サブスタンス
例の告発文が貼られていた南昇降口を通り、階段を上って目的の教室へと向かった。
宝生さんを先頭に、三年生の教室が並んだ長い廊下を歩いていると、沢山の上級生たちとすれ違った。須弥山高校は上履きの色で学年が判別できるのだが、ここまで来るとさすがに俺たち以外の一年生は誰もいない。
昼の校内放送では、ビートルズの〈ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー〉が流れていた。
不思議な雰囲気の曲だ。なんとなく怪しげで、だけどどこか楽しげで、何もかもが曖昧な別の世界に迷い込んだような気分にさせられる。
「そういえば、今は苺の季節だな」と、取り留めのないことを思った。
でも、この曲のストロベリーフィールズは確か、単なる苺畑のことを言ってたんじゃなかったような気もする。
俺がこのことについて智慧に聞こうと口を開きかけたとき――
「見て、すっごい美人」
智慧が俺の学ランの袖を引っ張りささやいた。
彼女の視線の方向へ目をやると、妙に存在感を放った三年生が向こうから歩いてきていた。
目鼻立ちの整った、大人っぽい雰囲気の人だった。髪は周りに編み込みの入ったシニヨンで、モデルのように背が高くスラリとしている。黒いパンツスーツを着たら似合いそうな、洗練された都会的な佇まいだ。
この高校にはあんな先輩がいるのか……。すれ違う瞬間、少しドキドキしてしまった。
智慧は彼女が遠くに行くまで、ちらちらと振り向きながら歩き、
「キレーなお姉さんだったね」
興奮気味に俺に言った。
「え? う、うん……まぁ」
薬師さんがこちらを見つめているのが気になり、曖昧な受け答えしかできなかった。
と、俺にとってはグッドなタイミングで、
「ここだ」
先頭の宝生さんが立ち止まり言った。
やっと目的の教室に到着したらしい。見上げると、入り口の枠から〈3ーC〉と書かれた表札が突き出ていた。
「早速中に入る。心の準備はいいな?」
こちらを向く宝生さん。
この人数で教室の前にいつまでも突っ立っているわけにはいかない。彼女の言葉に薬師さんが背筋を正した。
女帝は迷いなく、なおかつ静かに3のCの扉を開けた。ぞろぞろと五人で入室すると、扉の近くにいた数人がこちらを見た。
その中の一人である、背の高い坊主頭の人(野球部員か何かだろう)に宝生さんは声をかけた。
「失礼。少々お伺いしても宜しいでしょうか」
「えっ?」
坊主頭の彼は宝生さんの顔と上履きを交互に見て、目をパチクリさせた。
彼女は応答を待たず、法水さんがいるかどうかを手短に尋ねた。だが相手はあたふたしていて受け答えもいまいち要領を得ない。やはり上級生といえども、宝生家のお嬢様の美貌とオーラには緊張してしまうのだろうか。
俺は宝生さんが話をしている間に、室内の様子を観察してみた。
中にいる生徒から受ける印象もその要因だろうが、上の学年の教室というものは、なんとなく自分の教室と雰囲気が違うように感じる。
黒板に残された〈大鏡〉の文法解説、時間割りや進路ガイダンスについての情報が貼られた黒板の横の掲示板、机の上に乗った三年生用の教科書、これは俺たち一年生の教室と変わらず、何も書かれていない綺麗な後ろの黒板など、じっくりと見回していると、教壇から見て右奥の隅に位置している窓際の席の二人に目がいった。教室全体の中で、その一角だけが異様に目立っていた。
二人は机に盤を乗せて向かい合い、パチンと駒音高く将棋を指していた。周りにはギャラリーも数人いる。音からして駒も盤も木製のようだ。
二人とも駒を人差し指と中指で挟み、綺麗に指している。あの手つきからすると、将棋にはかなり慣れているらしい。
一人は男性で、扇子を手に持ってぱたぱたと動かしていた。制服の着崩し方や、ワイルドな雰囲気ただよう風貌はひと昔……いや、ふた昔も前の学生のような空気を醸し出している。脳裏には〈バンカラ〉という言葉が思い浮かんだ。
もう一人はツインテールとツリ目が印象的な、勝気な雰囲気の女性だった。黒いニーソックスを履いていて、とてもよく似合っている。脳裏には〈ツンデレ〉という言葉が思い浮かんだ。
よほど戦局が悪いのだろうか。ツインテールの彼女は険しい表情で頭を抱えていた。
なんだか無性に気になって、我慢できなくなってしまい、
「宝生さん、ちょっと向こうにいる人たちに話を聞いてみるよ」
そう告げて俺は二人の席の近くに行った。
そして、できるだけ自然にギャラリーに混じると、彼女の側から盤面をのぞきこんでみた。
なるほど……こりゃ駄目だな。頭を抱えるわけだ。
盤面は誰が見ても、ツインテールの彼女の敗色濃厚……というより、もう勝負はついてしまっていた。
竜やら馬に自陣に攻め込まれ、こちらの王はほぼ逃げ場のないところに追い立てられている。その上相手の持ち駒には飛車や金があり、どう見ても受けがない。必至がかかっていた。
にもかかわらず、自分の持ち駒は銀が二枚、桂馬が一枚、歩が三枚と一枚も金がなく、今の形からはどうやったって詰めそうにない。
「どうする? まだやるか?」
扇子の彼が勝利を確信した顔で言った。
「あーはいはい、わかったわよ。参りました」
ツインテールの彼女はやけくそ気味に答えた。
「さっさと駒戻して感想戦やるわよ」
負けたのがよほど悔しいのだろう。彼女の手が乱暴に駒の配置を崩そうと伸びた、そのとき――
「2二銀」
横からぼそりと声が聞こえた。
ツインテールの彼女の手がぴたっと止まり、向かいの彼が扇子をあおぐ動きも止まった。ざわつくギャラリー。
驚いて声のしたほうを見ると、龍樹がいつの間にかギャラリーに混じっていた。この場の全員の注目が彼に集まる。
盤に向かっていた二人も龍樹の方に鋭く視線をやると、すぐにまた盤面を見つめた。
しばらくそのまま凍ったように二人とも動かなかったが、やがて扇子の彼は、ツインテールの彼女の持ち駒から黙って銀を手に取り、龍樹の言った場所に置いた。3三の玉に王手をかけている形だ。
そして扇子の彼は自分の手番で、3二にあった金を同金と指して先ほどの銀を取った。
「4三銀成」
また龍樹が呟いた。
今度はツインテールの彼女が、5四にあった銀を龍樹の言った位置に動かす。
2二の銀を取るために金が移動したことによって、隙ができた玉の懐に鋭く駒が食い込んだ。みるみるうちに扇子の彼の表情が変わっていく。
この成銀は9八の角の紐がついていて同玉と取られることがなく、他の駒にも取られない位置にあった。龍樹の攻めを受けた彼は、扇子を閉じて膝の上に置き、青ざめた顔で身を乗り出している。まさか、あの絶望的状況から立場が逆転しつつあるというのか……?
