげな儀式をしてるなんて囁かれてるわ」
「それだけの長い歴史がありながら、クラブの活動内容は一切外部に漏れてないんですか? 歴代メンバーの誰からも?」
この指摘に伊勢さんが肩をすくめ、
「まあ、現実的に考えればそんなクラブは実在しないんだろうけどね。仮にそんなものが本当にあるんだとすれば、相当に口の堅い奴だけを選んでスカウトしてるのか、外部に情報を漏らせないわけでもあるのか」
「と、いいますと?」
「活動内容が他人にバレたらまずいことだとか、ね。例えば……」
彼はこちらへ身を乗り出し、
「殺人とか」
言って、唇の端を吊り上げた。
「は、はは……まさか……」
どう受け答えすればいいかわからず、引きつったような笑いを返すしかなかった。
「冗談だよ」
背もたれに体を倒す伊勢さん。
「そのクラブの閉鎖性というか、秘密であることのロマンにみんな惹かれてるわけだから、それを自分からぶち壊すようなことはしないってことだろうね」
彼は宝生さんの方へ視線を移すと、
「君、推理小説マニアだろう? なら、そういう趣向は理解できるんじゃないかな」
と問いかけた。
「そうですね。まあ、どちらかと云えば専門は純文学で、マニアを名乗るほどでもありませんが」
「へえ、意外だな。松田の知り合いだし、推理小説に詳しいみたいだし、てっきりそっちが専門なのかと思ってたけど」
「彼女は『観月鈴児』なんですよ」
俺が文芸部の二人に告げると、
「嘘!? 観月鈴児ってまさか、文芸同人誌で最近評判になってる、あの観月鈴児?」
大江さんは目を大きく開いて驚きの表情を浮かべた。
「ええ。一応」
女帝はこともなげに認める。
ちなみに、観月鈴児のペンネームの由来は、月見を意味する〈観月〉と、鈴虫の異称である〈月鈴児〉を合わせたものである。
「観月鈴児が私より年下の女の子だったなんて……」
「俺も観月鈴児の作品は読んだことがあるけど、あれなら初老の男性が書いてるって言われても信じるよ」
その分野に詳しい二人には、かなり衝撃的な事実だったようだ。
「三島由紀夫は十六歳で〈花ざかりの森〉を執筆していますからね」
と宝生さん。彼女は四月八日が誕生日なので、もう当時の三島由紀夫と同い年ということになる。
ちなみに、彼女の次に誕生日を迎えるのが八月十五日の薬師さん。以下に十二月八日の俺、一月一日の龍樹、二月十五日の智慧と続く。
「そういえば、観月鈴児は三島由紀夫に強い影響を受けているんだったね」
文芸部部長の目には、相手を試すような色が浮かんでいた。
「三島由紀夫好きが推理小説を読んでるなんて正直いって意外だな。三島は推理小説を毛嫌いしてたんだろう? なんでも、自分の作品が入った文学全集に松本清張の作品が加わることを頑強に拒んだらしいじゃないか」
「中央公論社の〈日本の文学〉の編集委員を三島由紀夫が務めていた際の一件ですね。もし清張の作品を全集に加えるのなら、自分の作品の使用を一切許可しないとまで言い放ったと聞きます」
「君はそれについてどう思ってるんだ?」
「個人的な好き嫌いも勿論あるのでしょう。同じく編集委員の川端康成は松本清張を擁護していたようですから」
「なら君は、推理小説を文学だと認めているってわけかい?」
「ポーは三島も認める発言をしていますし、乱歩の〈黒蜥蜴〉は彼の手で戯曲化がなされています。私はさらに清張や水上勉などの社会派を始め、日常で出合った謎を通して人間の営みや心の機微を描いた北村薫や加納朋子も文学であると見做しています」
「松田が好んでよく読んでいた、推理小説以外の何物でもない小説についてはどうだい? 君もけっこう読んでいるんだろう?」
「本格黄金時代の巨匠であるエラリー・クイーンやディクスン・カー。戦後日本の本格ミステリを代表する横溝正史や高木彬光。新しいところでは綾辻行人を旗手とする新本格ムーヴメントの流れを汲む作家群ですね。そもそも本格推理小説自体、目指している方向が文学とは異なりますし、評価に特殊な尺度が必要なものですからね」
宝生さんは難しい顔で腕を組んだ。どうやら、文芸部部長の観月鈴児に対する挑戦によって、彼女のスイッチが入ってしまったらしい。こうなると話が長いぞ……。
俺は覚悟を決め、小さくため息をついた。