一見すると、玉が寄った後もまだ何箇所か逃げ道があり、詰み切れそうにはない。そう思ったときふと、扇子の彼の視線が龍樹の持ち駒に注がれているのを捉えた。
俺はもしやと思い、こちら側の持ち駒にある歩の数をもう一度数えてみた。
ふ、歩の数が、足りてる……?
あまりのことに一瞬勘違いかとも思った。でも、何度確かめてもそうだ……。恐らく間違いない。
扇子の彼は苦虫を噛み潰すようにして、しぶしぶ玉を2三へ退避させた。
龍樹はすかさずそこを歩で叩き、同玉と取らせ、次は桂馬を打って、持ち駒で切れ間なく王手を続ける。一手ごと、一手ごとに、ツインテールの彼女の動作は重々しく、扇子の彼の動作は落ち着きがなくなっていく。
玉を前に出すと銀打ちで詰んでしまうので、扇子の彼は再び2三へ玉を後退させた。そこをまた二枚目の歩で叩き、龍樹は容赦なく追い討ちをかける。今度は先ほど打った桂馬が利いているため、同玉で王手を回避することはできない。玉の逃げ場は1二の一箇所しかなく、扇子の彼に選択の余地はなかった。
彼はここで急にふっと苦しみの表情を緩めると、自分の持ち駒の上に手を置き、頭を垂れた。〈投了〉のサインだ。ツインテールの彼女は、対局が終わった後も呆然と盤を見つめていた。
一度でも王手が途切れれば即負けのあんな状況から、本当に勝ってしまうなんて……。俺も眼前で起こった奇跡にただ圧倒されていた。
もし相手が投了せず指し続けたなら、一番最初の2二銀を取るために移動した、あの金が将来こちらの手に渡る。そしてそのとき、龍樹の手許には歩も一枚だけ残っているのだ。この二枚を使い切れば、ちょうどぴったりと玉を詰むことができる。
今回のような、持ち駒が一枚も残らない詰み上がりなんてそうそうあるものじゃない。読みの難度は尋常ではないはずだ。だが、俺がギャラリーに混じって盤面をのぞきこんでから龍樹の声がするまでは、三十秒ほどだった。しかも、俺と同時にのぞきこんだわけではないから、龍樹が盤面を把握し、詰み筋に気づくまでに要した時間はそれより短時間だったことになる。それだけの時間で、2二銀を打つ前の段階からこの結末を読み切ったというのか……?
「君、一体何者だい」
扇子の彼は龍樹を真っ直ぐに見据えて言った。
龍樹は何も答えない。すると、
「我々は松田主転落事件の真相を調べている者です」
後ろから宝生さんの声がした。
振り返ると、俺と龍樹を除いた女性メンバー三人が立っていた。
「あなたが伊勢大輔さんですね?」
「ああ、そうだけど」
彼は再び扇子を開き、ぱたぱたとあおぎながら肯った。
この人が伊勢大輔だったのか。驚きとともに、改めて彼とツインテールの彼女を見る。「昼休み中は確実に教室に居るであろうことが分かっている」と宝生さんは彼について語っていたが、今ならその意味がよくわかった。
宝生さんは俺たちがここに来た経緯を簡潔にまとめ、彼に説明した。
ちなみに、法水さんはこの教室にはおらず、誰に聞いても行方がわからなかったらしい。
伊勢さんは説明を聞き終えると、
「じゃあ君たち、松田が転落したときの目撃証言を聞きに来たってわけかい?」
俺たちを見回した。
「お役に立ちたいのはやまやまなんだが、俺が証言できることは、すでに君たちの知っている情報ばかりだと思う」
その声にも表情にも、残念そうな色がにじんでいた。
「それでも構いません。一先ず、その日のことを順を追ってお教え願えませんか」
宝生さんの熱心な頼みを受け、「そうかい」と彼はゆっくり頷くと、
「あれは確か――」
記憶を辿りながら話し始めた。
※棋譜参考
羽生善治 vs. 中川大輔 2007年10月1日 第57回NHK杯戦 2回戦 第11局